月に導かれし欲望の野獣
服を買いに行く服がない。
インターネット掲示板で、そういった書き込みを見ることは多々あったが、誠司にとってはほとんどファンタジーの世界の話だった。
しかし、いま現実に、女性の霊が人形に宿り人形が命を宿すというファンタジーな状況に彼はいる。
そして、結衣には服を買いに行く服がなかった。
「好きなの選んでください。ご要望があれば、俺が改造します」
誠司は、きょとんとして座っている結衣に向かっていった。
床には男物の古着が並べられている。
「私が選ぶの?」
「もちろんですよ。結衣さんの服ですから」
誠司は満面の笑みを浮かべてそう言ったが、その瞬間、結衣の顔が引きつった。
一瞬、驚いたように目を丸くしたかと思うと、口元に乾いた笑みを張り付け、次の瞬間には表情が消えた。
「へぇ、私のかぁ……いらない」
結衣は背中を向けた。
「え? でも、ジャージのままだったら、嫌だって言ってましたよね?」
「別に、どうだっていいよ」
「どうしたんですか?」
誠司は、後ろから結衣の肩を触ったが、彼女に跳ね除けられてしまった。
「触らないで。嘘つき」
そう言って結衣は立ち上がるとドアノブに手をかけた。
「どこ行くんですか?」
「お茶飲みに行くだけよ」
「それなら、俺が取ってきます」
「いいよ、自分で行くから。お父さんもお母さんも今晩は帰ってこないんでしょ?」
そう言うと、彼女は部屋から出ていってしまった。
後をついていくと彼女にもっと怒られそうだったので、誠司はおとなしく部屋で待っていたが、一向に彼女が帰ってくる気配はなかった。
心配になって、様子を見に一階に降りてみたが、誰もいない。
まさかと思って、玄関に向かうと、母のサンダルがひとつ無くなっており、玄関の鍵が開いていた。
まずいことになった。
若くて綺麗な女性が一人でこんな夜遅くにふらふらと歩いていたら、襲われるかもしれない。
何より、あと2時間たらずで結衣は人形に戻ってしまう。
一応日をまたげば、また生身に戻れるが、人形に戻る予定時刻が11時頃なので、それから1時間は人形のままだ。
もしも、道の真ん中で人形に戻ったりなんかしたら、車にひかれて彼女の体がバラバラになってしまうかもしれないし、そうでなくても誰かにいたずらされるかもしれない。
誠司は玄関脇にかけられていた鍵を手に取り、スニーカーを履いて、誠司は玄関から飛び出した。
ジャージと下着ぐらいしか身につけてないので、夜風が肌寒い。
「結衣さん。どこですか?」
誠司は自転車であたりを走り回りながら、彼女の名前を呼んだ。
そう遠くまで行ってないと思うが、時間が経つほど彼女を見つけられる確率が落ちてしまう。
十数年前彼女はこのあたりに住んでいたが、彼女が生きていた頃とは町並みが変わっているので、仮に自分から帰ってくる気になったとしても迷子になってしまうかもしれない。
何度も同じ道をぐるぐると回った。
もう徒歩で行ける範囲なら全て探しつくしたような気がする。
見慣れた自分の街が魔界のように思えてきた。
時刻を見ると10時を過ぎていた。
誠司は泣きそうになりながらも、ペダルをこぎ続けた。
このまま、彼女が無事戻ってこれなかったら自分のせいだ。
自分がちゃんとした服を彼女に用意できなかったからあんなふうに怒らせてしまったのだろう。
必死でペダルをこぎ続け、横断歩道を通過しようとしていたとき、後方から女性の悲鳴が上がった。
今の声は彼女のものだろうか。
誠司は自転車を反転させた。
信号が赤になりトラックが突っ込んでくるが、何とかかわして、声のした方を目指す。
女性が嫌がるような声が断続的に聞こえてくる。
