第6話
昇った朝日に挨拶をするかのように、澄んだ歌声が空気を清冽に突き抜けた。
ツィーリャの歌を忘れかけていた世界が身震いした。色褪せ、億劫そうに顔を出した太陽が再び輝きを取り戻す。
言葉にすれば涙がこぼれそうだった。だから、心は音にだけ乗せた。最初に震えたのは唇だった。いくら自分の心の中を探っても相応しい言葉の見つけられない想いは、歌詞のないハミング。
この歌は朝日に引き裂かれて帰っていくギデオンに届けるつもりで歌った。不器用な崩れかけの笑顔しか見せられなかったけれど、ツィーリャの気持ちはただひとつだ。
(待っています、ギデオン…)
待っていろと言って抱きしめてくれたから。彼が言うならそうしよう。いつまでも彼だけを待っていよう。
この孤独はクレイアでも野の花でも癒せない。ただひとり、ギデオンだけなのだ。こんな気持ちは初めてだった。ツィーリャは自分の内側が丸ごと剥がれ落ちたような驚きを感じていた。そう、まるで生まれ変わってしまったかのような。剥がれ落ちたその下にあったものは柔らかく傷つきやすい赤ん坊の皮膚のようだった。
あと数夜。空に黒い新月の昇る時、ツィーリャの孤独はようやく潤うだろう。
早く。早く。待ち遠しくてたまらない。あといくつ夜を跨げばいいのだろうか。
(ギデオンに会えるのはあとどれくらい?)
指折り数えて最後に残った小指が畳まれるのを待つ。きっとその瞬間は宝物になるのだろう。
(待っています、ギデオン…)
一際明るさを増した歌声が夜と朝の狭間の空気を引き裂いた。
期待と幸福感を感じさせる歌声であるのに、歌詞のないその歌はどこか物悲しくもあった。孤独の中押しつぶされそうになる心を必死に鼓舞しているように、ある者には聞こえたのだ。
切ない。苦しい。恋しい。会いたい。
歌詞がなくとも波紋のように広がる恋心は、屋敷で一番早く起きる侍女たちの耳を慰めた。
「ツィーリャが久しぶりに歌ったわねぇ」
「ほんと。何かいいことがあったのかしら」
「見てくれは常人離れしてるけどさ、歌はとってもきれいなのよねぇ。歌詞にもうっとり聞き惚れちゃう」
「あんな風に閉じ込められてるとまるでカナリアみたいね」
侍女のひとりが気の毒そうに燈台を見上げた。
「旦那様はどうしてツィーリャを閉じ込めちゃったのかしら」
「ほら、あんな店だからさ、ツィーリャを買いたいって客がまたトラブルでも起こしたんじゃないの」
「ツィーリャにだけはお客を取らせないからねぇ」
「何にしても、あんなところに閉じ込められてるの、可哀想よ」
クレイアが繰り返しツィーリャに言い聞かせて来た嘘と矛盾はありふれて存在する。ツィーリャはその姿ゆえに謂れなき迫害を受けることは一度もなかった。
その声ゆえに愛されることはあったとしても。
クレイアは屋敷の者にツィーリャと触れ合うことを厳しく禁じていたのだ。ただ自分の言葉だけ信じるようにと。
「若くて歌の才能もあってさ。そりゃ見た目の異様さはあるけど、顔だって悪くないでしょ。旦那様はどんなつもりでツィーリャを囲ってるんだか」
言った侍女の声音からはクレイアを嫌っているのがはっきりと感じられた。
この屋敷の侍女の大半は下働きとして買われて来た身だ。よほどのことがない限り、一生をこの屋敷に縛られて過ごす。彼女の揶揄には自分の人生への不満も潜んでいるのだ。
「ノーラ、あなた今日ツィーリャの給仕当番でしょ。戻ってきたら彼女の様子を聞かせてよ」
話に辟易した仲間が話題を切り替えようと笑顔で振り向くが、ノーラはツィーリャの歌声を聴きながら上の空だった。
「ノーラ?ぼーっとしてどうしたの?」
「え?…いえ、何でもないわ」
「そう?」
「昨夜ちょっと夜更かししてたから、まだ眠いだけよ」
