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金色のセリン  作者: 峰子
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第7話

 昨夜もらった手紙はノーラのエプロンのポケットの中でくしゃくしゃに丸まっていた。

 折り目もそのままに木箱の中にしゃんとして納まっている他の手紙に比べて、その扱いはあまりにぞんざいだった。

 それでも捨てられないのは一縷の望みを手放せないでいるからだ。


(レイノル様はあたしのことも迎えに来てくれる)


 だって今まであんなに素敵な手紙をたくさんくれた。彼も自分を想ってくれているはずだ。ツィーリャの恋人と、愛情の表現の仕方が違うだけだ。


「失礼します」


 悩みの渦巻く心を抱えたままツィーリャの燈台の部屋の扉を潜った。ノーラは今日、ツィーリャの食事の世話係なのだ。

 窓辺から振り返ったツィーリャは、ノーラとほとんど年が変わらないように見えた。彼女は年より幼く見えるのだ。目が大きく、水晶みたいに輝いているからだろうか。それともツィーリャが純粋そうに見えるからだろうか。ノーラとツィーリャはその境遇があまりに違い過ぎた。ひとつ、共通点を挙げるとするなら、ふたりとも囚われの身というところだろうか。この屋敷に、クレイアに繋がれた囚われの身の上。

 ツィーリャはノーラを見ると大きな瞳を更に大きく見開いた。その仕草でツィーリャがあの黒衣の男から何か聞いているのだとすぐに分かった。

 ノーラは頭の回転が速い。目でツィーリャに合図をする。まだ言葉を交わすには早過ぎる。

 そうしたところで、ノーラは咄嗟に思った。迷っていても、自分はレイノルの頼みを無下には出来ないのだ。彼の頼みだからこそ、断れなかった。

 重く、音を遮る扉が閉じて静寂が訪れてから十分に待った。波の音とノーラが用意する朝食の食器の音だけが小さく響く中、ツィーリャはそれに紛れてしまいそうな小さな声で言った。


「…あなたがギデオンの言っていた方なんですね」


 ノーラは、一瞬手元の食器の音を騒がせた。歌っている時の声とは違う幼い声。ツィーリャはこの屋敷では言葉を交わしてはいけない存在だった。その彼女から先に声をかけられたことにノーラは驚いたのだ。


「ギデオン?」


 もしかしてあの黒衣の人のことを言っているのだろうか。


「ツィーリャの恋人はギデオンと言うの?」


「…恋人じゃありません」


「え?でも…」


 昨夜手紙を持ってきたとき、初めて見た黒眼の眼差しは真剣そのものだった。あの必死さはツィーリャのことを本当に想っているからだと思うのに。


「…私はギデオンを好きですけど、ギデオンが私を好きかはわかりません」


「確かめたことはないの?」


「………怖くて」


 ああ、自分と一緒なのだ。

 ノーラは胸がきゅっとすぼまって泣きたくなった。

 手紙をもらっても、会いに来てくれても、愛されていることに自信を持てない。真実を知ることも怖くて、ただ立ち往生をしてうずくまっているだけしか出来ないでいる自分と同じなのだ。

 自信を持つことなんて出来ない。確かな言葉ももらっていないのに、と心の中で不安な気持ちを転がした。

 たとえ愛の言葉をもらっても、ノーラなら結局は自信なんて持つことは出来ないだろうに。


「好きだと言われたことはないの?」


 ツィーリャはふるふると頭を振った。柔らかそうな明るい色の金髪が空に舞う。

 ノーラはツィーリャとギデオンがツィーリャの部屋で一晩を過ごしているのを知っている。

 レイノルに会う前の自分なら、それを汚らわしく思って見なかったふりをしたかもしれない。しかし、人を好きになるということを知った今では少し違った見方が出来るようになっていた。

 ギデオンは確かにツィーリャを愛している。ノーラに頼むと言った彼の眼差しはツィーリャを想っている。


『好きだと言われたことはないの?』


 ツィーリャの頭の中ではノーラの言葉が繰り返し響いていた。その大きな瞳が戸惑いと切なさに揺れる。

 言葉は目に見えないくせに、時に計り知れない存在感を持つことがある。ツィーリャにとっては今がそうだった。

 花よりも自由よりも、その言葉こそが今は欲しかった。花も自由もギデオンのくれるものだからツィーリャを幸せで満たした。


 自由になったとして、ギデオンと一緒にいられるのだろうか?


