封印されし書物
朝を迎えると、誠司は人としての尊厳を失いかけていた。
彼の横で寝ているのは全裸の人形。
近づいて来るのは、階段を上る母の足音。
時計を見ると午前6時。
いつも母が自分を起こしに来る時間だ。
「結衣さん。早く隠れてください」
体を揺すってみたが、全裸の人形はピクリともしない。
また人形に戻ってしまったのだろうか。
それとも、あの夢のような時間は本当にただの夢だったのだろうか。
しかし、本来、閉じれないはずの人形のまぶたが、はじめからそういう風に出来ていたかのように閉じられており、今にも寝息が聞こえてきそうだった。
とは言っても、産毛がなくなっており、肌の質感や血管や寝転がった時の胸の感じは人形のものだった。
昨晩というか、今日の深夜のお楽しみの最中、彼女が寝転がると、彼女の大きくて綺麗な胸は横に広がったし、前かがみになるといつもより胸のボリュームが強調されたりして、姿勢に応じて胸の形が変わっていたが、今の彼女はどんな姿勢になっても胸の形が変わらなかった。
お楽しみの最中は彼女の体から体液もでてきたし、体の構造そのものが変わっていたとしか思えない。
自殺した彼女の怨念か執念か、はたまた神のはからいかは分からないが、そういうファンタジーな力によって彼女は一時的に本物の人間のようになっていたのだろう。
そんなことを考えている間に、母の魔の手がドアノブを回した。
誠司はとっさに布団を人形にかぶせた。
自分は全裸だが、寝汗をかいて着替えていたことにしよう。
むしろ裸になっていれば、遠慮した母がすぐに部屋を出て行ってくれるだろうから時間が稼げる分好都合だ。
扉が開くと、母は息子が全裸になっていることを気にもとめずにずかずかと部屋に入ってきた。
ああ、この女には息子のプライバシーなどノミの糞ほどの価値もないのか。
「その白いジャージ使ったの? 洗濯物あるんなら全部出してよ」
母は掛け布団の端からのぞいているジャージに視線を向けた。
破滅の足音とともに母が一歩……また一歩とベッドに近づいてきた。
この布団をめくられたら、人として終わってしまう。
「俺だって、年頃なんだから、着替えてんのに入ってくんなよ」
誠司は片手で股間を隠すふりをしながら、もう片方の手で母を部屋の外まで押し出した。
「なによ? 自分の息子の裸見たって何も思わないわよ」
母はぶつくさ文句を言っていたが、誠司は扉を閉め、鍵をかけた。
怪しまれるだろうが、人形が見つかるよりましだ。
誠司は、ベッドの下から破れたダンボールを引っ張り出して人形を中におさめた。
もちろん、ベッドの下に戻す前に、口づけをしておく。
白いジャージは母に見られてしまったので洗濯物に出さなければならない。
今日は全裸で我慢してもらおう。
ずっとダンボールハウスなのもかわいそうなので、近いうちにクッションで寝床をしっかり作っておこうかなどと考えてるうちに、制服を身につけた。
ぼんやりとした頭で人形のことを考えながら朝食をとり、学校に向かった。
その日、誠司は地獄を見た。
今日の深夜はお楽しみだったので、結局、彼が眠りに就いたのは午前2時前だった。
つまり4時間ほどしか寝てないことになる。
毎日7時間以上は寝ないと満足できない誠司にとって耐え難いほどの苦痛がもたらされた。
誠司は、何度も意識を失いかけながらも6コマの授業を生き残った。
それから、10日が経った。
10日間、誠司の人形は毎日2時間だけ命を宿した。
彼女と毎日一緒に頭を抱えてわかったことだが、どうやら、人形は1日2時間だけ生身の人間として活動できるらしい。
結衣の魂は常に人形の中に閉じ込められているらしく、常に人形目線でものを見たり聴いたりすることはできるらしいが、生身として活動していないときは指先一つ動かせないようだ。
生身の人間として活動できるのはどの1日のうちどの2時間でも自由に選べるらしく、日をまたげば夜の10時から2時まで連続4時間活動できることも判明した。
その代わり、一度生身になれば、2時間経つまでもとの人形には戻れず、1日のうちに活動できる時間を分散して使うということもできず、また1日生身になるのをやめたからといって、他の日にその分だけ生身になれる時間が伸びるというわけではないようだ。
