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金色のセリン  作者: 峰子
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第5話

 落とし穴にはまったのだ。


 ツィーリャの唇に触れる時、咄嗟にそう思った。そして、その落とし穴に自ら進み出て、ギデオンの足は容易く空を踏んだ。浮遊ともつかず、墜落ともつかず、辿るべき出口を見失った。

 それからはもう、聞こえるのはツィーリャの鼓動だけだった。ギデオンを退かせようと、脳裏で喧しく鳴り響いていた警鐘は、もはや警告にはなり得なかった。それも遥か背後に追い抜くほど遠くまで来てしまったのだ。そもそもどうして今まで、そこが禁忌であるかのように足を踏み入れることを躊躇ったのか。どうしてあれほどまでに臆病だったのだろうか。

 それは、あの時ギデオンを確と見つめて逸らさなかったツィーリャの瞳が全てを物語っている気がする。自分の想いに真っ直ぐなツィーリャ。その心の向けられた先が自分であることに、ギデオンは一瞬呼吸を忘れた。だから、そのせいなのだ。鼓動が鎮まらないのは。指先が痺れ、思考が痺れるのは。

 それは高揚感と言うより躍動だった。何かが始まり、まろぶように駆け出したのだ。その弾む足取りはきっともう何者にも行く手を遮らせはしない。その爪先は前しか見てはいなかった。



 月のない夜は月光の鳴る音もなく静かだ。窓の外で潮の音が遠くに聞こえる。鼓動と似ているから、耳に優しい。だが、その微かな外の世界の音さえも思考から押し遣って、全てが互いに集中したがった。肌が温かいのだ。そして、胸が苦しい。身体中に酸素を運ぶはずの呼吸も拍動も不規則、あるいは早鐘で、喉の奥、胸に詰まった、灼けるような何かを吐き出すことも飲み込むことも出来ない。

 それならどうすればいいのだろう。どうすればこの苦しい塊を溶かすことが出来るのだろう。この塊が溶けて無くなってしまえば安らぐのだろうか。そうすればきっとそこには、ただの空っぽの誰の居場所でもない空間が残る。それこそ苦しく、もう埋めることは出来ない空虚になるだろう。


 ツィーリャが初めて走った痛みに喉を絞った時、ギデオンは狼狽えた。ツィーリャはひと言も言わなかったのだ。ただギデオンが、ツィーリャはクレイアの情婦だという噂を頭のどこかでずっと気にしていただけだ。気遣ってやれなかったことを後悔した。そして、ただ願った。そうすることしかできない。この触れ合いが彼女にとって凌辱とならないように。己の手折った純潔が彼女の心であるなかれと。


「…ギデオンは何も後悔しないでください」


 ツィーリャの金色の羽がギデオンを包んでいた。初めての渦に翻弄されているのは彼女の方であるはずなのに、ギデオンに触れる羽は何故か慰めの柔らかさを持っている。


「私が選んだことですから」


 ツィーリャがどういうつもりで言ったのかわからず、彼女の目を見た。


「……だから、そんな泣きそうな顔をしないで」


 白い腕が伸びて来て、ギデオンの頬を撫でて慰めた。それにギデオンは苦笑する。その手は幼気でありながら幼子を慈しむように優しいのだ。少女のような純粋と慈母の如き愛情の心地良い矛盾を孕んだ存在。ギデオンを丸ごと受け入れようとするから彼女はこれほどまでに優しい。


「あんたも同じ顔をしているよ」


 ツィーリャの仕草に倣って、その頬を撫でた。どうやら涙は零れていない。何かを訴えかけているような瞳は、茹だる熱を涙に変える様子はない。だがそれでも不安は拭えない。ツィーリャと違って身体に痛みを抱えない後ろめたさからなのか、気持ちとは裏腹に奔りたくなる罪悪感からなのか。


