十七
十二月も下旬にさしかかり、冬休みまであと数日となったその日。
学校は休み前のうずうずとした、落ち着きのない空気を漂わせ、クリスマスも目前と、色恋にざわめく者達も増えてなんとも居づらい空気である。
放課後の廊下もふと目を向ければ男女で行動するものがちらほらとみてとれる、果たして冬休み明けにこのうちの何組が残っているのか、顔と名前を覚えていたら面白そうではあるが、生憎と、私もそこまでひまではない。冷たい空気のよどんだリノリウム張りの廊下をぺたぺたと歩きながら、私は職員室へとやって着ていた。
私はどうにもこの空間が苦手だ。狭苦しい空間のなかに大人達をぎゅうぎゅうづめにした学校内でもっとも異質な場所。特別ようがなければ出来る限り近づきたくはない。
そんな憂鬱を抱えながらも、私は職員室の扉をガラリと開けて中へと踏み入る。これが私達生徒がいる教室であれば視線の一つや二つ飛んでくるのだが、職員室でそういうことはあまりない。一日に何度なく人が出入りするわけだし、いちいち反応などしていられないということだろうか。
大きな窓から見える殺風景な裸の木を横目に、私は職員室内をキョロキョロと見回し、目的の人物を見つけると、まっすぐにそこまで歩いていく。
「先生、きましたが」
「おお、羽鳥きたか」
机の上に鎮座するノートパソコンから顔を上げたのは、例の如く新平先生である。先生の机の上は意外にもパッと見綺麗に整理されているが、サイン入りの野球のボールやら写真たてやら、私物もそれなりに転がっている。
「それで何のようなのですか」
「いや、羽鳥も枯野もまだ進路希望のプリント提出してないから、一応冬休みに入る前に声をかけておこうと思ってな」
「はぁ……」
気のない返事をしながら、そういえば先生が進路指導の担当だったことを思いだす。若いのにたいしたものだ、普段からは想像できないくらい有能な教師なのだなぁと、たまに感心する。
「まだ悩んでるのか?」
「えぇ、まぁ……落葉も出してないんですか?」
「あぁ」
「そうですか」
落葉も悩んでいるのだろうか。私と同じように私と同じ事を考えてくれているのだろうか。そうであれば、少しだけ嬉しい。もしかしたらぜんぜんもっと別のことで悩んでいるのかもしれないけれど。
あの日から、落葉とはなんとなく話しづらくて、あまり口を聞いていない。それでも学校の行き帰りは殆ど一緒だし、別に前のように騒ぐような状況でもない。
「なんだ、上の空で」
「別に、そんなことはないですが。ただまぁ、まだしばらく時間がかかりそうです」
「はやいにこしたことはないが、まぁ無理に決めてもな、適当に書いて後から変更でもいいんだが」
「もう少し、考えてみます」
「そうか、ならじっくり考えろ。ただ、どんな道に進むにしろ勉強だけは怠るなよ。進学にしろ就職にしろ勉強ができてマイナスってことはないからな」
「はい」
うなずいて私は職員室を後にする。
落ち着かない空間を一歩出ると自然とため息が漏れた。
考えたって答えなどでてこないのに、私が悩んでいるうちに時間は過ぎて、周りは解答を求めてくる。
追い立てられて追い立てられて、逃げ場がなくなったとき、私はどうなるのだろうか。
逃げられるうちはのらりくらりとかわして嫌な物から目を背けていたい。だけど、その先にはいったいなにがあるのだろうか。
もうすぐ、何かが大きく変わってしまう。そんな予感がする。
冬休みに入ると日々はとたんにせわしなくなる。家中の大掃除に年末新年のもろもろの準備。おせちは出来合いで済ませるつもりはないから、これまた手間である。正月に主婦が楽をするためにおせちができたというが、正直この忙しい時期にこんな手間のかかる物を作るくらいなら正月にいつもどおりご飯を作るほうがましだと思うのだが。今は手間のかかるものは買ってくればある程度ましになるものの、昔はこれを各家庭で一から作っていたのだとしたら本当に余計につかれるだけだと思う。
まぁ昔ながらの習慣にいちゃもんをつけていても仕方がない。
せっせと師走の慌しさを私が味わう中、珍しく年末年始ともに休みになった母は私のそんな様子を見てお酒を飲みながらけらけらと笑っている。居ても居なくても家事の役にはたたないので実害はないものの、我が母は本当に家事に関してはからっきしだ。これで職場では仕事ができるのだから不思議なものであるが。
珍しく家にいてだらける母を尻目に私はそうやって慌しく年末の時間を過ごした。
家事だけでなくたんまりと嫌がらせのようにある課題も黙々とこなしていると、本当に日々忙しく、お陰で、私はいろんなことから目をそむけることができた。
