六
わずか一週間で秋は深みを増していく。
知らぬうちに気温は下がり、乾いた風は少しずつ冬の気配を帯びていく。
落葉が今日は街のほうに用事があるということで校門で別れた一人の帰り道。
先日までと同じ一人の道なのに、寂しさや、自分の輪郭が揺らぐような曖昧な感覚は不思議とない。誰も私のことをなど見向きもしない。だというのに、繋がっているとそう感じる。
色の見れなかった町並みの中にも目を向ければ花々の色や、赤い夕暮れの鮮やかな朱を見ることができる。道行く人の緑のゆったりとしたカーディガンが目に止まる。あれは、落葉に似合いそうだと。そんな事を思う。
長い、長い、古い、アスファルトの道を、歩道も整備されていないその道を歩いていく。
「羽鳥」
呼ばれて、視線を巡らせれば、先日のように後ろに新平先生がいた。そうだ、たしか下の名前は御常。
まったくもって私の周りには変わった名前の人々が多いように感じる。私は名前の平凡さに時々、別の名前だったらと思うことがある。もしもっと変わった名前であったなら、少しは私は特別であっただろうかと。
答えは出ないけれど。
「新平先生」
足を止めて軽く礼をすると先生は歩調を乱すことなく数歩で私の横に並ぶ。さりげなく車道側に立つのは教師としての勤めか。
「また、サボって野球部の観戦ですか?」
「手厳しいな羽鳥は、今日は紅白戦らしくてな、やっぱり試合は見ておかないとな」
「はぁ……?」
野球の面白みのわからない私は生返事を返すことしかできない。大人達はよく共通の話題で盛り上がるが、どうにも、私にはそういうことができそうにない。興味のあること以外に労力を裂く気になれないのだ。クラスメイトなどを観察していると、次から次にいろんな話題をやたらとこと細かく喋りあっている。その情報収集能力と記憶能力と情熱には舌を巻く。
私はせいぜい、家事と落葉と特売で手一杯である。
「羽鳥はまた一人か」
「えぇ、まぁ」
ただこの間の一人とは違う。
「先生はな、お前と枯野をどうしてもペアに思ってしまう。お前たちが別々の人間だとちゃんとわかっているのに、今日やこないだみたいに一人でいるところを見ると、おっと思ってしまう。珍しい光景でもないのにな」
先生はバリバリと後頭部をかく。
唐突に真面目な目をして、難しい顔をしながら喋り始める先生に私は少し驚く。
「うまく言えないが、二人ともなんだか一人だと消えてしまいそうに思えるんだ。だけど、羽鳥、また少し、いい顔になったな」
教師という仕事はなにやら、秘密めいている。不思議な力と、重みを人に持たせるものだ。普段は軽くおどけたような先生にもこんな一面があるのだと。私は目を丸くする。
「気のせいでしょう」
私はあまり鏡を見ない。そう、人の顔は変わるものではないし、変わったところで手のうちようはない。だから自分の顔の変化など、私は知りもしない。
「でも、この間からもう一週間だ、流動的でない人も、少しは変わるものだろう」
それに関しては少し、同意しよう。私も少しだけ臆病な性格を改善できたように思う。少しずつであれば人は変わっていくのかもしれない。微細な変化が積み上がり、やがて、その変化に気付いたとき、人は急に変化してしまったように感じるのかもしれない。
「そうかもしれません……変わるのも、悪くないものですね」
私がそう言うと先生は笑って私の頭をくしゃくしゃと撫で始める、乱暴なその手つきに思わず逃げ出す。
「セクハラですよ先生」
新平先生は快活に笑う。憎たらしい男である。
「それじゃ、俺はこっちだから気をつけて帰れよ」
「先生も咎められない様お気をつけて」
先生の背を見送る。
家まで続く、まだまだ長い、長い、アスファルトの道を、私は再び歩きだす。
放課後、鞄を手に教室を出ると、菅帳がいた。
ばったりと、というよりは、菅帳が待ち構えて居たというほうが正しいか。ともかく、私はうかつにも彼女の目の前で足を止めてしまったのだ。一目散に逃げようにも彼女の方が足が速いのはこの数日で嫌というほどわかっていた。しかし、ここで観念するのも悔しいので私はまるで気付いていなような風を装ってそのまま彼女の前を横切った。
「ちょっと、羽鳥さん」
しかし当然スルーして貰えるわけもなく、私の事を呼びながら彼女は追いかけてくる。まったくもってはた迷惑な存在である。
「羽鳥さん!」
耳元で大声で叫ばれて、耳がキンキンとする。周囲も迷惑そうに顔を歪ませているのに彼女は気にした様子もない。仕方なく大きく息を吸って、ため息を一つ。視線を彼女の方に向けてやる。私とて鼓膜の破られる感覚など体験したくはない。
「そんな近くで大声で叫ばなくても、今度はどうしました菅さん」
「枯野さんの攻略法方を教えてください」
連日、これである。
不用意に相談に乗るなどと初対面の時に言ってしまったのが運のつきだ。彼女は満面の笑みで嬉々として毎日のように私の元にやってきては、落葉の事を根掘り葉掘り聞き出そうと貪欲に私に怒鳴り続けるのである。さすがの私もたまった物ではない。
というか再びアタックを仕掛けると言っていたのは本気だったのか、落葉は近々、また苦労する事になるのだろうかと思うと、ご愁傷様である。その前に私が臨終しないかが不安であるが。
「趣味ってなんなんでしょうかね、やっぱり服装関連でしょうか。好きな食べ物とかは? やはり見た目どおり甘いもの? それとも案外渋い好みだったり?」