「ツィーリャ、どうしたの?」


「……ギデオンが私を好きでないと一緒にいられないのでしょうか?」


「それは…」


 ノーラにもわからない。互いに思い合っていても結ばれない恋人もある。分かりやすいシンプルな法則などない気がする。


「それはあたしたち次第じゃないかしら?」


 ツィーリャに自分を重ねていたノーラはついそう言った。


「…たち?」


 ノーラがしまった、と過ぎた口を窘める前に、ツィーリャがその言葉の意味を問うて首を傾げた。


「……あたしも好きな人がいるの。その、ツィーリャの好きな人のご友人でね。レイノル様というの」


「…様」


「…貴族なのよ。あたしとは全然身分の違う方。これはあたしの一方的な片思い」


 ノーラは寂しく微笑んだ。ずっと心の中に転がしていた不安な気持ちの正体はこれだった。口にすれば本当と認めてしまうと思っていた。

 言葉の力が大きいことをノーラは知っている。これはノーラの片思いなのだ。


「レイノル様の頼みだから、あなたを助けるわ。今夜よ」


「……ありがとう」


 ツィーリャの笑顔は温かかった。


「あなたのお名前は?」


「ノーラ」


「…いい名前ですね」


 ツィーリャの言葉が脳裏であの声と重なる。


『いい名前だね』


 ツィーリャがにっこり笑った。


「思い出しました?」


「な、なんでわかるの?」


「ノーラさんから温かい音がしました」


 どきりと心臓が弾む。耳元で聞こえたその音が、ツィーリャにまで聞こえてしまっていたのだ。ノーラはそう思った。


「ねえ、あたしのことはノーラでいいのよ。敬語も必要ないわ。ただの侍女に過ぎないんだもの」


 むしろ敬語を使わなきゃいけないのはあたしの方、と彼女は付け加えた。すっかり忘れていたが、ツィーリャはクレイアの大事な歌姫なのだ。


「ノーラ、ありがとう。私、あなたのことが好きです」


 かあっと耳元まで熱が回った。なんてはっきりと気持ちを伝える子なんだろう。


「……そう、ありがとう」


 素っ気ない言い方が我ながら可愛くない。


「……あたしも多分、あなたが好きだわ」


 ツィーリャの笑顔は何だか幼くて、純粋で、その純真を護ってやりたくなる。ギデオンという人もきっとこの笑顔を護りたいのだ。


「あたし、あなたを助けるって決めたわ。今本当に決めたの」


 ノーラはツィーリャを助ける計画に乗ることをその時はっきりと決めたのだ。





 計画は今宵新月の闇の中密やかに行われた。


「いつもお疲れさま」


 門番達の前に現れたのは、いつも同じくらいくたびれている、この屋敷の侍女だった。吹き荒れる春の嵐に、彼女の持つ灯りもまさに風前の灯火の如く揺れ惑っていた。


「風が強くて、春先だというのに今日は冷えるでしょう?台所からウィスキーをくすねて来たの。ふたりとも温まって」


 門番はこの侍女に貸しがある。彼女が普段からやり取りをしている秘密の手紙の仲立ちをしていたのは彼らだった。これはその日頃の謝礼ということだ。そんなことがなければ彼らの口に入らないようないい酒だった。

 貸しは作っておくに限る、と門番たちは破顔した。


「こんないい酒、よく持って来られたな」


「ええ。苦労したのよ。味わって飲んでね」


 ウィスキーの瓶を受け取りながら門番たちは喉を鳴らした。


「これはおまけよ」


 彼女が取り出した包みは開けなくてもわかる。チーズだ。独特の臭みは上物である証だ。


「ウィスキーにチーズとは、気が利いてるねぇ」


「すきっ腹にウィスキーじゃ、酔いが回って門番どころじゃなくなっちゃうでしょ?」


「これも味わって食べてね」





 薬入りのチーズで門番たちが寝入ったころ、ふたつの黒い影がクレイアの屋敷に滑り込んだ。ノーラの手引きだった。今回の計画の、ノーラは要だった。いつもとは違い、今回は脱走の手引きだ。計画の途中で彼女にも危険が及ぶ可能性は十分にある。それでもノーラは引き受けてくれた。


