十六
目がさめると、まだ午後の授業の時間中で、時間を確認すると私はそのままもう一度横になった。
体調は随分とよくなっていたけれど、相変わらず重い、心のしこりのようなものがお腹のそこによどんでいるような、そんな憂鬱さが付きまとっている。
寝て起きて解決するほど、根の浅い問題でもなければ、私の感傷的な心の持ちようもまた、一朝一夕で変わるようなものではないらしい。重くため息をついて、もう一度体を起こしてベッドから降りる。とりあえず先生がいたら、挨拶をしておかねば。
カーテンをあけて、しかしそこにいたのは保険教諭ではなく、若い男性教師。新平先生であった。
「お、起きたか羽鳥」
「えぇ、まぁ……ところでなぜ新平先生がここに」
「あぁ、菅に頼まれてお前の荷物もってきたらな、保険の先生がしばらく開けるから変わりに居てくれって頼まれてなぁ、まぁ今日はもう受け持ちの授業もないしと思ってな」
「はぁ、保険教諭の先生は一体何がそんなに忙しいのですかねぇ」
いいながら一応体温をもう一度はかり、何事もないのを確認して近くの椅子に腰掛ける。
「しかしまぁ、仮病でよく休む枯野と違ってお前が保健室に居るとは珍しいな。どうかしたのか羽鳥」
正直に答えるべきかどうか。
進路の事を考えていたら鬱になって倒れそうになったなんて正直、言いたくはない。しかし、この一応は人生の先輩であり、それなりに人生が充実しているように見えるこの教師から意見を聞きたくも思う。
私がそうして頭を捻っていると、何を勘違いしたのか新平先生はハッとしたような顔になったと思うと頭を下げて。
「すまん、デリカシーがなかったかもしれない。もしかしたらセクハラ的なことだったら、答えなくてもいいぞ」
なにやら私のだんまりをすごい方向に勘違いしたらしく、わたわたとする新平先生に私はため息をついてかるく頭をかくと、誤解を解く意味もこめて、結局、質問をして見る事にした。
「先生はどうして教師になろうと思ったんですか?」
「まぁ、なりたいからなったんだよ。漫画とかアニメみたいな恩師がいるとかそんなことはまったくなくてなぁ、ただなんとなく教師になりたいって、それだけだよ」
何の感慨もなく、先生はいってみせる。特別でない、新平先生のその人生。
「進路、悩んでるのか羽鳥」
黙って頷く。
「まぁ、そうだよなぁ。俺だってなんだかんだ悩んだよ。教師になるっていったって何していいか最初はわからなかったしなぁ。でもな、やりたい事を見つけたら後は簡単だったよ。とにかく前に進むことだけを考えればいいんだ。難しいのは、やりたい事を見つけることの方なんだ。だからな、少しでもやりたい事を見つけたら躊躇するな。そこに向かって真っ直ぐ進め。次が見つかるかわからない、時間は有限だ、次が見つかるまでにその道が途絶えてしまうかもしれない。もっとしたいことがみつかってからそっちの道に変えてもいい、今したい事を全力でやれ」
「やりたいこと、ですか……」
「ないならないで、無理に探す必要はない。いつかふっと出てくるさ、そのときちゃんと動けるかどうか、それが一番大事なんだ」
先生は言いながらうんうんと頷く。先生は、教師になる前に、なにか、なりたいものがあったのだろうか。その失敗から今、教師という道を、選んだのだろうか。それはわからない。けれど、その言葉には、重みを感じた。それは若くとも、確かに私より長く生きている人間の言葉だからだろうか。
「先生」
「どうした?」
「先生、本当の先生みたいですねぇ」
「そりゃ本当の先生だからな。なんだ、俺そんなに頼りなく思えるか」
「えぇ、まぁ。野球部のことばっかりですしね」
「それもまぁ、俺のやりたいことだからな」
先生は笑いながら時計をちらと見て席を立つ。
「さて、羽鳥ももう大丈夫みたいだし、俺はそろそろ職員室にもどるな。授業ももう終わりだし、気をつけて帰れよ」
「はい」
先生を見送って私は、ぼうと自分のやりたい事を考えて見た。
ふわふわとした特別になりたいという思い、ずっと落葉を眺めていたいという願い、どちらも進路には結びつきそうにない、曖昧で、自己中心的なもの。自分のなかをしめる落葉のそのウェイトの大きさに今更驚きながら私は、自分の行く先を考えていた。
