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朝の起き方でその日が決まる、なんてことはよく聞く。早起きは三文の得と言うし、一日の計は朝にありなんて言葉もある。つまり言いたいことは、一日の最初と言うのはかなり重要であるという事だ。
そうであるならば、早朝五時過ぎに可愛いアイドルに顔面を舐められながら起きるという事は、果たしてどの様な目覚めであるのか。
少なくとも一流にとってその問いの答えは、後悔と懺悔だった。
「起こして来いと言ってはみたが、まさかこんな起こし方をするとはな」
まだ日が出だしたばかりで薄暗さの残る玄関口に、呆れ顔の杏樹を見つけた。すっかり目の覚めた一流の横で、夕夏は嬉しそうに微笑んでいる。
いたいけな少女に顔を舐められるという事に初めは困惑したが、今になって思えばかなり役得な状況であった訳で、動揺などせずに流れに身を任せ楽しめば良かったのではないだろうか。
「わん?」
「あ、ああ……そんな目で俺をみるなああああああああ」
鼻の下を伸ばしていた一流は何の邪心の無い夕夏の顔を見て、自分の浅ましい考えに激しい自己嫌悪を覚えた。
「ロリコンは今に始まった訳じゃないんだから取り乱す必要ないでしょ。それより早く着替えなさい」
「ロリコンはこの際置いといて次は普通に起こさせてくださいよ。というかまだ朝五時じゃないっすか。何しようって言うんすか? 眠いんすけど」
「散歩よ。夕夏の」
少々大き目の、おそらく杏樹の物であろう黄緑のジャージに着用した夕夏は準備万端という感じだ。こんな朝早くに散歩をしたがるのは犬だった頃の習性なのだろうか。
「あの、まさかリードつけませんよね?」
「冗談はいいから早くしなさい」
促されるまま一流は服を見繕い家を出た。四月の頭の早朝は思った以上に冷え込んでいる。息も若干白い。そんな寒さを感じさせず夕夏は嬉しそうに一流の周りは走り回っている。
「思ったんだけど、昨日まで子犬だった少女が今や二足歩行をしているわね」
「そういえばそうっすね。動物は生まれてから直ぐ立つって言いますけど、本当に不思議生物ですねコイツ」
昨日は普通に子犬だったし、今はアイドルそっくりの美少女。そのうち言葉を覚え、終いには羽でも生えるのだろうか。
「まあ面倒くさいことは放っておくに限るわ。行きましょう」
引っ越してから家の周りを散策するのは初めてだった。知らない街の朝というのは、人も少なく静かで少し不気味なのに爽やかで、異世界を冒険しているかのようで少年心を擽られる。
一流と杏樹は二人並んで歩き、その前を夕夏が歩く。たまに急に走り出したかと思えば、振り向てこちらが追い付くのを待ったりせわしない。
「夕夏は一流のことが随分好きみたいよ。散歩に誘ったのも夕夏が一流の部屋の前から動こうとしなかったからだしね」
「そ、そうなんすか? いやあ、モテるって辛いっすね!」
少々おどけてみたが、正直かなり嬉しい。アイドル似の少女に好かれるなんて、現実では中学生の妄想で終わるような事だ。一つ難点を言えば彼女が少なくとも人間では無いこと。
「わん!」
しかしこの屈託のない笑顔を見るとそんな事は些細な問題としか思えない。きっと愛しぬいて見せよう。ふふっ。
「一流は今日から新学期よね」
「はひっ!?」
妄想の中で夕夏を優しく抱き寄せようとした瞬間現実に引き戻されたので、思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。「何変な声出してるのよ」と若干引いている杏樹に対し真実を言える筈もなく、「何でもないです」とはぐらかすことしかできなかった。
「話戻すけど、今日から新学期で合ってるわよね?」
「そうっすね」
「華菜もあなたと大学へ行くから、面倒見てあげてほしいの」
「良いっすけど、高校の方もそろそろ始まるんじゃないですか?」
「あの子は高校へは行ってないわ」
「へ?」
「それどころか中学校もろくに行ってないの」
その理由を聞きかけるも、聞いていいものかと葛藤が生まれ口を噤んでいると、杏樹は苦笑いを浮かべながら「ただの家庭の事情よ」と言った。
「そう言う理由であの子はあまり同年代の子との距離感が分からないの。だからフォローしてあげてくれる?」
「分かりましたけど、なんか大学通うみたいな言い方すね」
「ええ、今日から一流と同じ大学三年生よ」
「あれ? 今華菜さんはいくつでしたっけ」
「十七歳ね」
「ですよね。俺、もうすぐ二十一歳です」
「あら、おめでとう」
「そういう意味じゃ無いっすよ! 普通通えないでしょ!」
「私達が普通だと思うのかしら?」
一流は杏樹を見て、夕夏を見た後また杏樹を見た。夕夏は楽しそうに飛び跳ねているが、その跳躍力は常人の二倍くらいあるだろうか。困惑する一流に対し杏樹は「ね?」と微笑んだ。
住んでいる世界が違う時点で常識は違う。今朝の夢でヴァティと名乗る女に言われた事だ。だがこれは一流達の常識の範疇だ。日本で飛び級なんてものは一流大学にしか前例がないし、何より高校も行っていない人がいきなり三学年に中途入学するなんてあり得るわけがない。外村家という組織の権力なのか。社会のルールを壊せるほどの力を持った組織。実態を掴めずに雰囲気として捉えていたが、実はかなり危ない組織に身を置いているのではないだろうか。
「やっぱり一つ、交換条件を付けていいすか?」
ならせめて、一つだけ早急に知っておかなければならない事がある。今まで聞きそびれていたが、多分これを知ることは自分を守ることに繋がるはずだ。
「変なことなら聞かないわよ?」
「力について教えてください」
悪戯っぽく笑っていた杏樹の顔が真剣な表情になっていくのが分かった。