「ノーラ、ありがとう。本当に感謝している」


 ギデオンがノーラの目を見ながらはっきり言う。その目には僅かな星明りが反射して輝いているように見える。これは彼の本心なのだ。こんなに率直に気持ちを伝える人をノーラはもうひとり知っていた。思わず小さな笑い声を漏らす。


「ギデオン様はツィーリャとそっくりですね」


「あいつと会ったのか?」


「ええ。ギデオン様はツィーリャに愛されておいでですね」


 暗闇の中でもギデオンが顔を赤くしたのがわかった。


「…っ、からかうな…」


 そう言い置いて、滑るように燈台に向かって行った。風に折れそうなあの小さな燈台へ。ツィーリャの許へ。


「ノーラ」


 ギデオンが立ち去った後、彼よりは幾分小柄なレイノルがひょいと姿を現した。飄々とした体の彼は本当にそんな形容がよく似合ったのだ。ノーラの鼓動は彼に会えたことだけで容易に速度を速める。


(ああ、やっぱり好きなんだわ)


 たとえこれが片思いであっても、この人がノーラを置いて遠くに行ってしまっても、寂しいだろうが、恨みはしない。彼女はそう決めていた。思いが届かなくても、出来ることをしたいと思ったのだ。レイノルの頼みを聞くこと。ツィーリャを助けること。ツィーリャが自分の代わりにその恋を叶えてくれればいい。


「レイノル様…あたし……」


 これから事を起こそうという時で、場違いなのかもしれない。それでも今しかチャンスはない。ツィーリャを助けた後、彼らはノーラの前から消えてしまうのだ。


「あたしは…」


「ノーラ」


 至極真面目なレイノルの表情に、ノーラはぎくりと肩を震わせた。いつもの彼とは違って厳しささえ感じさせる。彼女は思わず言葉を忘れた。想いを口にすることは叶わなかった。


