四
俯いて一人、朝の通学路を歩く。
隣に美しい生き物はいない。
一人で歩くとやはり、私はこの世界に果たして存在しているのだろうかという疑問がふつふつとわきあがってくる。冷たい秋の乾いた風に吹き飛ばされそうなほどに、私の輪郭は不確かで、脆い。
もう一週間落葉と顔をあわせて居ない。
今回のように喧嘩をすることは何度かあったが一週間顔をあわせないのは初めてのような気がする。互いに成長するにつれ、その期間は長く、深くなっていく、そんな気がする。それはとても怖い考えのような気がして私は頭を振った。
考えながら歩く内、気付けば、落葉の家へと向かう分かれ道まで来ていた。
つい先日までなんの躊躇もなく足を向けられたその道が、今は厳重に警備された国境よりも越えがたい。
今の私には資格がない、落葉に合う資格が。
いや、資格も何も、謝らなければならないのだから、会わないことにはどうしようもないのだけれど。
私は怖いのだ、もし許されなかったらと思うと。
日に日にその不安は増すばかりで、今踏み出さねばもっと動きにくくなると、とらわれるばかりであるとわかっていて、一歩を踏み出せない。きっかけが欲しかった。大丈夫だと背中を押してくれるような、そんなきっかけが。
だが、白馬の王子様が実在しないのと同じように、そう都合よく物事は運ばないもので、全ては自分次第であり、しかし、結果は、自らの知らぬところで決まる。世界のそんな理不尽な縮図に私はただただ臆病になって引っ込んでいることしかできない。
落葉なら、自身満々にこんなときでも切り込んでいけるのだろう。
落葉は、今どうしているだろうか。みず
もしかしたらあの少女と仲良くなってしまっていないだろうか。
不安に駆られる。
新平先生の言葉を思いだす。
少し会わない内に人は変わる。
私は人はそれほど流動的ではないと返した、その考えは今も揺るがない。それでも不安で仕方がないのだ。
そもそも一週間は、果たして少しと言ってよいものだろうか。
わからない、ただ不安で、不安で。
落葉に会いたかった。
言葉を交わさずとも、顔を一目見るだけでも。
それだけで謝れる気がするのに。
たったの一週間なのに、たっただろうか、ともかく、もう随分と会っていない気がする。
瞳を閉じて、落葉、と呟く。
まぶたの裏に、はっきりと美しい微笑が浮かぶ。
記憶は色あせていない、まだ、大丈夫。
そんなおかしな確認をして、目を開くと、しっかりと一歩踏み出す。
会いたい。
しかし、学校についてしまえば会う機会はがくんと減る。
校内に確実にいるのはわかっているのにおかしな話だ。
もともと私も落葉も他に友達らしい友達は居ないから、当然休憩時間に教室から出る事はない。確実にいるのがわかっていても会いに行く機にはなれない。会いたくとも、わざわざ普段取らないような行動で目立つようなことはしたくない。落葉もその気持ちは一緒だ。
出会うことがあるとすれば互いに移動教室が重なったときに偶然、といったところだろうが、果たしてそんなことがありえるだろうか。ありえたとして、人通りのある廊下で私は謝れるだろうか。わからない。
しかし、会わぬことには何事もどうしようもない。
おもい、ため息が漏れる。
自分で作ったお弁当に手をつける気にもなれず昼休み中そうしてぼうっと過ごしていると。なにやら教室にキンと澄んだ音がしたような気がした。それは先日、事の発端となったあの少女が私に話しかけてきたときと同じ音である。
嫌な予感に視線を走らせると、やはりというべきか、ちょうど教室内に件の少女が足を踏み入れてきたところであった。しかし、まだ、私に用があると決まったわけではない。もしかしたら誰か他に彼女の仲のいい友人が居て、その友人を尋ねてきただけ、という可能性も十分にある。
しかしそんな私の希望的観測を無邪気に踏み潰すかのように、彼女はその小柄な体でずんずんと教室内の視線を少しずつ集めながら私の方へと迷いなく、歩いてくる。
今、私がしっかりと視線を上げて彼女を見れば、ばっちりと目が合ってしまうことは想像しなくてもわかる。
だから必死に、存在を、この空間から消すかの用に俯いて、気付いてないふりをしてやりすごそうとする。
「羽鳥さん」
甘い声が私の名前を呼んだ。
聞こえないふりをした。
「羽鳥柚子さん」
周囲の視線が痛かった。特別で有りたいと常々思ってはいるものの、道化になりたいなどとは小指の爪の先程も思ってはいない。渋々と視線を上げる。
間違いなく、あの少女である。
一体全体なんのようだろうか。
少なくとも私にとっていい用事でないことだけは間違いないだろう。
だから返事まではせずに、黙って彼女を見つめた。
「羽鳥さんお弁当まだ食べてないの?」
「えぇ、まぁ」
「じゃあ、食べ終わるまで待ってるから、その後ちょっといいかな?」
「いえ、いいです。話があるなら場所を変えましょう」
周囲の好奇の視線が痛い。