それが、いいことなのか、悪いことなのか、よくわからなかったが。
年が明けると先人達の知恵に従ったお陰で炊事からは開放されたものの、日々の選択、洗い物は必要なので特別暇になったというわけでもない。ただ、日中学校に行かなくていい分効率よく家事はできるし、課題の方もめどがついてきていたのでゆっくりとすごす位の余裕はあった。
ぼんやりと頭の片隅でこれからの事を考えるとすぐに憂鬱になるので、私はなるべくそういった事を頭に思い浮かべないように、特に面白いと思わない正月特番を母と一緒にぼうっとコタツから眺めていた。
そうしてごろごろと過ごしていると、携帯が震えだした。
久方ぶりの着信に一体誰だろうと見れば、見覚えのない番号である。
しきりに首を捻っていても一向に着信がやむ気配はない。はて、そういえばついこの間も同じようなことがあったと思い浮かべて、その着信元を思いだして私は通話ボタンを押した。
「はいもしもし」
「遅いよー羽鳥さん、あけましておめでとう。今年もよろしくね」
「あけましておめでとうございます菅さん」
どうやらあの時落葉が私に対してかけてきていた番号を保存していたらしい。抜け目のない女である。
「さっそくだけど、羽鳥さん、もう初詣はいった?」
「いえ、いってませんが」
というかそもそも初詣というものにいったことがない。田舎だけあって神社やお寺といったものはわりとそのへんにぽこぽことあるのだが、私は神というものを信じてなどいないし、私は落葉教信者であるので他宗教にはなびかないのである。
「それじゃあ是非いきましょう、あたし達は受験生なのですから、きちんと神に合格祈願にいかないと」
そういえば菅帳は進学を諦めたのでは……と思ったものの、あの時の彼女の表情を思いだすととてもではないが茶化すようなこともいえず、私はあえてそれに触れないでおくことにした。
「無神論者なのですがね私は。そもそも初詣に行く時間があるならその時間勉強した方がましだと思うのですが」
「細かいことはいいんですよ。家に居ても暇ですし、屋台とか行きましょうよ。ほら、ついでに枯野さんも誘って三人で」
私は半ば呆れながらも、あっさりと本心を吐露した彼女の図太さに敬意を表して渋々とオーケーの返事を返して通話を切る。
単純に私も久しぶりに落葉に会いたいと思っていたから、というのもある。
冬休みに入ってからごたごたしていたのもあったし、特に会いに行く理由もなかったし、なにより、年末年始というのは他人の家に出向くのに抵抗があるから、落葉とはここの所を顔をあわせてないかった。
だからまぁ、私も菅帳のことをとやかくはいえない。
落葉もどうやら年末年始はおば様と過ごしていたようだし、少し話しを聞いて見るのもいいかもしれない。きっと楽しそうにしているはずだ。
私はすこしだけ機嫌をよくしながら、携帯から、落葉の家へと電話をかけた。
家から数駅程度離れたところにある普段は寂れている少し大きな神社は、しかし、この日に限ってはやたらと人でごった返していた。小学生の頃だか遠足で来たことがある程度で意識したことはなかったけれど、これほど賑わうような所だとは知らず、あまりの人の多さに私は少しげんなりとしていた。
隣を見れば着物姿の落葉も少しげんなりとした顔をしている。私も落葉も余り人ごみは得意な方ではない。特に人の多い場所では落葉はよく目立つ。特に今は着物姿で、小紋の着物とはいえ、周りに着物姿の人は少なくてさらに目立っている。無遠慮な観察するような視線にそれでも落葉は気丈に背筋を伸ばしている。
「すごい人の量ですね。この田舎のどこから溢れてくるのやら」
「割と有名な神社ですから、県外からもけっこう人がくるんですよここ。地元のことなのに知らなかったんですか?」
「無神論者ですから」
ふふんと鼻を高くする菅帳を華麗にスルーして私達は人のごった返す境内をじりじりと進んで行き、清めを行ってから神前の列へと並んでゆっくりと進んでいく。
無神論者とはいえ、一応最低限のお参りのルール位は知っている二拝、二拍手、一拝だ。神前まできて私は、何を願うかを考える。願いがかなうなどとは微塵も思っては居ないが、隣の落葉をちらを見て、私はすぐに願いを決めた。
深いお辞儀を二度。
胸の高さで二回拍手を打ちながら願をかける。
そうしてもう一度深く、お辞儀。
小さくもう一度礼をしてその場を離れる。
