魂無き肉塊
「ああ、結衣さん。せめて車に戻るまで粘ってくださいよぉ」
誠司は、人形に戻った彼女の体をだきしめながら、情けない声を出した。
「なにあれ?」
「わかんない……ってか、あの女の子、なんで全然動かないの? なんか手がだらんとしてるし」
「ってか、あれ人形じゃない?」
「え? うそ? やだ。きもっ」
「マジうけるんですけどー。写メとっとこー」
「拡散、拡散」
通行人の女子学生たちの容赦ない声が誠司を襲った。
結衣さんが人形だって?
「ふざけるな」
誠司は結衣を胸に抱いたまま叫んだ。
誠司に携帯電話を向ける女子学生たちをきっと睨みつける。
「お前らの方が、よっぽど人形じゃねぇか。お前らには心がない。結衣さんは文句はあまり言わないけどすぐに拗ねる。でも、それは結衣さんに心があるからだ。だが、お前らに人間の心はない。そうやって、人の愛を踏みにじることでしか生きていけない、哀れな肉の塊……タンパク質の人形だ」
誠司のあまりの剣幕に、あたりが一瞬静まり返った。
少し間を置いて、女子学生たちがどっと笑い出す。
「なんか説教されたんですけどーマジキモイ」
「いや、キモいのは君たちの方だ」
スーツ姿の男がベビーカーを押しながら、誠司の背後から姿を現した。
そのベビーカーで寝ている赤ん坊は、人形だった。
「人形は、寂しさにうちしがれ、消えかかった魂に光を灯してくれる。たとえ、しゃべることができなくても、心を通わせることはできるのさ……子供の頃なら、誰もができたことだが、いつしか人は人形と心を通わせることができなくなる……それは、人としての心を失ってしまったから……かもしれないな。この少年は誰よりも純粋なだけだ。純粋だからこそ、この年になっても、人形と心を通わせることができる。だから、私は彼を馬鹿にする者を見逃すことはできない」
「その方の言うとおりだ。好きになってしまった人がプラスチックでできているというだけで、いっつも見下しやがって」
どこからともなく、美少女フィギュアを持った若い男が現れた。
チェックシャツをズボンにインしており、ぼろぼろのスニーカーを履いている。
眼鏡のレンズは分厚く、黒いリュックはパンパンに膨らんでいた。
「タンパク質の人形は帰れ」
二人の男がそう叫ぶと、その様子をおもしろがった男子学生らしき集団も便乗し、同じことを叫んだ。
「タンパク質の人形は帰れ」
「なによ? まるで、あたしたちが悪いみたいじゃない? いい年して人形遊びってマジキモいんですけど?」
「うーたんをバカにするな」
うさぎのぬいぐるみを小脇に抱えた小さな男の子が、女子学生のすねを蹴りつけた。
「痛っ。何すんの? このガキ?」
「君も女の子なら、人形を持っていたことがあるはずだ。その時、君のご両親は、君たちの絆を侮辱したか?」
スーツ姿の男が優しげに目を細め、ベビーカーを押しながら、女子学生に近づいた。
「あ、あたしは……」
女子学生の手から、スマートフォンが滑り落ちた。
がっくりと膝をつく。
顔を両手で覆って、すすり泣きはじめた。
「ごめんなさい。みぃたん……あのときは仕方なかったの……引越しでお母さんが……」
「えぇぇぇぇ? ちょっと、明美? あんたそういうキャラじゃないよね? 子供の頃はタバコをおしゃぶり代わりにしてたって言ってたよね? 返り血の女王の異名はどこにいったの?」
一緒にいた女子学生が、驚きのあまり声を張り上げるが、明美はただ涙をながすばかりだった。
スーツ姿の男が、明美の肩にぽんと手を置く。
明美が顔を上げると、男は目を閉じて訳知り顔で首をゆっくりと左右に振った。
なんなんだ。この状況は……
目の前で繰り広げられる異常な光景に誠司は戦慄した。
自分で招いたこととはいえ、こんな展開になるなんて想像もしていなかった。
スーツの姿の男は、誠司のほうに振り向くと、穏やかに微笑み、ベビーカーから赤ん坊の人形を抱き上げた。
「私は、これまで、この子のことを愛してる気でいた。だが、いつも、どこかで後ろめたさを感じ、周りにこの子のことを隠してきたよ。私も本当の愛情を失いかけていたのかもしれんな……」
「あっ、そうですか……」
帰りたい……
「このあと、ぜひ食事にでも」
「いや、俺ちょっと急いでますから」
誠司は、買ってきた服が入っている袋を手首からぶら下げると、人形に戻った結衣の体をお姫様抱っこすると、足早に立ち去っていった。
周囲に好奇の視線を向けられながらも、車に戻り、誠司は結衣を助手席に座らせて、エンジンをかけた。
結衣に笑顔を向ける。
「なんかいろいろありましたけど、今日は楽しかったです。明日にでも、結衣さんの感想聞かせてくださいね」
帰りは検問にあうこともなく、自宅に到着した。
車庫に車を入れ、誠司は結衣の服が入った袋を持って、玄関に向かった。
結衣を抱えたまま、扉を開けるのは至難の業なので、結衣は車の中に置き去りにしたままだ。
玄関の扉を開けると、母と鉢合わせた。
一体、これはどういうことだ?
父さんも母さんも今日は、夜遅くまで帰ってこないって言ってたじゃないですかぁ?
「あんた。車なんかに乗って、どこ行ってたの? でも、ちょうどよかった。これから、出かけてくるから、キー貸して」
母は立ちすくむ誠司にむかって、右手を差し出した。
「いや、それは……いま、ちょっと、あれだから……」
「まさか、あんた? 車に傷つけたりしてないでしょうね?」
「ぜ、全然大丈夫だから」
「何、焦ってんの?」
母は不審そうに目を細めると、誠司を押しのけて玄関から出ていこうとした。
母に人形の状態の結衣を見られたら、人として終わるだけじゃない。
頭の固いうちの親のことだ。
性行為用の人形を持っていることがバレたら、家を追い出されるか、結衣を処分されるかしてもおかしくない。
「彼女が乗ってるから、待って」
誠司は母の手首をつかんだ。
「別に会ったって、いいでしょ? 将来、娘になるかもしれないんだから」
聞く耳をもたず、母は車庫に向かおうとした。
仕方ない。
奥の手だ。
「彼女、いま裸なんだ。同性とはいえ、俺の親にそんなところ見られたら傷ついちゃうよ」
誠司が照れくさそうにそう言うと、母は一瞬口を小さく開いて、何度か頷いた。
「はーん? 親の車でそういうことしてたの? 明日、お父さんにたっぷり叱ってもらうから」
母は奥の部屋に引き返していったが、彼女の背中を見送る誠司の気持ちは晴れなかった。