そう言って空笑いを振りまく。
「またレイノル様からの手紙を読んでて夜更かししたんでしょ」
ひとりがからかう口調でノーラの目の前で人差し指を振った。
「それでぽーっとなっちゃってるのね、この子」
華やかな容姿と社交的な性格のレイノルは街のどこに行っても人目を引いた。最初こそ、目が離せなくなった大勢の中のひとりだったノーラ。それが今では恋文めいた手紙をもらうまでになったのだ。今でも夢のようだった。
この屋敷の侍女は店の下働きも当番でこなす。恋愛の経験などほとんどないノーラにとって、店の当番が回って来るのはとても憂鬱だった。あの店に溢れる恋は紛いもので、汚らわしく思えた。幼く、潔癖だったと今になって思う。
それが、あの日。
あの日初めてレイノルに会った。
『君はここの踊り子さん?』
『ち、違います!』
ノーラは上擦った声で言いながら掃除に使っていた箒を抱き締め、声を掛けてきた人物から飛び退った。
『その箒は新しい出し物の小道具かと思ったんだけど』
金に近い淡い色の髪と透き通った水色の目をした魅力的なその男は、そう言って笑った。色気のある笑い方だと思った。姿に魅了されなければ、からかわれているとわかるのだが、生憎ノーラは色事の経験があまりに浅い。
『違います!あたしはここの下働きです!踊り子なんかじゃありません!あ、あたしなんか買っても何も楽しくありません!!』
からかわれていることなんか露ほども気付かないノーラの今の格好と言えば、とても踊り子が務まるような煌びやかなものではない。掃除をした後なのでところどころ埃で汚れてさえいる。
ノーラは急に恥ずかしくなって、汚れたスカートを握り締めて出来るだけ彼の目に触れないようにした。こんな恰好をしているのに声をかけて来るなんて、目的は決まっている。ノーラは初めてだったが、他の侍女にはこうして客に声をかけられて一夜を共にする者もいた。
稀にそのまま客に身請けされて、低賃金で働く侍女という立場から抜け出せる者の話も聞いていたが、ノーラにはそれが幸せだとは思えない。身請けをされても、結局は雇い主が変わっただけで、主の顔色を窺わなければならないのは同じだろうから。幸運の中、夢だけ見ていられるほど、ノーラは幸せな人生を歩んでは来なかった。だから他の者にならチャンスに思える彼の登場もノーラには不幸でしかない。
このままでは伽の相手にされてしまう。ノーラは必死にレイノルから目を逸らした。少しでもつけ入る隙を与えてはいけないと思ったのだ。
対するレイノルは少し戸惑っていた。駆け引きの一環で形ばかりの拒否を受けることはあっても、こうまで徹底的に拒否されたことはちょっと記憶にない。見目の整った彼を拒む女は初めてだった。
(俺もギデオンのことばかり笑ってられないなぁ)
これしきのことで戸惑うなんて。このところの決まりきった駆け引きに慣れてしまっていた証拠に違いない。そう思って苦笑した。その笑い方があまりに柔らかく、少し幼く見えたので、ノーラはうっかりそれに見惚れた。
『君はここがどういう店かちゃんとわかってるんだな』
ノーラは顔に熱が回るのがわかった。目の前の品の良さそうに見える男だって、『そういう目的で』この店に来ているのだ。
『と、伽のお相手なら、ほ、ほ、他の人に声をかけてください!いくらでもいるでしょう?綺麗な人が!あた、あたしはお客を取るようなことは出来ません!』
つっかえながらも言い切った。どうかこれで諦めてくれと強く願った。
『…”伽”って言葉の本当の意味を知ってる?話し相手になるって意味だよ』
『え?そ、そうなんですか?』
『そう。ねえ、もし君さえ良ければ、俺の話し相手になってくれないかな?連れが乗りが悪くて、こんな店なのに退屈なんだ』