落葉が一体何を願ったのか気にしながらも私達はぞろぞろとおみくじの方へとなだれ込みそれぞれくじを引いて、あたりさわりのない結果を出して、堅苦しい行事を終える。
「それじゃあたしちょっと屋台で食べ物買ってくるね」
いうが早いか、菅帳は再び人垣の中へと飛び込んでいく。そんな様子に二人して呆れながら私達は境内の人通りの少ない場所で彼女の帰りを待つことにした。
本当にこの寒いのに、なぜこんなにも人がわざわざこんな辺鄙なところまでやってくるのか。
そんな時間も惜しんでがんばっている人間よりわざわざ神頼みしなければいけないような人間の望みを叶えるのが神だというのなら、そんな利己的な神など崇拝するに値しないだろう。
相変わらず近くを通り過ぎていく人達の視線は落葉に注がれている。
今日は着物姿に合わせた出で立ちということもあり普段より落葉はよく目立っている。
おばさんに着付けて貰ったのだと嬉しがっていた落葉だけれど、その顔は少し疲れているようにも見える。視線などまったく感じないでいる私だって割りと疲れているし、慣れない着物姿に周囲の視線とあれば、仕方のないことだろうけれど。あの菅帳のバイタリティは一体どこから供給されているのか。甚だ疑問だ。
いい加減早く戻ってこないかとごった返す人の群れの中に小柄な菅帳の姿を探していると、足を止めてこちらを見ている二人組の男が居るのに気づいた。
また落葉にじろじろと不躾な視線をおくって見とれている低俗のやからだろうかと殺人的な視線でもって撃退してやろうかと目を凝らして見ると、どうにも様子がおかしいように見える。
見とれているというより、半信半疑とでも言いたげに首をかしげているように見えるのだ。
私は何事かとその二人を注視する。生憎と周囲の喧騒に二人の話し声は聞こえないが、口の動きはなんとなくみてとれた。
背の高い方の男がしきりに首を捻っては隣の背の低い男に声をかけているようだが。
よぉく目を凝らしてその口の動きを読む。喧騒に負けないように大きくゆっくりと喋ろうとしているのか男の口の動きは大分読みやすかった。それでも拾えた言葉は少なく、しかし、私はその意味を理解して、言葉を失った。
『お、と、こ……み、え、る』
隣の男が背の高い男の背中を叩いて何か怒鳴っているようだ。
背の高い男も納得した様子で人ごみの中にまじっていった。
自分の動きがひどく緩慢なのが分かる。
迂闊だった、本当に。
こんな地域の外からも人が沢山くる場所だなんて知っていたら落葉をつれてきたりはしなかった。いや、知っていても関係なかったかもしれない、だって落葉はまだこんなにも美しい。
さび付いてしまったかのように回りづらい首をギリギリと落葉の方に向けた。
落葉は、青い、いやそれを通り越して、白い、色のない顔で、口元を覆って、俯いている。目を見開いた人形のようなその様。
落葉もあの二人組みの会話に気づいてしまっていた。
何かをいわなくてはいけないと思って、声をかけようとして、しかし、言葉は出てこない。
私がそうして何もいえないでいえると落葉は俯いて目もあわせないまま。
「帰る」
そう呟くと、着物が乱れるのもかまわず走り出してしまった。
追いかけようとかけだそうとして、やはりかける言葉が見つからず、私は足を止めた。
落葉は確かに美しいままだけれど、時の流れは残酷で、身長が少し伸びるたびに落葉の体つきは、丸みを失っていく。それでも、普通の人はそんな事に気づかない程度の誤差のはずで。
このあたりの地域では落葉を知らぬものなど居ないから、落葉の事を気に止めるものも居なかったから。ずぅっと油断していたのだ。外から人が来た時、この片田舎で落葉の美貌は他と比べてひどく目立つ。当然外から来た人々の目は落葉へと向かうだろう。そうなったとき、小さな違和感に気づくものがいて、少しでも疑問に思ってしまったら。
これが都会であれば違ったのかもしれない。落葉と同じくらい美しい人になれた人々の雑踏になら落葉も紛れられたのかもしれない。でもここは、どうしようもない田舎町で。落葉は飛び切り美しい生き物だったから。
歯がカチカチと滑稽な音を立ててなる、体が震えている。外気による寒さではない、もっと内からくる震え。
やがて、能天気な菅帳が両手に沢山の荷物を抱えて戻ってくる。
「ただいま、って、あれ、枯野さんは? それに、羽鳥さん顔色悪いけど、大丈夫?」
心配して駆け寄ってくるその友人に私は何もいえないまま、ただただ、青い顔で震えていた。
予想以上に早く私達に忍び寄る時間というどうしようもない、逃れようのない何かに、私はただただ震えることしかできない。




