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三月の終わり、生ぬるい夜風が頬を撫でると、新たな始まりを予感させる。とは言っても気のせいだ。むしろ始まって欲しいという願望に近い。
東京郊外。時刻はもう午前十二時を過ぎている。しかし、まだちらほらと住宅やマンションから光がこぼれている。その明るさを目印に、樋田一流は覇気のない重い足どりで、駅へと続く長い坂を上っていた。
大学二年生最後の春休み。後に始まる就職活動を見据え、昨年の十二月頃からカラオケ屋でのアルバイトを始めた。家から一駅の距離であるし、何より午後五時スタートという事で大学生活と折り合いがつくと考えたからだ。だが、そんな考えで決めるのは浅はかだった。
まず店長と反りが合わない。店長の半沢は、面接日を忘れていてすっぽかした。また、規定された研修を受けさせず仕事をさせるので、当然失敗するのだが、それに対し烈火の如く嫌味をぶちまける。
「社会ってそんなもんよ」
電話越しに聞いた母親のその言葉を胸にこの三ヶ月我慢しきたが、本日の業務を経て限界に達した。
とうとうバイトの仲間からも風当りが強くなったのだ。あんなに「先輩先輩」と言っていた後輩の恩田も、一流を「おい樋田」と呼び捨てにした。あのにやけた顔を思い出すと、奴の前歯を折りたくなる。
自分の要領が悪いことは分かっている。ただ、それでも周りの誰かは味方であると少なからず思っていた。
「くそっ……」
足元にあった小石を蹴る。小石は坂道を駆け上がるも、凹凸と傾斜のせいで半分くらい押し戻された。
「はぁ」
二十歳にもなってこの辱め。決して人付き合いが上手い分けでは無いが、ここまで拗れる経験は初めてだ。
ふと大学で、アルバイトをバックれた回数を大声で自慢している学生を思い出す。その時は「このクズめ」と見下していたのだが、いやはや、それはそれで良策なのかもしれない。嫌な場所から逃げられるし、何より業務に穴を開けることで奴らに負担をかけることができる。正に一石二鳥。
「おっしゃ、俺はやめる! やめたる!!」
高らかにアルバイト終了を宣言すると、途端に心がスッと楽になった。深夜ということもあってか、どんどんテンションが上がっていく。唐突に坂を駆け上ってみたり、鞄を振り回してみたり。勢い余って三メートル前方へ投げ出してみたり。
……はしゃぎ過ぎた。中身は大丈夫だろうか――
鞄へ手を伸ばした時、空が妙に明るい事に気づく。天を仰いだその時、目の前へ何かが凄まじい速さで急降下し、地面に衝突した。強い風、立っていられない程の上下振動とアスファルトの地面が砕ける轟音、土煙。
両膝をつき呆気に取れられ凍り付く一流の口の中に砂埃が入り、反射で咳込んだ時、やっと正気を取り戻した。広がる土の臭いとざらつきを消すために唾をく。
「おいなんだ今の音!!」
「隕石!?」
「ミサイルか!?!?」
付近の住民が何事かと続々と外に出てくる。
それと同時に落下地点から凄まじい風が吹き荒れ、砂埃が視界をぼやけさる。そこに立ち尽くす誰もが状況を把握できずにいた。砂煙の中心にいた、一流以外には。