変な客だと思ったし、もしかしたら一夜を共にしたいがための口実に過ぎないのかも知れないとも思った。
だが、その思考に至ってノーラは羞恥に赤面した。
『……わかりました』
『いいの?』
『お話し相手なら。面白いお話なんて出来るかわかりませんけど…』
『…ただの口実に過ぎないって思わない?』
『ちょっと思いましたけど…』
ノーラは自分の着ている服を見た。決して上等ではない生地の、埃に汚れたみすぼらしい格好をしていた。
『こんな服を着て掃除道具を抱えている娘に、そんな駆け引きが必要だとは誰も思わないわ、って思い直したんです』
『思い直しちゃったのか』
レイノルは笑いながら言った。面白い娘だ。実は下心がなかったと言えないわけではない。いつもと少し違った女が相手なら退屈が紛れると思ったのは正直なところだ。
それが、この娘はレイノルの言葉を額面通りに受け取って、斜に構えたようでいて素直な事に気付かない。恋を知らない少女が背伸びをしているのにも似ているが、彼女はおそらくそれにも気付いていないのだろう。
それが可愛らしくて、つい笑ってしまった。
そして、レイノルの笑った顔に見惚れてしまっている自分に、ノーラは気付いていた。
『思い直してくれて助かったよ。本当に退屈してたんだ』
言われて、ノーラは微笑んだ。おそらくノーラより年上だろうし、身分もある人だろう。だから失礼だと思ったが、レイノルの笑顔を、可愛いと思ったのはせめて言わないでおこうと思った。
『俺はレイノル・ウィンステッド。君の名前は?』
『ノーラ』
『いい名前だね』
結局その夜は、レイノルの明るい話にそぐわない娼館の一室で朝まで話し込んだ。彼が話すのをノーラが聞いて笑ったり驚いたりしているだけだったけれど、レイノルはそれで満足だったようだ。
朝が来て、ノーラはレイノルとはこれっきりなのだと思って切なくなった。彼とのお喋りは時間を忘れるほど楽しかったのだ。もっと話をして、笑った時の少し幼い顔を見ていたかった。
『…君に手紙を渡す時、どこに持って行けばいい?』
『手紙?』
『君への手紙。この店でいいの?』
夢じゃないかと思った。
初めて手紙をもらった時には嬉しくて眠れず、次の日は大欠伸で仕事をしたものだった。
「いいなぁ!私もレイノル様からお声をかけてもらいたい!」
「お店の掃除当番にでもなれば少しはお近付きになれるかしら?」
そんなことを口々に言いながら、侍女たちはその日の仕事に取りかかっていく。だが、ノーラだけはまだ意識を半分自分の中に閉じこめたまま考え込んでいた。
(あの歌……)
ノーラの脳裏にツィーリャの歌声が響く。
(あの男の人はツィーリャの恋人だったんだ……)
新月の夜、レイノルの手紙を持って現れた黒衣の人。彼が歌の恋人の正体だ。そう気付いた時、ノーラはツィーリャがどうしようもなく羨ましくなった。危険を冒して会いに来てくれる恋人がいることに、嫉妬した。
だってノーラの手元にあるのは降り積もっていくレイノルからの手紙だけだ。彼女はそれを大事に取っている。自分の想いに比べてそれらは風が吹けば飛んでしまいそうにか弱く見える。
『ノーラ、あんたに頼みがある』
あの影のような男は言った。
『ツィーリャを助けたいんだ。力を貸してくれ』
受け取ったレイノルの手紙にも、男の頼んだことの詳細が書かれていた。くれぐれもよろしく頼むと。ノーラに対する言葉よりも尚多く。
(あたしのことは?)
ノーラの心に大きく濃い不安が鎌をもたげる。
(ねえ、レイノル様、あたしのことは?)
ノーラへの約束は、その手紙には何も書かれていなかった。
(あたしはここに置いていかれるの?)
