プロローグ 異世界からの帰還
俺はこの世界に召喚された選ばれし勇者アキト。
二十年にわたる異世界での生活を終え、元の世界に戻るところだ。
ルーン文字の描かれた白く光る魔方陣の上に立ち、辺りを見回す。
俺の見送りに来てくれる人など、ほとんどいなかった。
魔王を倒し、国王よりも国民に愛されるようになった俺は、この王国にとっては目障りでしかないようだ。あまりの扱いの悪さに目眩を覚える。
――いや、扱いの悪さは最初からだった。
この世界に召喚された最初の日に、少しのお金を渡されて『魔王を倒して来い』と言われた時に、気が付くべきだったのだ。
資金援助さえ無く、自力で敵を倒し、お金を集めて装備を買い揃えていった。
体力が減ったら、自腹で宿屋に泊って回復させる。
それがいかに理不尽であるのかなど考える事もなく。
この城には寝る場所も、装備も、お金も、何もかもそろっているのに、何ひとつ与えられるコトはなかったのだ。
だが、俺は何も文句を言わずに、言われるがままに魔王を倒した。
この美しい世界を守る為に頑張ったのだ。
けれど、そんな俺に感謝するどころか、今度はひっそりと厄介者のように、この世界から追い出したいようだ。見送りにさえ来ないところでそれが窺える。
酷過ぎる対応に、魔王になってやろうと思った事は何度もあった。
それでも我慢できたのは、いつもそばで支えてくれた人がいたからだ。
――王家の第一王女にして、正当後継者であるリノア姫。
彼女がいたからに他ならない。
可愛らしい卵型の顔に艶やかでまっすぐな長い黒髪。
ぱっちりと大きな双眸からは茶色がかった瞳が覗き込む。
彼女に見つめられたら、どんな男でも見惚れてしまうだろう。
リノア姫は思い詰めた顔を崩すと、慌てて俺のもとに駆け寄り、瑞々しい唇を俺の唇に押しつけてくる。
チュッ、と部屋の中に響く小さな音。
脳を痺れさせるような甘い匂いを漂わせ、リノア姫はゆっくりと顔を離す。
頬を朱色に染め、小さく俯いた。
「リ、リノア姫……?」
「アキト様。お元気で……貴方のことはぜったいに忘れません。どんなに遠く離れていても、私の心はつねに貴方と共にあります」
リノア姫が上目づかいに俺を見つめる。その眼には大粒の涙が浮かんでいた。
その顔をごまかすかのように、抱きついてくる。
そんな彼女の肩を俺は震える腕で何とか受けとめた。
「ありがたきお言葉! リノア姫。貴女に出会えて本当に良かった。貴女の幸運を心から願っております!」
口づけを交わしたのも、抱き合ったのも初めてのことだった。
この世界に来てから、ずっとそばで励ましてくれた愛しい相手。
その人と別れ、今日、元の世界に戻る。逃げ帰ると言うべきかも知れない。
二十年にもわたる回復魔法の多用により、俺の体細胞はすでにボロボロだ。
余命も数ヶ月と宣告され、急速に死へと向かっていく。
それでも俺は、恨みなど何もなかった。
リノア姫の隣で死ねるなら、幸せな人生だと笑って最期を迎えられるのだ。
だが、そんなささやかな願いすら、王国に疎まれた俺では叶えられなかった。
俺に優しく接する。たったそれだけの理由で、リノア姫がひどい虐待を受けていた。日に日に増える青あざ。笑顔の向こうにある憂い。
全てを知った頃には、俺の体は一人では動かせないほど悪化していた。
今の俺ではここにいるだけで、リノア姫を苦しめてしまう。ただの足枷だ。
俺はここの世界を立ち去ることを決意した。
何も出来ないなら、せめて速やかに立ち去ろう。
高校生だった俺は、すでに四十歳近くなっていた。
ろくに動けもせず、死を待つだけの体。
こんな俺を両親が見たら、どう思うのだろうか。
学校でのいじめに耐え切れず、部屋に引きこもり続け、ある日、突然姿を消した俺を、まだ息子だと思ってくれるのだろうか。
白い光が輝きを増すごとに、俺の中で不安は募っていく。
抱きしめていたリノア姫がゆっくりと俺から離れ、魔方陣の外に足を運ぶ。
まるで天使のような、どこまでも純真で神々しい笑顔に、俺は息を呑む。
リノア姫の鮮やかなピンク色の唇が開く。
「貴方の新しい人生が、光に満ちたものでありますように!」
それは鈴の音のような心地よい響きで、俺の心に染み渡っていく。
いろいろ理不尽な事はあったけど、リノア姫が笑顔でいてくれるなら、この世界に来たかいがあったというものだ。
魔方陣の光が限界まで白みを帯び、一切の音と姫の甘い匂いは消えていた。
眼を開けていられないその輝き。その白さ。思わず瞼を閉じる。
その瞬間、頭を掻きまわされるような不思議な錯覚が襲ってきた。
この世界に最初に来た時のような吐き気にも似た感覚。
それが治まると、俺はゆっくりと目を開く。
――広がった景色は、引きこもり続けた、薄暗くて汚い俺の部屋。
逢坂 彰人の人生の全てがつまった、懐かしい場所だ。
元気一杯に動く体。ふいに見た鏡に映った自分。
それは、どこまでも若く、まるで“高校生”のようだった。