「……頼むから泣かないでくれよ?あんたが泣くと、どうしていいかわからなくなるんだ」


 ツィーリャは可笑しそうに笑った。


「泣きませんよ」


 ツィーリャは両手でギデオンの頭を引き寄せた。


「私がギデオンを選んだんです」


 愛しい者に誰もがするように、ギデオンの唇に口付けてツィーリャは笑った。


「……必ずあんたを救い出すから、待っていてくれ」


 そう言ってツィーリャの頬を拭ったのは、そこに一滴があったからだ。


「……約束ですよ、ギデオン。きっと迎えに来てくださいね」


「ああ、必ずだ」


 どうやって誓ったらいいのか、その術を持たなかったから、思いの丈を込めてツィーリャの身体をその翼ごと抱き締めた。




 朝日を疎むように帰って来たギデオンを待ちわびていたのはレイノルだった。予想していなかったと言えば嘘になる。それでも、朝日が昇る前だというのにギデオンの帰宅に都合よく間に合って起きていて、椅子に座って読んでいた本から目を上げ、「おはよう」などと言いながら朝日に似合いの明るい笑みを浮かべている友人にはつくづく閉口した。この男は日頃からギデオンにはよくお節介を焼くが、ツィーリャとのことに関しては何故か殊に熱心なのだ。

 彼は朗らかと言うより期待を込めた眼差しで、ギデオンが何か言うのを待っている。ギデオンにはそれがこの上なく居心地が悪い。外套を脱いで衣裳を改めている間にも、背中に視線が刺さっているのがわかる。面白がって、根掘り葉掘り聞こうと言葉を継ぎ続けるのならまだいいのだ。適当に相槌を打つか、沈黙を決め込むかすれば勝手に退散してくれる。

 しかし今回はレイノルに借りがあった。彼もそれをわかっているから、ギデオンが自分から話し出すと端から決め込んでいる。居心地の悪さはそのせいだ。

 その上、昨夜の逢瀬で何があったかなど、今の状態を見れば明白だ。それを改めて言葉にして話すなど、更に輪をかけて居心地悪いことこの上ない。針の筵とはこのことだ。


「………手紙、喜んでたぞ」


 任務完了の報告だけして、核心の話は有耶無耶にしようと試みる。卓に紅茶などを差し出され、席に座るしかなくなったギデオンはおとなしくそこに収まった。


「それは良かった。ご苦労だったな、伝書鳩殿」


 レイノルの笑顔。何故かそれに追い詰められる。せめてもの抵抗に更に言葉を継いだ。


「………あー…今までとは随分毛色の違う娘だな。その……好みが変わったのか?」


「俺もこれで純愛ってやつに憧れていてね。まだ一度も手を付けちゃいないよ」


 その言葉に驚いた。どんなに目を瞬かせてみても、目の前にいるのは長年よく見知った友人、レイノル・ル・ウィンステッドだ。彼は演技ではない本当の笑みを浮かべていた。それが演技でないということは長年の友人であるギデオンにならひと目でわかる。


「純愛だって?」


 親友はおよそそんな言葉とは遠くかけ離れたところに身を置く男だった。卓の向かい側に座るレイノルをまじまじと見つめる。


「俺にも運があるならな」


「なんでまた急に」


「互いに正面から向き合って心からの情を交わす。恋というのは斯あるべき、と思い改めたまでさ。ああ、その変わり果てた万年筆を貸してみろ。俺の知り合いに腕のいい修理屋がいるんだ」


 言われるままに万年筆を差し出しながらも、訳が分からない、とギデオンの渋面が戸惑いを訴える。それに対して、レイノルは短く笑った。


「ツィーリャ嬢は笑ってくれたかな?」


 受け取った万年筆を手の内で弄びながらギデオンに視線を遣る。不意打ちに彼の肩はぎくりと揺れた。


「ああ……まあ、そうだな…」


レイノルのいない空間を求めて視線を泳がせながら歯切れ悪く答える彼の様子に、笑いを噛み殺して微笑んだ。


「それは重畳」


 余裕がありありと見て取れるレイノルの笑顔に、ギデオンはもう隠す手立てを持たなかった。見透かされてしまうのも仕方のないことなのだ。レイノルは社交界の華。人の心を読むことにかけてはギデオンなどよりよほど上手で当たり前だ。そう考え直して、自分の正直過ぎる反応を棚に上げて羞恥を忘れたふりをした。


