五
放課後になると、もはやため息を吐くのも疲れて、真っ直ぐに学校を出て帰路についた。
秋の日暮れは速く、つい先日までまだまだ明るかったこの時間ももう幾分、暗い。これから先どんどんと日は短くなっていくだろう。落葉の好きな冬がやってくる。
冬は厚着で自分の体系を隠しやすいし、暗いとあまり目立たずにすむからと落葉が嬉しそうに語っていた事を思いだす。多分そんな理由で冬が好きな人間は落葉位しかいないだろう。
私は冬が嫌いだ。寒いし、このあたりの冬は厳しい。ろくに整備の行き届いていない街だから一度積もると冬の終わりまで雪はうず高く道の端に残る。汚れた雪は目にも美しくないし。邪魔臭い。
気付くとやはり落葉の事を考えてしまう。
結局今日も顔を会わせる事ができなかった。このまま疎遠になって終わりなんてことは考えたくなかった。とおまきに落葉を眺めるだけで残りの高校生活を終えるなど、それはどんな拷問よりも私の心を抉るだろう。
そうして連鎖的にあの少女……菅帳と言ったか、彼女はあの後結局どうしたのだろうかと、ふっと思いだす。そういえばハンカチも貸したままだ。別にそれはいいのだが。
特に学校で騒ぎがあったわけでもなさそうだったし、あのあと彼女は多分まじめに授業に出たのだろう。それなら、まぁべつに構わない。実害さえなければ何をやってくれても私の知ったことではない。ただ彼女がどうして涙したのかは、未だによくわからない。最初からすこし変わった奴だとは思っていたが。なんとも変な人間である。落葉ほどではないが。
そもそも、変わっているのと特別であることは似て非なるものであるから、彼女に憧れるようなことはない。
まぁあの周りを気にしない自由さは少し、羨ましくはあるが。
少しでも私に彼女のような気質があれば、あるいは、もう落葉と普段通りに話せていたのではないだろうか。他愛のない会話でもいい、いっそ話すことがなくとも、隣にあの美しい生物がいるだけで、私はそれで満たされるのである。
灰色の雲、空の色を映す暗い海、葉を落とした木々の隙間、色のない秋の街並は私の心をそのまま映したかのように、かわいて、色がない。
私は色のない世界で一人ぼっち。
消えてしまいそうな気がする。
私があるべき形を誰かがしめしてくれなければ。
携帯が震える。
思考から抜け出して画面を確認すれば、知らない携帯からの着信。
一体誰だろう。
といっても私の番号を知っている人間など片手で足りる。この番号はその誰とも一致しない。
間違い電話だろうか。
考えている間も携帯は震え続けている。
不気味に思いながら私は携帯をポケットに戻す。情けない話だが少し、怖い。間違い電話ならそのうち切れるはずだ。そう思って私は再び歩みを再開する。人通りの少ない、海沿いの裏道。相変わらず潮の臭いが鼻につく。
犬の散歩をするおばさんとすれ違い、それからしばらく、下校途中の小学生たちとすれ違い。それでもまだ携帯は震えている。いい加減相手の根性に辟易とする。
怖いけれど出るべき、なのだろうか。
悩んでいる間も携帯は震える。
例えばここで、携帯がふっと止まったとして、私はどうするだろう。正直いまさら、知らない振りを決め込むことはできない気がする。じゃあかけなおすのだろうか? 迷って迷って、そうして私はずっと携帯の液晶を睨みながらどうしようどうしようと悩んでいる。そう、多分ずっとそうしている。
それはだって、今の私の置かれている状況と一緒だから。
出なければいけないと、思った。
変わらなければ、でなければ、私は、落葉ともう、関われない。そんな気がしたから。
意を決して私は通話ボタンを押した。
恐る恐る携帯を耳元へ。
一体誰なのだろうか。
何かの悪戯だろうか。
あるいは詐欺?
なんだっていい。
私は出たのだ。一歩を踏み出したのだ。わからないことへと。もう恐れるものはないはずだ。
息を呑んで。
と、携帯の向こう側からも、同じように、息を呑むを音が聞こえた。
胸が高鳴る。
「柚子?」
耳に飛び込んできたのは聞きなれた声。
久しぶりに聞いた、か細い、掠れた、美しい声。
「落葉……?」
一週間ぶりに言葉を交わす。胸が一杯になる。一体どういう事態にあるのか、それよりも何よりも、落葉を近くに感じることが、まだ切れていなかったことが、なによりも、大きく心の内をしめている。
聞きたい事はあったけれど、うまく言葉でてこない。
言葉を捜して、息を吸って、口に出そうとして、しかし、何も言えずまた言葉を捜す。
「柚子、急いで助けて」
落葉の切羽詰まったその短い言葉に、さらに混乱する。助けて? どうしたの、いったい落葉に何があったの?