そして、彼女が何故人形に取りついてしまったかだが、かつて恋人に捨てられた彼女は、誠司に愛情を注がれる人形を見ているうちに羨ましくなり、あの人形のように愛されたいと思い何度か憑依しているうちに人形の中から出られなくなったそうだ。
「結衣さんはお腹空いたりしないんですか? 全然何も食べないですけど」
二人でベッドに並んで座っていると、誠司が唐突に尋ねた。
「言われてみれば、昨日あたりからちょっとお腹減ってきたかも? 人形に戻ってる間はそういうの全然気にならないけれど。生身でいる間はちょっとずつ体力を使うのかな?」
「じゃあ、冷蔵庫から何かとってきますね」
誠司は一階に降りて、冷蔵庫の中を漁り、調理せずに食べれる物を適当に選び出して部屋に戻った。
笑顔で迎えてくれる結衣の姿を想像して、扉を開いたが、結衣はこちらに背中をむけて床に座っていた。
「結衣さん?」
彼が声をかけると、結衣は肩ごしに振り返った。
その瞳があまりに澱んでいたので、誠司は思わず後ずさった。
「ねぇ、これどういうこと?」
結衣は暗い声で尋ねた。
座り込んだ彼女の前には、誠司の秘蔵コレクションもといエロ本の山が置かれている。
結衣は何故かカッターナイフを手にしており、全く理解できないことに、その刃をエロ本の山に振り下ろした。
あーやめてー俺のエロ本がー。
結衣はカッターでエロ本の山を切り刻んでいった。
「ほんとサイテー。あんなこと言って、浮気してただなんて……信じられない……嘘つき……気持ち悪い……気持ち悪い……」
結衣はぶつくさと言って、エロ本を切り続けた。
「結衣さんのその体が家に来てから、そんなの一度も見てませんよ」
「じゃあ、なんで捨てないの?」
結衣の声は冷たかった。
まさしくお人形さんのように顔が整っているので、ほとんど表情を変えずに怒られると、すごく冷たい印象を受ける。
それになんだか目つきが普通じゃない。
この人、やっぱりどこか変だ。
ちょっとぶりっ子だけどお茶目で優しくてまともな人だと思ってたのに、恋人に捨てられて自殺しただけあって、どこか常人と感覚がずれているのだろうか。
「爆乳大集合。Hカップ以上限定……か」
結衣はエロ本の一つを拾い上げるとふっと鼻で笑った。
「ごめんねーEカップで。ごめんねーバスト90超えてなくてー。だからブラジャー買ってもらえないのかー。それどころか、ずっとジャージのまま。どうせ爆乳じゃないと、おしゃれしても無駄だって言うんでしょ? ほんとにごめんねー」
結衣は手を止めず、嫌味ったらしく声を張り上げた。
はっきり言って怖いとかそんなレベルじゃない。
この世に未練を遺して自殺した幽霊が人形に取りついて、恨み言を言いながら刃物を握っていると表現すると誰にでもその恐ろしさがわかるだろう。
誠司は素直に謝ることにした。
彼女が恐ろしかったのもあるが、放っておくと自傷行為に走る可能性もあり彼女が心配だったからである。
誠司は食べ物を机に乗せて、土下座した。
「ごめんなさい。いますぐ処分させていただきます。本を捨てるのが遅れたのは、ここのところ結衣さんのことばかり考えていて他のことになかなか気が回らなかったからです。もちろん、そんなことは言い訳にもならないということは承知しています。気が済むまで叱ってください」
その後、たっぷり30分説教されたが、誠司が平謝りをつづけて、今度彼女の服を買う約束をすると、なんとか怒りを静めることができた。
しかし、とんでもない約束をしてしまった。
彼女の服を買うためには、今度彼女とデートしなければならないのだ。
もちろん、誠司にとっても彼女とのデートは嬉しいものだが、二時間しか活動できない女と服を買いに行くというのはほとんど不可能に近いことだろう。
下手したら往復の時間だけで二時間なんて過ぎてしまう。
まさか通販で服を買うわけにもいかない。
もしかしたら、彼女はそれでも満足してくれるタイプの非情に寛大な心を持った女性かもしれないが、それを確かめる勇気は誠司にはなかった。