やっぱり彼女だ。
誠司はペダルが吹っ飛んでしまいそうな勢いで漕ぎ坂道を下って、河川敷に出た。
高架下で二人組の男が、前後から結衣を挟み込んでいる。
片方の男が結衣を羽交い締めにし、もう片方の男がジャージの上から結衣の両胸を揉んでいた。
「この女、おっぱいでけー」
ああああああああああああ俺の結衣さんのおっぱいをぉぉぉぉぉぉぉおおおあいつ殺す絶対殺すほんと殺今すぐあの世に殺暗殺射殺撲殺殺ころころすくぁwせdrftgyふじこlp……
誠司は、自転車を加速させて左腕を伸ばした。
結衣のジャージのチャックに今にも手をかけようとしている男の首にラリアットを食らわせる。
男が倒れた。
誠司は自転車から飛び降りて、立ち上がろうとする男の後頭部を押さえつけ顔面に膝蹴りを放った。
男の鼻がひしゃげ、夥しいほどの鼻血が流れた。
「なにしやがる?」
結衣を拘束していたもう片方の男が結衣を突き飛ばし、誠司に殴りかかってきた。
だが、遅い、遅すぎる。
殴る前に肘を張るなど愚の骨頂。
避けてください、殴ってくださいと言わんばかりの愚かな振る舞い。
誠司は男が右腕を引いている間に、あご先に左ジャブを放った。
一瞬仰け反った隙をついて、右ストレートで再度アゴを打ち抜き、ふらつく男の鳩尾に右アッパーを叩き込んだ。
男の体がくの字に曲がる。
そのままでも倒れただろうが、念の為に男のサイドに回り込んで腎臓にボディブローを叩き込んだ。
筋肉にも骨にも守られていない背中にある急所の一つだ。
格闘技の試合では反則を取られる。
多分数分はまともに動けないだろう。
「結衣さん、無事ですか?」
「誠司くん、後ろ」
返事の代わりに結衣は警告を発した。
とっさに振り返った誠司の頭めがけてハイキックが飛んでくる。
上体をのけぞらした誠司の前髪を蹴り足が掠めた。
ハイキックを放ってきたのは、身長180センチほどの誠司よりさらに数センチ大きく、タンクトップが張り裂けそうなほど筋肉が発達した大男だった。
「タカ先輩こいつ強いっすよ」
誠司に腎臓を殴られてイモムシよろしく地面に這いつくばってる男が息も絶え絶えに言った。
「敵はとってやる」
タカ先輩は猛獣のような重低音の声で言った。
誠司は両腕を上げてファイティングポーズを取った。
「ボクシングか? こいつは面白い」
素早く踏み込み、余裕綽々のタカ先輩との距離を詰め、こめかみに左フック。
ジャストミートは逃したが手応えはばっちりだ……が倒れない。
距離を取ろうとした誠司の腹めがけて、タカ先輩は前蹴りを突き刺した。
内蔵が爆発したかと思うほど、重い蹴りだった。
結衣はキャッと短い悲鳴を漏らして口元を両手で覆った。
ああ可愛いぜ、マイエンジェル。だけど、今、君に構ってる暇はないんだ。ごめんよ。
思わず膝をつきそうになる誠司に向かって、タカ先輩はにやりと笑った。
「いいパンチだった。気が高まるぜ」
お前はどこの戦闘民族だ。
「だが、蹴り技の方はどうかな?」
やたらとドスの利いた声で言うと、タカ先輩はローキックを放ってきた。
誠司の太ももに鈍痛が走る。
なんという重い蹴りだ。
肉を叩き潰すかのようなその一撃はまさに鈍器。
タカ先輩は巧みにパンチに織り交ぜながらローキックを放ってくる。
パンチは全て叩き落すかかわすかしたが、ローキックをなかなかかわせない。
「誠司くん」
結衣がおろおろとしながら、彼の名前を叫んだ。
「結衣さん、逃げてください」
「でも……」
「おしゃべりする余裕があるのか?」
タカ先輩はさらにもう一発ローキックを放ってきた。
足が重い。
蹴りを喰らいすぎた。