そして、二度と顧みてはもらえないのだろうか。
計画通りに段取りをつけて帰って来たギデオンは、守備の報告をした後に改めて確認した。
「なあ、いいのか?」
「何がだ?」
レイノルは何事か熱心にメモに書き付けていた手を止めて目を上げた。メモは手紙のようだった。
「お前はノーラを助けるつもりなんだろう。何も知らせておかなくていいのか?」
「彼女はとても素直なんだ」
レイノルは笑いながら言った。ギデオンから見て、その笑顔は恋人を愛しく語る者のそれだった。
「知らせておいたら、楽しみにし過ぎて周囲にばれてしまうよ。サプライズとして内緒にしておきたいんだ」
「あまり舞い上がるなよ。足下を掬われるぞ」
「お前の心配性は大事の前だからか?心配しなくてもツィーリャの身は保証するよ。この街から少し離れたところに俺の亡くなった祖母が持っていた小さな屋敷があるんだ。ツィーリャとノーラを逃がしたら一時そこを頼ればいい。そのために今、家守に手紙を書いてる」
「逃亡先なら、南に俺の荘園があるじゃないか」
「馬鹿かお前は。そんなのすぐにアシが付くだろうが。クレイアが考えもしないようなところに逃げて攪乱してから行動するんだよ」
どんな事態でも楽しんでしまうのがレイノルだ。やはり彼は今も楽しそうだった。ふざけないでくれと言いたくもなったが、長年の付き合いで友人は友人なりに考えがあって行動しているのは言わなくてもわかっている。
「それなら二手に別れた方が攪乱になるんじゃないのか」
「どうだろうなぁ」
レイノルは姿勢を崩して頭の後ろに両手をあてた。書き物をしていて凝った身体が伸びて気持ちがいい。
「クレイアの目的はツィーリャひとりに絞られるだろうから、ふたりきりにはならない方がいいだろう」
「四人で逃げるとは思わないってわけか」
「”駆け落ち中の恋人同士”っていうだけで十分な特徴だからな」
「……恋人同士……」
レイノルが何気なく言った言葉にギデオンはむず痒さを感じた。気持ちを言葉にして伝えていない今でも、恋人同士と言えるだろうか?そんなことを、生真面目にこの男は考えていたのである。
それを余所にレイノルの思考は尚も進む。
「いや、待てよ?俺とノーラがお前たちの身代わりになって攪乱するってやり方もあるな」
「それはだめだ!」
ギデオンの突然の剣幕にレイノルは後退った。
「どうして」
「俺はクレイアと会ってわかったんだ。あいつは目的のためなら手段を選ばない。俺たちの身代わりになれば、お前たちの身が危険だ。俺は絶対に賛成できない」
「…わかったよ」
レイノルはそれ以上何も言うことが出来なかった。
(元々頑固な奴だったが、こうまで自分を押し通すところは初めて見たな)
それを嬉しいと思う自分がいることにレイノルは驚いていた。
クレイアにとってツィーリャは宝物だった。
物欲に駆られた価値観ではなく、心の中の清らかなものを預けておきたい存在だった。
羽ばたくことの出来ない背中の翼は、今でこそ、その引き摺る姿が貴婦人の着るドレスにも似ていたが、出会った当時は泥や汚物にまみれ、毛羽立ち、かろうじて裸の足を温める役割を果たすぼろきれに見えた。腕から生えた羽も、まるで皮膚がただれているように見えたし、髪はもつれてくすんだ灰色をしていて、とても今のような金色の柔らかそうな色をしているようには見えなかった。
見世物小屋の前で佇んだ、痩せ過ぎて性別もわからないその子供を見た時、一瞥しただけならふたりの道はそこで永遠に擦れ違っていただろう。だが、クレイアの道を引き寄せたのはツィーリャだった。目をいっぱいに見開いて、クレイアを見ていたのだ。目が合った時、ツィーリャの瞳の清澄さに驚いた。頭からつま先まで泥と汚物にまみれた、あかぎれだらけのその子供は、瞳だけが色彩が他と違ったように綺麗だったのだ。
その瞳に出会って、クレイアは思わず膝を折ってツィーリャの小さな手を取った。