「……君は馬に乗れる?」


「え?……あの、ポニーくらいなら乗ったことはありますけど…」


「じゃあ、俺が手綱を握るから」


「え?あの、何のことですか?」


 レイノルが何を言おうとしているのかわからず、ノーラは戸惑った。なぜ今乗馬の話なのだろう。世間話をするにはそれこそ場違いなのではないか。


「君は俺の後ろに乗ればいいから。怖い思いは絶対させない。馬術には自信があるんだ」


 先程レイノルの表情に見たのは厳しさではなかった。彼は緊張しているのだ。


「街外れの林の中に馬を四頭繋いであるんだ。俺とギデオンとツィーリャと、それから、君の分。でも三頭で十分かな」


「レイノル様…」


 夢じゃないかと思った。つい先程、ひとり残る覚悟を決めたというのに。もう絶対に姿を見ることも出来ないのだと思っていたのに。


「一緒に来るかい?」


 その言葉が嬉しくて、ノーラはついレイノルの首元に抱きついた。はしたないとは思ったけれど、そこはこの闇夜だ。新月が見ない振りをしていてくれる。


「一緒に連れて行って」


 レイノルはノーラの身体を抱き締め返す。胸がじわりと熱くなった。


「誰にでも一緒に来いなんて言わないよ。ノーラだから言うんだ」


 レイノルがすっと素早く息を吸い込むのがわかった。


「ノーラが好きなんだよ」


 あたしもです、とはしばらく言えなかった。泣き声を出さないように堪えるのが精いっぱいで、想いを口にすることは叶わなかった。

 ポケットの中の手紙は綺麗に伸ばしてあの箱の中にしまってある。あれも一緒に持って行かなければならないだろう。涙が落ち着いて、箱を取ってきたらノーラも言おう。

 ノーラはレイノルが好きなのだ。


「ノーラ、俺たちはもう行かなきゃ。馬の用意をしてギデオンとツィーリャを待つんだ」


 ノーラは頷く。無理矢理涙を引っ込めて、目元に残った雫を掌で乱暴に拭った。


「…て、手紙を…持って来ないと…」


「手紙?」


「今までもらった手紙」


「全部取ってあるの?」


 こくこくと頷く。


「……また書いてあげる。いや、書かなくても、これからはずっと一緒だろう?」


 レイノルの指がそうっと優しくノーラの涙を拭った。


「さあ、行こう」


 レイノルに手を引かれて、新月の晩。

 ノーラは屋敷を後にした。





 海側の窓は既に錠を外してあった。今日は風が強い。錠の下りていない窓はガタガタと揺れて暴れている。ギデオンの持って来た野の花が、大き過ぎる杯の中で微かな風に揺れている。


(ギデオン…)


 彼はこの風の中、塔を上ってここに来るのだ。途中で怪我をするんじゃないか、悪くすると落ちてしまうのではないかとはらはらした。落ちたらこのすぐ下は荒波の狂う海しかない。その凶暴はこの風で更に煽られている。


(ギデオン…)


 ツィーリャは窓辺から離れることが出来なかった。

 その時、窓辺とは反対側から錠の開く音がした。ツィーリャはびくりと肩を震わせる。ここに閉じ込められて以来、クレイアが訪れることはなかった。だから今夜もそうなのだと思っていたのに。

 重い扉の向こうから姿を現したクレイアは、前に見た時より随分やつれて見えた。


(ああ…)


 何があったのか、可哀想に、と手が伸びかけた。


「こんばんは、ツィーリャ」


 伸びかけた手は動きを止めて身体の後ろに隠した。

 笑ったはずのクレイアの目は血走っていて、仮面のように口角だけで笑っていて不気味だった。


「いい子にしていたかな?」


 仮面の笑顔でクレイアがツィーリャに一歩近付く。ツィーリャはその一歩の分、後ずさった。

 クレイアの視線が横に逸れる。彼の目が捕らえたのは、杯の中で不恰好に頭を垂れる小さな花だった。


「……どうしていい子にしていられないのかね?」


 仮面から笑顔の影が消える。


「……マスター……」


「お前は私のものだと言ったはずだ!!」


 クレイアは大股にツィーリャとの距離を詰め、彼女の細い肩を力いっぱいに掴んで壁に打ち付けた。そのまま何度も、何度も。


「どうして…どうしていい子にしていられないんだ!?お前は私以外のものになってはいけないんだ!そう、何度も言って来たのに!!どうしてお前は間違えるんだ!!」


 打ち付けられる衝撃でツィーリャは口の中を切って唇の端から血を流した。その赤い色を見て驚いたようにクレイアの手が離される。


「……私は間違っていません。私、ギデオンが好きなんです!」


 頬に鋭い痛みが走った。


「それ以上は許さん!お前はここにいるんだ!たったひとりで!!ずっと私の傍にいるんだ!!」


「……マスター……」


 流れる涙は痛みのためではない。目の前の養い親は今までで一番孤独に見えた。今までで一番悲しく見えた。


「…ごめんなさい、マスター…」


 どれだけクレイアを悲しませても、ツィーリャはギデオンが好きだ。それはもう止めようがない。扉を開いたのはツィーリャなのだ。ギデオンのいるところは楽しそうだった。ちょっと爪先を浸してみたら、驚くほどの光と彩に溢れていた。勝手に胸が弾んで、とても楽しくて恋しかった。

 だから扉を開けた。


「私はギデオンの傍にいたいんです」


 クレイアは再びツィーリャの頬を打った。


「それならその窓から今すぐ飛び立つがいい!」


 窓が開け放たれ、ツィーリャの金の髪が風に嬲られて舞い散った。窓から上半身だけが放り出されている状態だ。その身体を支えるのはクレイアの腕一本だけ。ツィーリャの下には暗い大きな洞穴から荒れ狂う波の音が鳴り響いていた。