これではフットワークが死んでしまうため、ローキックが飛んできても後ろに下がってよけるということができないし、踏み込みも満足にできない以上、有効打を放てない。
逆転の目はほとんど消えてしまったが、ここからなんとか勝つためにはこれ以上ローキックをもらうのだけは避けなければならない。
そう言えば、聞いたことがある。
ローキックは足を上げて、すねでカットするらしい。
慣れない動作で少し不安だが、狙ってみることにした。
誠司が決意した直後、タイミングよくローキックが飛んできた。
誠司はとっさに片足を上げた。
その時、悲劇が起きた。
ローキックをカットしようとして足を上げたのが少し遅れたために、本来ならスネでカットするはずのローキックを膝で受け止めてしまったのだ。
ばきんという乾いた音が響く。
「折れた、折れた、助けてーママー」
攻撃をしたはずのタカ先輩が逆に地面に倒れ、関節がひとつ増えたかのように脛の中ほどが、ぐにゃりと折れ曲がっていた。
狙ってできることではないが、格闘技の試合でもたまに起きる事故だ。
タカ先輩はそれまでのワイルドな振る舞いとは打って変わって、幼児のように泣き喚いている。
「よし、逃げよう」
誠司は自転車を起こして、結衣の右手を引っ張った。
「でも、誠司くん。あの人たちほっといていいの?」
「いいんですよ」
警察の事情聴取にあったりしたら、身元不詳の結衣は帰してもらえなくなるかもしれないし、あと一時間たらずで人形に戻ってしまう以上面倒事は避けなければならない。
誠司は荷台に結衣を乗せて自転車を出した。
それから無我夢中で自転車を漕いで帰宅した。
家についたころには10時20分を過ぎていた。
なんということだ。
せっかく今日も彼女との至福の時を過ごせるはずだったのに、残された時間は40分しかない。
「ところで、結衣さんどこも怪我してないですか?」
家の廊下を歩きながら、誠司は結衣に尋ねた。
「大丈夫よ。誠司くんこそ平気?」
「俺のことなんてどうでもいいです。あの……胸揉まれる以外に変なことされてないですよね?」
「うん、誠司くんが助けに来てくれたからね」
「よかった……」
全然良くないけど……あとで彼女の胸をいつもより多めに揉んでおこう。
「でも、今日は本当にごめんなさい。女の人に男の古着なんて着せようとして結衣さんを傷つけてしまいました」
「私の方こそごめんなさい。誠司くんと買い物デートできると思ってたのに、約束破られちゃったような気がしたから」
ああ、それで怒っていたのか。
「そういうつもりじゃなかったんです。ただジャージのまま服を買いに行くわけにも行きませんから、応急処置として、とりあえず俺の服を着てもらおうかと思っただけで……」
「そうだったの? てっきり、私なんかとデートするのが面倒くさくなっちゃったのかと思っちゃった」
どんなに見た目がリアルになっても、私はしょせん人形だから……と彼女は悲しげに付け加えた。
「面倒なんてそんなことないですよ。むしろ楽しみにしてたぐらいです」
「ほんと?」
彼女は一転して顔を輝かせた。誠司の両手をがっちり握っている。
「ところで、なんか汗かいちゃったね?」
結衣は突然艶っぽい表情になると、ジャージの上着のチャックを中程までおろしてから、ジャージをパタパタとさせて風を起こした。
薄茶色の可愛らしい乳首がジャージの隙間からチラチラと見える。
「ねぇ? シャワー浴びない? せっかく家に誰もいないんだしさ」
結衣は潤んだ瞳で誠司を見つめると、両腕を彼の首からませて顔を近づけた。
頬のあたりに、呼吸を荒くした彼女の吐息があたり、誠司の男性としての部分が元気になった。