しばらくの間保健室で時間を潰し、部活組が帰るのを見計らってから私は保健室を出た。
なんとなく授業に出て居ないのに他人より早く帰るのは気が引けたのだ。まったくもって小心者である。誰も私のことなど気にかけていないだろうに。自分の小物っぷりに呆れながら職員室の前を通り過ぎようとすると……その先、生徒指導室の扉が勢いよく音を立てて開いた。
そこから肩を怒らせながら出てて来たのは、案の定というか、他にこんなところに呼び出される人間を私は知らない、落葉である。
なにやらこってり絞られたのか、ドアを閉めることもなく怒りをあらわにしたまま落葉は下足場に向かっていく。ひょっこりと顔を出した生活指導の教師は、既に疲れた顔でため息をつきながら扉を閉めた。いつもならキィキィと怒鳴り散らしていそうなものだが、どうやら相当長い間落葉と顔をあわせて消耗したらしい。
私は少しかけ足で落葉を追いかけて下足場に向かう。
落葉の方もなかなかにご立腹なのかもうその背中は校門前にある。私は急いで靴を履き変えてその後を追う。
パタパタと足音を響かせながら追いかけると、落葉も私の存在に気づいたのか、後ろを一瞬振り返ると、歩調を緩めて、私が追いつくのを待ってくれる。
少し息を切らしながら横に並ぶと、落葉はいつもどおりの歩調にもどり、私は落葉のその横顔をのぞき込む。少し眉を吊り上げたいつもより険しい表情。むすっと引き結ばれた口はいかにも不機嫌であると訴えている。
「生徒指導室から出てくるのが見えたけど、なにかったの?」
多分、愚痴を聞いて欲しいのだろう。そうあたりをつけて聞くと、落葉はさらに表情をむすっとさせて、不機嫌な様子を隠さないまま口を開く。
「あの教師腹がたつったらないわ」
ぎりっと歯軋りの音さえ聞こえてきそうなそんな表情の落葉。まぁ落葉がニコニコと笑っているほうが珍しいとはいえ、こう苛立っているのは久しぶりに見た気がする。中学の頃はいつだってこんな感じだったきがするれけれども。
「柚子は、体育のジャージの色どう思う?」
なんとも突拍子もない質問が飛び出してきた。どう思うといわれても、特に気にしたことはないけれど。ちなみに我が校では学年ごとに色が決まっておりあたし達の学年はジャージが紫で体操服は下がピンクである。まぁ確かに趣味がいい色とはいえないものの、そういう決まりなのだから仕方ないとしかいえない。
「あの色、私大嫌いなの。だから、家からまともな色のを持ってきて授業で着たの、そしたらあの教師がガミガミ文句いってくんの。別にいいじゃないそれくらい、ジャージなんだし。四六時中着てるわけじゃないのよ? 馬鹿みたいだわ」
「まぁ、落葉の気持ちもわからないでもないけど」
あの紫の一団の中、一人まともな色のジャージがいればそれはさぞかし目立つことだろう。
「だってあんなババくさいサツマイモ色のジャージ私嫌よ。ただでさえジャージってだけで嫌なのになんで私があんな似合わないもの着なきゃいけないのよ。で、そしたらあの脳筋どうしたと思う? 無理やり私の服掴んで脱がそうとするの、頭おかしいんじゃないのあのセクハラ教師。だから野蛮な男って嫌い、お陰で他の教師に見つかってあの筋肉達磨と一緒に教頭の下で午後の授業終わるまで説教よ」
先生方も災難ではあるけれど、落葉の服を脱がそうとするなど、頭おかしいというのは同意だ。このご時世、そんな事をする教師がいるとは、にわかには信じがたい。たしかにまぁ、やっていることは落葉の方が悪いのは確かだけれども、だからといってそんな直接的な手段に訴えかけるのもどうかと思う。
「だいたい、クラスの女子達もおかしいわ」
今日の落葉は相当ご立腹なようで、まだ続きがあるらしい。こんなに荒れている落葉を見るのは本当に久しぶりな気がする。
「体育の授業が始まる前から、というかそもそも朝から、スカートの下にあのジャージを履いてる子が居るのよ。あの色のジャージっていうだけでも無理なのに、スカートと組み合わせるなんて信じられない、美的センス腐ってるんじゃないかしら。ここ連日そんな光景ばっかりで鳥肌が立って仕方なかったから今日はちょっとあの子達の目を覚ましてやろうと思ったわけ」