「さあ!その翼でもまだ啼くのか!?」


 ツィーリャは恐怖に舌の根が強張った。歯が噛み合わずにカチカチと鳴っている。クレイアが怖かった。これほどツィーリャに執着する彼を怖いと思った。同時に、憐れに思った。何が彼をこんな風にしてしまったんだろう。

 ツィーリャの知るクレイアは優しくて穏やかだ。彼の心にはそんな陽だまりのような温かさもきっとあるはずなのに、どうしてこんなに鋭く、人を恐怖に震わせるようになってしまったのだろう。彼は何が欲しかったのだろう。


(ギデオン…)


 もう会えないのかもしれない。ここでクレイアに落とされるか、でなければ一生飼われて過ごすしかツィーリャの未来はなさそうだ。でも、ギデオンが今のクレイアに会ってしまったとしたら?ギデオンはツィーリャを助けると言ってくれた。ツィーリャが待っている限り、何回でも助けに来てくれる。しかしクレイアはギデオンを許さないだろう。今のクレイアなら、考え得る中で一番酷い方法でギデオンを壊してしまいそうだった。いや、それは事実になる。だから、ギデオンはここに来てはいけないのだ。

 飛ぶ力のない翼が風に煽られて大きく広がる。


 ツィーリャがここにいなければ、ギデオンがここに来る意味もなくなるのだ。


「ツィーリャ!!」


 燈台の下まで来ていたギデオンが叫ぶのと、ツィーリャがクレイアの手を振り解くのとは同時だった。

 ツィーリャはクレイアの恐怖に凍った顔を見ながら、時がゆっくり流れるのに身を任せた。少しずつ、少しずつ、ツィーリャの身体はクレイアの手を離れて風に抱き留められる。

 羽ばたくことのない翼は風に嬲られてまるで羽ばたいているようだった。


「ツィーリャ!!」


 崖の上でツィーリャを呼ぶギデオンと、崖の下に落下していくツィーリャの目がしっかりと合った。落下するツィーリャと、燈台の下に立つギデオンと。崖を一線にしてふたりは正反対の格好をしていた。この闇夜でもギデオンの姿はよく見える。だって彼の周りにはいつでも光が舞っているのだから。ツィーリャには見えるのだから。