「どこに、いけばいい?」
「学校、多分くればわかる」
「わかった」
私はもどかしく走り始める。
落葉が助けを求めている。
それだけで十分だ。
事態を把握するのは後でいい、今はただ落葉の安全だけが最重要だ。
なぜもっと速く電話にでなかったのか、もっと速く行動に移せなかったのか。そんな後悔をしている暇も惜しい。
今はただ、ひび割れたアスファルトに足を打ちつけ、ただ、走る。
体が熱い。
乾いた風が、肌を冷ます。
私という形を感じる。
荒い息を整えるのももどかしく学校の敷地に入ると、あたりを見回す。しかし落葉のいうそれらしい影は見えない。一体何が起きているのか。途方にくれてはぁと息を吐くと。ポトリと目の前に紙飛行機が落ちてきた。
ノートを切り取られて作られたらしきそれは一体どこから飛んできたのか。考えるより速くそれを手にとって開く。そこには校舎の見取り図が丁寧に書き写され、校舎裏、まれに園芸部が花を気まぐれに植える花壇のあたりに鮮やかな赤い丸が描かれていた。
それだけで十分だ。
最近すっかりなりを潜めていると思ったが、どうやら落葉をひっそりと見守る会は未だに存続しているらしい。有難いような、迷惑のような。一体全体彼らは私達の事をどこまで知っているのか、知りたいような、怖いような。まぁ今だけは感謝して、私は再びかけだす。そう広くない校舎だ。すぐに私は目的地にたどり着く。
そこには、困り果てた落葉が居た。
花の植えられていない、乾いた土がむき出しなままの花壇がぽつんぽつんと点在するその中ほど、落葉があの少女、菅帳と向き合って、なんとも言いがたい表情で彼女の頭を撫でている。
菅帳の方はというと、お昼に見たときのようにわんわんと泣いていて、落葉はその隣でげんなりと疲れたような、困り果てて泣きそうな、そんな表情をしている。
私は予想外のその光景に拍子抜けしながら、ゆっくりと二人の下へ近づいていく。
足音で気付いたのか、落葉が振り返る。
「柚子」
「落葉、これはいったいどういう状況で?」
私がきくと落葉は困ったように頭をかく。
「この子何とかして欲しいのよ。帰ろうとしたら急に呼び止められて連れ込まれたかと思うと急に泣きだして」
私に対したのと同じ事をしたというわけか。とんだエキセントリックな少女だ。しかも泣きっ放しで手がつけられない。せめてまともに会話をしなければと、私は落葉の隣にしゃがみこむと菅帳と視線を合わせてその頭を軽く撫でてやる。
「で、どうしたのですか菅さん。これがあなたの責任とやら、なのですか?」
「ち、ちがぁ……うっ……」
顔を上げた彼女の顔は涙やらなにやらでぐしゃぐしゃでひどい有様だ。泣きはらした目は赤く。頬も朱に染め、まるでりんごのようだと、場違いな事を思う。
「泣いていては何もわからないの。説明して貰える?」
少しきつくいうと、制服の袖で涙をごしごしとぬぐいながら、多少落ち着いてきたのか彼女はたどたどしく話し始める。
「その……えっと、私は、枯野さんに告白したくて……というか、して」
「振ったわよ」
間髪いれず切って捨てるように落葉がいうと、彼女は再び瞳に涙を貯めて、また今にも泣き出しそうになる。慌てて私はあやすように背中をたたいてやる。まったく手間がかかる。
「それで?」
「それで……まぁ仕方ないかなって思ってたんだけど、次の日から二人とも一緒にいないし、私、ただ枯野さんと仲良くなりたかっただけで、二人の仲を悪くしたかったとかそういうわけじゃなくて……」
ゆっくりと、搾り出すように、彼女は自分の言葉を探しながら、小さく言葉を連ねていく。
「二人一緒じゃないと、おかしいというか、とにかく、私のせいで、二人が今みたいな状態でいるの、嫌なの。だからこのとおり謝るから、仲直りしてほしい」
こてんと、頭を下げた彼女に、私は落葉と目を見合わせる。
どちらともなく、ふっと顔が緩む。
なにかも、馬鹿らしく思える。そんな、そんなことで彼女はこんなに大泣きしていたというのか。ああ、やはりこの少女は、変わり者だ。私には理解しがたい。ただ、彼女が、悪い人ではないのだと、なんとなくわかる。
「落葉、ごめん」
「私も、柚子、ごめん」
小さな互いに聞こえるだけの声で私達は言葉を交わした。
こんなに簡単な事を、私はずっとできないでいた。
こんなに簡単な事で、心がこれほどまでも、落ち着くというのに。
少しだけ、ほんの少しだけ、私はこの少女に感謝してもいいのではないかと、そう思う。
「ん、大丈夫ですよ、私達、別に喧嘩してたわけじゃないですから」
「わかったら泣きやんで、ほら、その不細工な顔洗ってきなさい」
落葉の手を借りて立ち上がった菅帳は、瞳に涙を貯めながらも、なんとか
泣きやんで、時折肩を震わせる。
「ほんとに、喧嘩してないんですか?」
「ないない」
私がすぐに答えると、彼女は、もう一度その涙を拭い、ぎこちない笑顔で笑う。
「じゃあ、心置きなく、また枯野さんにアタックします」
あぁ、本当にこの少女は、面白いな。
心の底からそう思う。
私はクックッと腹の底から漏れる笑いを噛み殺す。
落葉は珍しくげんなりとした顔で額に手を当てている。
菅帳は、泣きはらした顔でニコニコと笑顔を浮かべて。
確かにここに居る。
秋の乾いた風が、冷たく私達の頬を撫でる。