いわれて見れば、私のクラスにもそんな格好の子がちらほら居たように思う。たしかにあれは見ていて、どうかと思う格好である。
「見てると本当に腹がたって……自分を引き立たせる、それを探す楽しみを放棄して、貴重な時間を浪費して、むしろ自分を貶めるなんて……」
アスファルトの地面を踏み抜かんばかりに落葉が力強く地を踏みつける。物にあたるなんて、珍しい。どうしようもない彼女の怒りが渦巻いているのがわかる。
「どうしたの落葉そんなに、怒って」
そうきくと、落葉は足を止めた。
「だって私は女の子じゃないから。むかつくの、女の子であることをきちんと生かしてない無能ばっかりだから。私がどんなに望んでも手に入らないものを持っているのにそれを腐らせるしか能がないから。女の子だっていつまでも可愛く綺麗で居られるわけじゃないのに、なんの努力もせず日々を消費していく馬鹿が私は大嫌い」
怒りをあらわにしながら、しかし、落葉のその瞳には涙が浮かんでいた。
「私、成長するのが怖い。変わっていくのが嫌。ずっと今のまま、可愛いままの自分でいたい」
今まで見たことのない、落葉の、悲壮な、泣き出してしまいそうな顔。
「少しずつ、少しずつ、私は劣化していく。成長するってことは老いるのと同義。普通の女の子ならまだ別に気にするほどじゃない、でも私は違う。私の寿命はもっと短い。一日ごとに私は女の子から遠ざかっていく。今はまだいいよ、可愛いって自分でも思えてる。他人に嫉妬されるくらいの価値はあるって思ってる。でも、この先、老いて可愛く、美しくなくなったとき私に何が残るの? 私は今のために精一杯できるだけの事をしてる、そのことに後悔はないの。だけど、だけど、この先、私の手元に残るのは老いて何もなくなった私と可愛い服と、今の私の記憶だけ。それってすごく怖い。得るものは何一つなくて、私は失い続けるの」
その言葉はとても重く、強く、私の頬をしたたかにうった。女としての私とか、この容姿を保つための落葉の苦労とか、落葉が望む普通の意味とか、いろんなことが頭の中をよぎった。
この美しい生き物の寿命は短く、故に儚く、特別なのだ。
それを本当に美しいと思う。
落葉が忌避するその運命を、私は心の底から羨ましいと思う。
おかしなことだと思う。
落葉がポツリと呟く。
「私はどうして柚子でないのだろう」
落葉の望むものを私は多分、全部持っている。落葉ほど美しくなくとも、磨くための余地がきっとあるのだろう。私にはわからないけれど。
「どうして私は落葉でないのだろう」
私が欲しい物を、落葉は全て持っている。特別な運命、特別な美しさ、特別な悲劇。そうして、落葉の心。
私は落葉の考えている事を、思いをもっと知りたいと思う。
少しでもこの美しい生き物に近づきたい。
落葉の考えがわかれば、今日みたいに何かを悩む必要だってない。
落葉になれないのなら、私はその傍にいたい。
だけど、きっと、落葉はそれを許さないだろう。
自らが劣化していく様を誰かに見せるのは落葉には耐えられないだろう。
昔からの落葉を知る私は、落葉が変わっていく様をきっと一番敏感に感じ取ってしまうから。
でも、私はまだ、落葉といたい。
たとえ落葉が美しくなくなろうとも、その傍にいたい。
私はきっと何ものにもなれない。
落葉を失えば、きっと私の世界から特別は失われてしまう。
人通りの少ないひび割れたアスファルトの道路。冷たい冬の風が吹いている。見詰め合う先、手を伸ばせば届く位置に理想があるのに、決してそれが手に入ることはない。
落葉はどうするのだろう。
聞きたい。
もっと傍にいられると安心したい。
でも、もし、落葉が別の道を選んだのなら。
きいた傍から道が崩れてしまう。
いつか途切れる道。
そこまで目隠しをして進むのか、前を見据えて進むのか。
どちらも怖い。
答えを出せない、冬の夕方。
美しい目の前の生き物を私はただ、じっと見つめていた。