 最期に見るのがクレイアの恐怖と悲哀の顔ではなく、ギデオンの姿だったことはツィーリャにとっての幸いだった。だから彼女は笑った。

 闇の中に金色のカナリアが吸い込まれていく。


「ツィーリャ!!」


 強い声が耳元で叫んだ。ツィーリャの目の前で、ギデオンが崖の下に飛び込んだ。


「だめ!!ギデオン!!」


 制止は時間の流れの前には無意味だった。彼女を追うようにギデオンの身体が荒海に近付いていく。だがギデオンの伸ばした手がツィーリャに今一歩届かない。


「ギデオンッ!!」


 ツィーリャの翼が風を孕んだ。風に嬲られるだけの、意志のない羽ばたきが飛翔に変わる。


「ギデオンッ!!」


 ツィーリャの声が耳元で叫んだ。届かないと思っていたその手が届いて、しっかりと結ばれる。

 波が頬に触れた。自分はツィーリャと一緒に海に落ちるのだと、その時初めて理解した。せめて冷たい海から彼女を護らなければと、華奢な身体に両腕を回した。

 ふたりの身体が荒海に投げ出されることはなかった。


 羽ばたくことを知らなかった翼は、今開いたのだ。


 初めて羽ばたいたその翼は、しかし力強く闇夜の波の上を滑って行った。


「ツィーリャッ!!」


 ぽつんと灯りを零す燈台から聞こえたクレイアの声は、悲鳴だったのだろうか。それとも泣き声だったのだろうか。

 ひとりにしないでくれと、泣き崩れたのだろうか。





 目指す屋敷が緑の奥に見えた。レイノルはノーラを乗せ、ギデオンはツィーリャを抱えて馬に乗っていた。

 屋敷は、ツィーリャには見たこともないほど立派な城に見えた。レイノルの祖母の屋敷で、「これでもまだ小さい方だ」と彼は言うが、彼女の口は感心に開きっ放しだ。


「…着いたら傷の手当てをしないとな」


 ギデオンの手がツィーリャの肩に触れた。ツィーリャは精一杯明るく笑って振り返る。


「ごめんなさい。まだ飛び方が上手くなくて。着地に失敗しちゃいましたね」


 確かに着地は上手くなかった。飛び慣れないツィーリャはギデオンを抱え、そのまま転がるように地面に不時着したのだ。そうは言うものの、ギデオンの身体には傷ひとつない。ツィーリャの身体だってそのはずだ。頬と右肩に残る痣や傷はクレイアから受けたものだとひと目でわかる。

 どうしてツィーリャがクレイアを庇うのか、ギデオンにはわからなかった。社会からは隔離され、燈台に閉じ込められ、こんな傷を負わされてもなおツィーリャはクレイアを優しい人だと思っているのだ。