この少女と周囲に見つめられながら食事など、拷問以外の何物でもない。どうせ食欲もそれほどなかったし、早い所教室を出て厄介ごとを片付けるのが正解というものだろう。
「あたしは別にここでも」
少女の言葉を無視して私は黙って席を立つ。お前がよくても私がよくないのである。場所を変えるといった以上それくらい読み取って欲しいものだ。
私が教室を出ると彼女も遅れてぱたぱたと後をついて来た。
好奇の視線が追ってくる事はない。
安堵の息を吐きながら、さてどこへ行くべきかと考えて、嫌がらせに適当に歩き回ってから適当な空き教室にでも行こうと決めた。
田舎町の高校に少子化の波は一際強く当たり、我が校にはスカスカの教室がいくつかあるのだ。
階段を上り、迷うことなく歩を進める。彼女は黙ってついてくる。
階段を二回分降りたところで、彼女が眉をひそめるのがわかる。
「どこに向かってるんですか羽鳥さん」
「空き教室ですよ、目星をつけていたところがあいていなくて」
適当にごまかして、もう一度階段を上って、結局もと居た私の教室からそれほど離れて居ない空き教室へと入った。机も椅子もない教室はガランと広く、その隅まで歩をすすめて私は振り返る。
さぞ苛立った顔をしていることだろうと思って振り変えると、以外にも少女はどちらかといえば不安げな、バツの悪そうな顔をしている。怪訝に思いながらも私はようやく彼女に話をふる。
「それでなんの用ですか?」
少女はしばらく黙っていた。何かを考えているらしいことだけは、わかる。
私も同じように彼女を観察しながら黙っている。
やがて少女は恐る恐る、決心したように口を開く。
「最近、羽鳥さん、枯野さんと一緒に居ないみたいだけど」
自分の顔が歪むのがわかる、しかし、どんな顔をしているかはわからない。心の中もそれは同じで、色々な、怒りだとか、羞恥だとか、悔しさだとか、様々に入り混じった複雑な感情が私の中をぐるぐるとぐるぐると渦巻いているのだけがただわかる。
その思いをどう、口にしていいかもわからず、唇を噛んだ。
じわりと、鉄の味を感じて、かみ締めていた口の力を抜くと、自然と言葉が漏れる。
「そうね、貴方がよけいな事をしてくれたお陰でこちらは面倒なことになっているのです」
半分正しくて半分ちがう。いや、正しいのは半分の半分くらいかもしれない。結局今の事態は私の自業自得である。しかし、彼女が現れなければこのような事にならなかったのは紛れもない事実であり、理性で収まらぬ感情をぶつけるにはそれだけで十分な理由でもあった。未だ私は子供のようだ。
少女はというと、私の言葉に顔を曇らせて、なぜだか泣きそうな顔をしている。先日の反応であれば普通、喜びそうな所であるが、そもそも先ほどの質問にしても、彼女の立場であれば嫌みたらしく、愉快げにいってもよさそうなものであったはずだ、私は違和感を感じると同時に、胸中を渦巻いていた感情が徐々に大人しくなっていくのを感じる。
「どうかした?」
ずぅっと彼女が黙っているものだから私はなんとなく不安になってそう声をかけると、彼女は短く息を切るように呼吸を始め、その両目一杯に涙をためて、それを堪えようと、両手でぬぐうのだが、あとからあとから溢れてくるそれはすぐに決壊し、彼女の頬をぬらし始める。
もはや、何がなんだかわからない。
「いや、急に泣かれても、本当に、どうしたのですか……ええっと……」
名前も知らぬ少女をあやそうとハンカチを差し出してやると、彼女はそれを受け取って溢れてくる涙をしきりに拭いた。
「帳、菅帳(とばり、すがとばり)です……」
泣きながら彼女は名乗る、落葉に負けず劣らず、変わった名前である。落葉が憧れる普通の少女の名前ではない。こんなときでもそんな風に私は考えてしまう。
「で、どうしたの、菅さん」
言葉が砕ける。落葉が求める像から外れた、砕けた素。
「あ、あたし……別に、二人の仲を悪くしたいとか……そういうつもりはぜんぜん、なくて……」
後から後から彼女の涙は溢れてきて、彼女に渡したハンカチはもうそれ以上涙を吸えないようだった。一体全体なにが彼女をそんなに悲しくさせているのか、理解に苦しむ。
「ただ、枯野さんと仲良くなれたらって……別に、二人は二人のままで……」
やはりよくわからないが……ともかく、私が思っていたより彼女がそう悪い人間でないことだけは、わかった気がする。
「責任は、ちゃんととりますから……私が、説明してきます」
責任? と考える暇もなく彼女は泣きながら空き教室を走って出て行ってしまった。
嫌な予感がするものの、彼女の後を追っていってもさらにややこしい事になる気しかしなくて、もう、なるようになれと、私は天井を仰いだ。
後であの少女はひっぱたこうとなんとなく思っていると、始業のチャイムがなる。
授業が始まって彼女が思い直してくれればいんのだがと思いながら、私はとりあえず教室へと戻った。