三
放課後、いつもなら落葉の事を待って帰るところを私は荷物を纏めると一人で学校を出た。
私なりにあの少女に気をつかってやったのだ。
どうせならあの顔が泣きそうに揺らぐところを見たかった気もするけれど、わざわざ今日告白すると宣言した彼女の邪魔になるように動くというのはフェアではない気がした。
校門を出て、ひび割れたアスファルトの道路を早足で歩く。頭上で揺れる街路樹はもう随分と寂しい葉をかさかさと鳴らした。
歩けども歩けども、誰の視線を受けることもない。
となりに落葉がいなければ私はただただ地味な、普通の女子高生でしかない。それは過ぎ去っていく、日常の背景と同義だ。落葉はそんな普通になりたいといつも語るけれど、私は落葉のようになりたい、誰かの視線を集めるような特別でありたい。ただ、現実は。
誰一人、私が落葉のおまけであることに気付かない。これはなかなかに応えるものだ。
足取りは次第にゆっくりと、重くなる。
隣を過ぎ去る車に揺られる私の髪は短い。落葉の隣で落葉のように髪を伸ばすのは、私にはできそうもない。
消えてしまいそう。
不意に、そんな馬鹿げた事を思う。
はたと足を止め、ため息をついた。
考えるだけ無駄だ。
「羽鳥」
一人の私に声をかけてくるとは一体だれだろうかと不思議に思い振り返れば、見えるのは白いシャツ。頭はもう少し視線を上げねば見えてこない。若い男だ。一瞬誰だったかと思って、はっとする。
「新平先生」
新平、新平……下の名前は、忘れた。教師の苗字を覚えているだけでも私としても珍しいことなのだけど、校外ではイメージが結びつきにくいのか一瞬だれだかわからなかった。
「おー名前覚えててくれたか。枯野は未だに覚えてくれないんだがなぁ」
快活に笑うその性格と、若い男の教師ということもあって親しみやすいのか、校内ではそれなりに人気のある新任教師である彼は、なぜか落葉を執拗に構う。落葉をというよりは少し変わったところのある生徒をというのが正しいか、教師としては当然といえば当然だが、男嫌いの落葉からすれば暑苦しい事この上ないことであろう。
「落葉は男嫌いですから。それよりも校外で出会うとは珍しい」
「今校庭の整備してるから野球部が町立の運動場を借りてるから、そっちに用がな」
「野球部の顧問でしたっけ」
「いや、好きなだけだ」
なんとも、自由な教師である。仕事はいいのだろうか? まぁ私には関係のないことであるから、どうでもいいのだが。
「羽鳥こそ、枯野はどうした」
「別に、常に一緒、というわけでは」
一年の時は落葉のそれこそ飼育係のような扱いで同じクラスにされていたが、高校に入学してからはなんだかんだ大人しい落葉の行動もあってか、二年では別クラスとなり、校内で一緒にいる時間はあまりない。登校と下校は、確認して一緒に行うことが多いが、そうでない日も少なくはない。
「まぁ、お前も枯野も別々の人間だしな、そういうときもあるか」
その通りだ、どれほど互いの理想を相手に映そうとも、私達は生まれ変わることもできなければ、入れ替わることもできない。
「でも、あまり枯野から目を離してやるなよ。あいつは危なっかしいからな。少し会わないうちに人は変わるだし」
「一日やそこらで変わるほど、人は流動的ではないでしょう」
「そうでもないだろう、羽鳥もちょっと顔を会わせなかった間にまた随分と可愛くなったぞ」
「セクハラですよ先生」
新平先生は快活に笑う。秋だというのに暑苦しい男である。
「それじゃ俺はこっちだから、気をつけてな」
「先生も、ほどほどにして仕事に支障をきたさぬよう」
また、笑い声が響く。背を向けて私は帰路へと。先生は部活へと。
足元を枯葉がかさかさとかけていく。
木枯らしの冷たさに、自分の輪郭を色濃く感じる。
誰かに慕われる彼もまた特別、なのであろうか。
しかし、私は教師の名前など、特に覚えては居ない、それは私の求める特別とは、違う、そう、思う。
ゆるい坂を下ると海沿いの道、潮の香りが鼻につく。
我が家は海沿いの道から少し離れたところにある住宅街の一角にぽつんと建っている。
似たり寄ったりの家が立ち並ぶ中、迷うことなく我が家の鍵を開けて屋内に踏み入ると自然とため息が漏れた。今頃落葉はどうしているだろうか、まだあの少女と話しているのだろうかとふと思いだして、すぐに頭の隅においやる。何かあれば落葉が話すだろう。それまで私は黙っていればいい。
物をあまり置いていない自室に鞄を放り投げ、制服はハンガーに、クローゼットから取り出したシャツとジーンズに着替えて階下へと降りる。家事をするのに可愛らしい服はいらない。
とりあえずは母の服を洗濯する。放っておくと母は洗濯物を溜め込むばかりで、着るものがなくなると何の頓着もなく新しい服を買ってくる。家計を圧迫せぬために私はこまめに母の服を洗濯せねばならない。まったくどちらが子供なのかわかったものではない。