「どうやってツィーリャを救い出すんだ?」


「……それだ」


 ギデオンは表情を渋くした。


「調べてみたんだが、ツィーリャには戸籍も身分もない。あいつを保護する名目で連れ出すのは不可能だ」


「人権がないってことか」


「ああ」


 短く言ったが、その事実がギデオンの心を貫いたであろうことはレイノルには容易に想像出来た。だが、ギデオンがその痛みの意味を分かっているのかは甚だ疑問だ。


「あとは権力を笠に着て宝物をぶん捕るしかない」


「悪徳だな!」


 ギデオンの変貌ぶりに驚いて目を見開いた。思わず口笛のひとつも出ようというものだ。


「茶化すなよ」


 レイノルに向けたその目が、苦い心中を語っている。


「あれほど入れ揚げてる情婦を掠め取られるとあっちゃ、クレイアも手段を選ばんと思うぞ。一応顔は利くはずだからな」


「いや、それは違う」


 レイノルはぴたりと自分に向けられたギデオンの掌の影を疎むように首を傾げ、彼に視線を合わせ直す。友人は至極真面目な顔をしていた。


「何が違うんだ」


「ツィーリャはクレイアの情婦なんかじゃない」


 きっぱりとした物言いに、レイノルは眉間に皺を寄せた。


「否定するところはそこなのか?……いや、それよりも、情婦じゃないということは、ツィーリャは生娘だったか」


「……言わなくても察しろよ」


 海老が茹でられてもここまで瞬時に赤くは染まらない。


「やれやれ、一人前の男が何とも純な反応だな」


 レイノルは呆れてため息を吐いた。


「とにかく、奴の俺への悪意は恋敵への敵対心そのものだった。俺はクレイアが手も触れずに大切にして来た女を奪ったってことなんだ」


「こいつは修羅場になるだろうなぁ」


 レイノルの暢気な声など置いてけぼりにして、ギデオンの口調には緊迫感が増していく。


「…知られれば、最悪、ツィーリャもどうなるかわからない。急がないとならないんだ。レイノル、力を貸してくれ」


 思わぬ言葉にレイノルが目を丸くしていると、ギデオンは彼に向かって長身を深く折り、頭を下げた。


「…頼む」


 レイノルは重ねて驚いた。


「…お前、変わったなぁ」


 温度差のあるレイノルの声に、苛立ちよりも戸惑いを感じて目だけを上げた。


「いつも冷めてて、興味ないって顔してスカしてたやつが、ここまで一途に熱くなるとは思わなかった」


 痛いところを突かれた。それはギデオン自身が敢えて見ないようにしていた事実だったのだ。


「これほど熱く愛を囁かれたなら、ツィーリャ嬢も心強いだろうよ」


「…………言ってない」


「は?」


「…………何も言ってない……その、そういうことは……」


「……お前、行きずりの相手にするより尚酷いぞ。それじゃ遊びだったのかって言われたって文句は言えないだろうが。本気の相手に見せる態度とは思えないな」


 レイノルの言葉に、ギデオンはもう彼の顔さえ見上げていられない。ただただ卓の下の自分の爪先を見つめて言葉を受けるのみだ。あの塔の外壁を上ってところどころ傷を負った靴は、明るいところで見ると思ったより傷んでぼろぼろになっていた。ギデオンの帰って来た時の姿を見て、レイノルもその靴には気付いている。


(……レイントリー家の御曹司ともあろう者が、こんな姿になってまで勝ち取った逢瀬に大事なことを言い忘れて来るなんて…)


 ギデオンの苦労を知っているからこそ、レイノルは大きく嘆息した。


「お前、ちゃんと考えたことがあるか?」


 万年筆でこつこつと卓を叩きながら言う。


「なんのことだ?」


「ツィーリャの周りだけ明るく感じたり、笑っていて欲しいと思ったり、世間から隔てられていることに憤ったり…」


 レイノルの手の中に在るギデオンの万年筆は、彼と一緒になって持ち主を指した。


「そう言うのを純愛って言うんだよ。俺はそれに憧れたんだ」


「……それで恋も知らないあんな純粋そうな娘に興味を持ったか」


「それもある」


 満身創痍の万年筆でひとつこつんと卓を叩いた。


「だがそれだけじゃない」


 にっこりと笑うレイノル。その笑顔は今までギデオンが見た彼の笑顔のどれとも違い、初恋に心を躍らせる少年のようであった。


「彼女…ノーラと言うんだが、俺みたいな軽い男を、そうと知りながら一生懸命に追いかけてくる。傷付くかも知れないとか考えちゃいないんだ。いや、考えているのかもしれないが、そんなことも恐れずに追いかけてくる。それが愛しくてな」