「しょうのない奴だな」


 ギデオンもこの場はそれに付き合って道化る。レイノルとノーラはツィーリャの言を信じているのだ。ツィーリャの頭をなでると、もつれた髪が指に絡まった。


「ギデオン…その…私、今髪の毛がくしゃくしゃなので……」


 あまり撫でないで欲しい、と恥ずかしそうに呟いた。


「変わらん。もっとくしゃくしゃにしてやろう」


 わしわしと力任せに撫でまわした。


「きゃー!」


「こら、馬上でいちゃつくな。一応逃避行の最中だぞ。わかってるのか?」


「いちゃついてなんかいない」


「どう思う、ノーラ?」


「いちゃついてると思います」


「俺達なんか、場合をきちんと考えて品行方正に振る舞ってるんだぞ?」


「本当はいちゃつきたいのにか」


「当たり前だろう!」


 ギデオンの茶々にレイノルは語気を強めた。


「思い交わしてまだ時がないんだからな。俺はいちゃつきたい!」


「”いちゃつく”ってなんですか?」


 当然のように赤面するノーラやギデオン達の中にツィーリャが純粋過ぎる質問をくべた。


「”いちゃつく”というのはね、ツィーリャ。思い交わした男女がじゃれ合うことを言うのだよ」


「それなら私とギデオンはいちゃついてません」


 レイノルの目が驚きに見開かれる。


「だって私とギデオンは…」


「あ、着きましたよ」


 ツィーリャのその先の言葉を、ノーラが遮った。レイノルは彼女に微笑みかけ、次いでギデオンを睨み付ける。視線を受けたギデオンは居心地悪く咳払いをした。

 馬から下り、ツィーリャが下りるのを手伝う。傷に障るといけないので、細心の注意を払って。


「急に無理を言ってすまないな」


 レイノルが主人の顔で家守に言う。


「レイノル様が急なのはいつものことで」


 年の行った家守は幼い頃からレイノルを知っている。自分の孫を見るような目でからりと笑った。


「ひとり怪我をしているご婦人がいるんだ。手当の用意をしてくれるか。用意だけでいい」


「はいはい、畏まりまして」


 家守はそう言うと、ノーラとツィーリャを部屋へ案内して屋敷の奥に姿を消した。

 レイノルはふたりで話があるからとギデオンを引き留めたのだ。


「あとで行くよ」


 ふたりには笑顔でそう言った。怪我をしているツィーリャを気遣いながら、ノーラは部屋へと入ったのだった。

 それを見届けてから振り向いて、レイノルは自分より少し背の高いギデオンを下から睨み付ける。目の前ぎりぎりまで人差し指を突き付けた。


「手当はお前がするんだぞ」


「…そのつもりだよ」


 苦々しい気持ちでギデオンは言う。


「まったく、まだ何も言っちゃいないなんて、お前はどこまでヘタレなんだ」


「それだけの時があったか、あの時!?」


「”時がない”とか”タイミングを逃した”とか言い訳はもうするなよ。時なら十分にある。タイミングなら俺が今作ってやった。あとはお前がやるだけなんだからな」


「…わかってるよ」


 実はノーラにも言われたのだ。早く言ってあげて欲しいと。

 このふたりはいい連れ合いになりそうだった。





 手当の道具を持って、ツィーリャの部屋を訪れる。ノーラには彼女の部屋がちゃんと用意されていて、今はそちらで休んでいるところだ。

 尤も、レイノルも一緒だろうことは想像に難くないが、今のギデオンはそれを考えている場合ではない。


「薬をもらってきた。手当する」


「はい」


 ツィーリャは言われるままにギデオンに向き直った。その彼女の向かいに椅子を持って来て、差し向かいであるその位置にギデオンは密かに緊張を高める。


「…いや、やっぱり肩からだ。後ろを向け」


 金色の髪を割って現れたツィーリャの肩の傷は、白い肌の皮膚を破って赤く腫れ上がっていた。指の形の痣もある。どれほど強く掴まれたのだろう。思うと、痛々しかった。それでも彼女は知ってか知らずか、落ちた時の傷なのだと笑う。

 その傷に丁寧に薬を付けていく。どうやっても痛いだろうから、なるべく優しく。


「…髪、梳いたんだな」


「ノーラがお風呂に入るときに綺麗にしてくれました」


「そうか」


「はい」


「くしゃくしゃだったな。木の枝も絡まって」


「え!?本当ですか!?」


 ツィーリャは思わず髪を触った。


「ノーラは何も言ってませんでした…」


 彼女の耳まで赤くなっている。


「嘘だ。木の枝なんか絡まっちゃいない」


「もう。なんでそんな嘘をつくんですか」


「あんたも嘘をついているだろう?」


「え?」


「クレイアのことさ」


 ギデオンはそれだけ言うと傷の手当ての仕上げをした。薬を浸したガーゼを当てて、清潔な布を彼女の肩に巻いていく。


「この傷も、本当はあいつにやられたんだろう?」


 そして、今度はツィーリャの前に回り込んで頬の痣に冷やした布を当てる。


「打たれたか」


 切れた唇に指を触れる。そうするとギデオンの両手がツィーリャの顔を包み込む格好になる。


「痛かったか」


 こんなに腫れ上がっていれば当然だ。痣は赤黒く変色し始めていた。ツィーリャは黙っている。


「どうして何も言わないんだ」


「…落ちた時に」


「まだ言うのか」


 目を伏せてギデオンを見ないツィーリャの頬を撫でた。こんなにも痛々しい傷を負わされているのに。


「……クレイアのところに戻りたいか?」


 それには小さくはっきりと首を振った。


「私はマスターよりギデオンを選んだんです。ギデオンと一緒にいたいんです」


 その言葉に、ギデオンの心臓が何かに掴まれたように一瞬鼓動を忘れた。


「ギデオンは私と一緒にいてくれますか?私は…」


「俺はあんたが好きだ」


 ツィーリャの言葉を遮ってギデオンは言った。


「あんたに一緒にいて欲しい」


 言葉はぶっきらぼうなのに、瞳は熱っぽくそれを語った。


「どこにも行かないでくれ。ずっと俺の傍にいてくれ」


 クレイアと同じ言葉なのに、ギデオンが言うとこれほどに幸せになれる。

 ツィーリャが返事を口にする前に唇を塞いだ。傷もあるのだからと、触れるだけの口付けを。


「ギデオンの傍にいたいです」


「いたいじゃなくて、いると言え」


「はい」


 ツィーリャは笑った。


「ギデオンの傍にいます」


 痣があってもその笑顔は変わらない。純真そのものだった。


「俺はあんたの傍にいるよ、ツィーリャ」


 ずっと、互いの望む限り。


 レイノルの屋敷を出たあと、ツィーリャとギデオンがどこへ行ったかはわからない。きっと、ふたりだけの約束の土地があるのだろう。ツィーリャはそこで歌を歌うのだ。今まで歌ったどの歌よりツィーリャらしくて、楽しく幸せになるような歌を。


 籠で飼われているカナリアも結構だが、野原で歌う野鳥もなかなかの歌声を聴かせる。


 皮肉気に言ったのは、その歌を誰よりも愛してやまない男だったという。


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