洗濯かごに溜まった衣類を洗濯機に放り込んでスイッチを入れれば、洗濯の終わるまでの時間は掃除に当てる、お風呂にトイレ、廊下に階段。毎日していればそれほど大仰な掃除は必要ないから洗濯が終わるまでには全部片付く。洗濯物を干し終えると、次は夕飯の準備である。慌しい、と思うほどのことでもない。日課になるほど繰り返してしまえば苦痛と思うこともなく気楽なものだ。
ただ、これから先たとえば、想像もできないことだが、誰かと結婚してもこうして毎日掃除に洗濯、食事の用意と全てを一手に引き受けてやるのだと思うと、起伏のない、なんとも普通な日々に嫌気がさすというものだ。
そんな気持ちごと切り刻んでしまえとばかりに洗った野菜をリズミカルに刻んでいく。晩御飯はカレーに決めた。手間がかからないし、明日の晩御飯のメニューも自ずと決まる。刻んだ野菜をいためながらご飯は炊くか、冷凍したものを解凍するか、そんな所帯じみたことを考えていると珍しく私の携帯が震えていた。
私の携帯に着信があるとすればそれは、母か落葉か、迷惑メールくらいのものである。
火を止めて携帯を確認すると落葉からのメールであった。
わざわざパソコンを立ちあげてメールをしてくるとは珍しい。
『今、手開いてる? 家、来て欲しい』
タイミングからしてあの少女のことであろうことは想像に難くない。
しかし、こう半端な状態で料理を放り出すわけにもいかないので私は片手で携帯を弄りながら再び火をいれる。
晩御飯作ってるからどうせならこっちに食べにこないかと返信してあらかた炒め終わった野菜を鍋へ、ポットからお湯を注いで、肉を炒めるのはあとでいいとして、ご飯を、冷凍じゃなくて、三人分炊くのが先決か。
米を研いでいると再び着信、短い了承の返事を確認して再び調理に戻る。
といってももうすることはそれほどない。
付け合せのサラダでもつくろうか。
包丁がまな板を叩く音は、少し、軽い。
「それで、どうかした?」
むかいに座ってカレーを食べている落葉の服装は白いシャツに少し襟の開いた黒のニット、それにジーンズと華奢な体系にフィットした服装で、しきりにシャツにカレーが飛んで居ないかを確認しながら黙々と食事している。
私がこうして声をかけても口に物が入っている間は相槌の一つさえうたない。口の中の物をゆっくりと租借して、それからゆっくりと口を開く。
「どうもこうも見当はついてるんじゃ?」
大方あの少女のことであるのは理解できるが、この不機嫌そうな感じからして結果はなんとなくわかった。
「振ったの?」
なんてことのないように、そっけなく聞く。
「あたりまえでしょ。ていうか最初からこっちにこないようにしてくれれば手間が省けるのに」
棘のある、不機嫌さを隠さないその言い方に、私も少し、苛立つ。
互いに不機嫌になっても仕方ないのに、つい、嫌味な言い方をしてしまう。まったくもって悪癖である。不毛とわかっていて理性でそれを止められないのは、私が子供だからか、あるいは、人とて動物だということだろうか。
「私は一応相手にはされないだろうって忠告したけど。でも。落葉がいう、何の努力もしてない子でもないしまんざらでもなかったんじゃないの」
自ら投げた問いに、私も考える。どうなんだろうか、落葉はあの子を見て、どう思ったのだろう。
私は落葉をじっと見つめる、落葉は私の視線を受けて、スプーンを置いて真っ直ぐと見つめ返してくる。
「私は女の子をそういう目で見たくないの。少しでもそう思う自分が居るのはどうしても許せない。だって女の子をそういう目で見るのは男だけでしょう? 女の子は女の子をそういう目で見ない、私の中にいる男っていうどうしようもない汚い部分なんて見たくない。気持ち悪くて吐き気がする」
口に出すことすら汚らわしいと、そう思っているのか、落葉の顔は苦々しく歪み、その顔色は青い。落葉の男嫌いはよく知っている。今のこの格好の原因になった理由の一つであることも承知している。それでも私は時に、落葉を疑わずにはいられない。
いつの日か落葉が私の元を去ってしまうのではないかと、不安になる。
私の理想を映す鏡が、どこかへ。それは恐ろしいことだ、私は紛れもない、ただの普通になってしまう、いや最初から普通なのだ、特別な鏡が目の前にあるだけで。夢から冷めるのが怖いのだ。
ひどいエゴであることはわかっている。
しかし、落葉のことを大事に思っていることも、確かなのだ。私も落葉がこのような道に走ってしまった原因の一端を握っているのだから、負い目立ってある。
ごめんと一言謝ればすむことなのに、その一言を言い出せない。
私は普通を通り越して、卑屈でちっぽけな人間なのである。
落葉は黙って再び食事を再開する。
私もそれにならってカレーを口に運ぶ。
静かな部屋に食器の鳴る音だけが響く。
やがてその音も止まると、落葉は食器を片付けて部屋を出て行った。
家の中はどうしようもなく静まり帰り、私は落葉を見送ることもせずただ頭を抱えてそのまま座っていた。