矢継ぎ早に繰り出される質問に辟易とする。彼女のバイタリティはいったいどこから供給されているのか。先日わんわんと泣いていた少女とは思えないその健啖さに私はあきれ返るばかりである。
「落葉のプライベートな情報を私が勝手に喋るわけにはいきません、本人に許可をとってからにしてください」
「それができたら本人に直接ききますよ、羽鳥さんの意地悪」
「意地悪で言ってるわけではありません」
その口と鼻を両手でもって塞いでしまおうかと思うくらいに彼女の質問攻めは続く。私が黙って答えないでいるというのに彼女は楽しそうにただただ答えの返らない問いを繰り出しては持論を展開し、推理を繰り広げ、落葉への妄想を広げていく。恋は盲目というが、彼女は放っておけば一人でも恋愛を楽しめるのではないかと本気で思ってしまう。
しかし放っておこうにも私が足を速めるとかけてついてくるし、かといって彼女に落葉の事を語って聞かせるのもなんだか負けを認めたみたいでしゃくである。仕方なく私は彼女の声を右から左へと聞き流しながら一階の下足場まで降りてくる。
まだ人の少ない下足場。その先、校門の間を抜けてゆく後姿が目に飛び込む。
揺れる美しい黒髪。
私は靴を履き替えるのももどかしく慌ててかけだす。
「あ、羽鳥さん!」
ゆっくりと靴を履き替えていた菅帳は慌てて私を追いかけようとして、転んだらしい。軽くうめくような声が聞こえるが、振り返る気にはなれなかった。古来から逃げるときに振り返ってはいけないという逸話は数多く残されている。
大げさな事を考えながら私は走る。
彼女が追いかけてくる様子はない。恐らく、落葉の存在に気付いたのだろう。彼女はあの一軒以来まだ落葉に不用意に話しかけるのを躊躇っているようだった。その分しわ寄せが私に来ているのでなんともいえないのだが。
校門を出て少しいったところに落葉の姿がある。
寂れた道を行くぴんと背筋を伸ばしたその後姿は写真に収めるだけできっと素晴らしい一枚になる。
息を整えながらその横に並ぶ。
「菅さんは放っておいていいの?」
「いいの」
落葉はそう、と頷くとそれきり黙りこんだ。
私より背が低いのに落葉の歩く速度は速い。
単純に身長に対して足が長い、というのもあるが落葉はいつも少し早足気味だ。その割りに傍からみて余裕のある歩き方に見えるのだから、不思議なものだ。私もその歩く速さにはもうすっかりと慣れていて、横に並んで歩いても置いていかれるような事はない。
変わらない、同じ速度。
隣に落葉が居る。それだけで、自分の存在を確かに感じる。
風の音、二人分の足音、時折道を過ぎ去っていく、車の騒音。
交わす言葉がなくとも、沈黙は苦痛ではない。
私はその顔を眺めているだけで満たされる。
なんともいえぬ、一連の騒動に決着がつくと、再び私達の世界は静けさと平穏を取り戻した。
とはいえ全て元通りというわけでもない、菅帳という、まことにかしましい少女が時折とおり雨のようにやってきては言葉を雨霰のように投げつけては去っていく。それも慣れてしまえば景色の内の一つにすぎない。
気の速い夕焼けが落葉の部屋の中を真っ赤に染め上げる。
ベッドの上で落葉は雑誌のページをめくり、時折付箋を貼っていく。
私はその顔をただ、眺めている。
少しずつ、少しずつ、日が翳っていく。
美しいその顔を翳らせていく。
急に不安になる。
あれほど確かな落葉の存在が、掠れ、消えてしまいそうな。闇に飲まれて、二度と戻ってこない。そんな不吉な予感を感じる。
「落葉」
名前を呼ぶと、落葉は顔を上げる。
いつもの少し気だるげな瞳。
「柚子」
いつもと同じささやき返してくる声。しかし、不安は晴れない。落葉の存在を確かめたくて、恐る恐るその顔に手を伸ばした。柔らかな頬に指先が触れる。落葉の頬は冷たく、私の指の熱が落葉の存在を確かに感じさせる。その熱を伝えていくかのように、落葉の輪郭をたしかめるようになぞる。
落葉の口から擽ったそうな吐息が漏れる。
額が触れそうなほど顔を近づけてその瞳をのぞき込む。落葉の瞳には私がうつっている、私の瞳にも落葉がうつっている、そのはずだ。
美しい落葉の顔が目の前にあるとくらくらとする。大切な、大切な、私の落葉。
「柚子」
真っ赤な唇が震える。
「どうしたの、そんなに不安な顔をして」
「落葉が消えてしまいそうな気がして」
私の言葉に、落葉は驚いたように、いや、泣きそうな顔をして、それ以上喋ることなく。私の髪を梳いた。
落葉の細い指先が触れると、その場所から私の輪郭をなぞるように、はっきりと自分が、落葉がそこに居る事を感じられた。それでも妙な不安は胸の中にあって消えることはない。
刻々と夜が近づいてくる。部屋の中を闇が埋めていく。
人は変わっていく。
その流れはたとえゆったりであったとしても。
変わる事も悪いことではない。
ただ、この時間は、私達の時間だけは、変わらないでいて欲しい。ずっとそのままであって欲しい。
互いの目に映るその理想が揺らがぬようにと。目に焼き付けるように私達はじっと見詰め合っていた。
言葉は時を動かす。
だから黙って、ただ時よ止まれと私は漠然と願う。
真っ暗になった部屋の中、互いの姿は映らない。この闇が晴れたとき私達は変わらぬままでいられるのだろうか。わからない。指先から伝わる落ち葉の輪郭と、私の髪を梳く落葉の手の体温だけが、互いにその場に居ることだけを伝えてくれる。
このまま夜が明けなければいいと、私は思う。
落葉も、きっと。