クレイアの生まれは高貴ではない。下級民族の出身だというが、彼も物心つく前に親に見捨てられた子供のひとりだった。そういった子供は、運が良ければ親切な大人に施設まで連れて行かれ、そこで里親に引き取られる。だが大半は、親切な大人に出会う前に奴隷商人に捕まるのだ。それ以外は全て死ぬ。
彼は下級民族の中でも最下級。奴隷出身だった。買われて行った先で何の縁か出入りの商人に才を見込まれ、引き取られて学問を学ばされた。そこまでは、彼はその運に於いて幸いだったのである。商人が≪不幸な事故で亡くなり≫、商人の後継は≪急な病で頓死≫、家を我がものとしたのは運ではない。全て彼の力だった。
商人の権力を手に入れた。彼は全てが欲しかったのだ。欲しくて欲しくて、堪らなかった。欲しくて欲しくて堪らなかったのに、手に入れると全ては陳腐なものばかりだった。なぜそれを欲したのかもわからない。しかし彼はやはり全てが欲しかった。
長年それを繰り返してきたのである。ツィーリャの瞳を見た時、欲しかったのはこれだったのだと思った。ツィーリャの手を取り抱き寄せた瞬間から、クレイアの焦燥は癒え始めていた。
そして大切にすればするほど、ツィーリャは様々な驚きや幸せもくれた。時に、苛立ちも。しかしそれもツィーリャが素直に謝れば全て許せるほんの些細なもの。
ツィーリャは、自分とは違い、母親と死に別れた子供なのだと奴隷商人が言っていた。全く境遇が一致するわけではないにしろ、奴隷という底辺の立場から出会い、互いを必要としているのだから、ツィーリャは特別な存在だった。
『マスターはどうしてそんなに字をはやくよめるんですか?』
膝の上の小さなツィーリャが首を精一杯反らせてクレイアを見上げた。
『勉強したんだ。早く字を覚えたくてね』
クレイアの人生は獲得の連続だったのだ。とにかく何もかもが欲しかった。地位も名誉も知識も羨望も。
『…ツィーリャはほんをよむのはにがてです。だって字はかんじょうがないんだもの』
『字に感情がない?面白いことを言うな』
喉を鳴らして笑うと、ツィーリャは機嫌を損ねたようだ。桃のような頬がぷっと膨れた。
『ツィーリャ、字に感情がないとはどういうことだい?教えてくれないか』
『どうぞ』
『ん?』
『どうぞ、をつけてくれないとおしえません』
クレイアは笑みがこぼれそうになったが、また機嫌を損ねたくはなかったので咳払いをひとつして誤魔化し、それを収めた。
『どうぞ、おしえてください』
『はい、いいですよ』
ツィーリャの笑顔がまたクレイアを見上げた。
『あのね。音の出るものにはかんじょうがあるんです。かなしそうにきこえたり、うれしそうにきこえたり。でもね、そうきこえるのは音だけのことがあるんです』
『うん』
『みんながんばってそう見せていて、そういうときは、見せてるきもちとほんとうのきもちははんたいなんです』
『……どうしてそう思うんだい?』
『わかりません』
ツィーリャは首を傾げて少し考えた。
『わからないけど、わかるんです』
『……私も頑張っているように見えるのかな?』
言われて、ツィーリャは考え込んだ。質問の意味がわからないわけではなく、言っていいのか迷っているようだった。考えた挙句、ツィーリャは何も言わずに幼い手でクレイアを抱き締めた。
言葉はなかったが、クレイアにはその幼い温もりだけで充分だった。慰められるよりも、同情されるよりも、なお心が温められた。決して優しくはない心の中に開いて、絶えず風のような咆哮を繰り返している暗いものがひと時その寂しげな唸りを忘れた。
懐かしい夢から目が覚めて、頭が覚醒し、次に耳が冴えた。ツィーリャの歌が聞こえた。クレイアはその歌声に胸が騒いだ。騒いだなどという生易しいものではない。やすりをかけられたように不快な感覚だった。
欲しくてたまらなかった宝物を奪われんとする警鐘のように聞こえた。
(……いや……)
もう、奪われていたのだ。
クレイアの心の中の空洞が上げた咆哮が音になりきらずに、彼の拳の中で皮膚を破った。滴った血の色は赤かった。