 表情が和らいでいくレイノルは、安らいでいるようにも見える。彼はノーラを愛している。今までのような遊びの恋では決してない。


「情けない話だが、嫌われるのが怖くて手を出せずにいるんだ」


「なんだ、お前こそ純な反応だな」


 思わずギデオンは頬を緩めた。だが、反撃するレイノルは更に上手だ。


「お前の意気地のなさがうつったんだよ」


 ふたりは互いの不器用さに思わず笑った。


「お前の頼みだ、協力してやるよ。その代わり、俺からも頼みがある」


「なんだ?」


「事が荒れる前に、ノーラをあの屋敷から連れ出したい。彼女は下働きとしてあの家に買われた身でな。あそこにいる限り、一生あの屋敷で働き続けなきゃならない」


「わかった。協力しよう」


 ギデオンは即座に頷いた。


「俺はツィーリャを、お前はノーラを救い出す」


 言うと、いつもギデオンがするように、レイノルはにやりと笑った。


「そうと決まれば、夜明けのコーヒーでも飲みながら作戦会議と行こうじゃないか」


「ああ、文字通りな」


 ギデオンはうんざりだと言うように顔を歪めてコーヒーを淹れにその場を離れた。


「…あいつ、大事にしてたのになぁ、この万年筆」


 レイノルの右手の上で、書けない万年筆がくるりと一周、円を描いた。




 前の新月の夜から月が膨らみ、またやせ細って消え入りそうに細くなったころ。全てが寝静まった静かな夜更けにツィーリャはひとり起きていた。もうすぐ月が生まれ変わる。ギデオンはまた来ると言ったから、きっと次の新月の夜だろう。待ち遠しくてたまらなかった。

 満月が好きだったツィーリャは、それ以上に新月に焦がれるようになった。そう言えば黒い影しか見せない新月とギデオンは似ている気がする。不吉なもののようにも思えるのに、いつのまにか空に在って、少し遠くから地上を眺めているのだ。その後にはほんの少しずつ覗く金色の光がある。

 窓の桟に両手で頬杖を付き、いつまでも細い月を見つめた。

 しばらくそうしていると、塔の外壁を小石が打つ音がした。空耳かと思ったが、小石はもうひとつ壁を打つ。覗き込むようにして窓の下を見下ろすと、弱々しい月光の中に暗色の人影が見えた。その人影が投げて寄越したものを思わず掴み取る。

 それは縄だった。

 影の意図するところを察したツィーリャはそれまで噛り付いていた窓から離れ、その縄を持って、室内の家具の、出来るだけしっかりしていて重そうなものを探した。幸い、クレイアは閉じ込めてはいてもツィーリャに何ひとつ不自由は感じさせまいと調度類を揃えていてくれたので、家具はどれも立派だった。

 その中でも一番しっかりしたベッドの足にしっかりと縄を括りつけ、再び窓際に駆け寄った。手を振って合図をすると、縄が張って、窓の下の影の身体を支えた。

 そしてとうとう、燈台の上のツィーリャの籠を黒い影が訪れた。暗色の外套は以前来た時と変わらなかったが、今はもう空気も温もって、それを纏うには少し温かい。その外套の影から現れたのは、咲くか咲かないか、綻びかけた蕾の野の花だった。


「少し来るのが遅過ぎたか?」


 ばつが悪そうに彼女を見るギデオンは子供っぽく見えてツィーリャは笑った。


「ギデオン!」


 どれくらいぶりか忘れてしまうほど久し振りに、弾んだ明るい声でギデオンの懐に飛び込んだ。ギデオンはもう最初の頃のように狼狽えたりはしなかったが、やはりどこかぎこちなくなってしまう。平静を保っていても、人の気持ちを感じ取ってしまうツィーリャには全て伝わってしまっているだろう。だからわざわざ言葉にする必要はないだろうとも心の中で言い訳していた。


「次の新月まで会えないと思っていたんです。会えて嬉しい」


 はしゃいでいるが、笑みを浮かべるその頬でツィーリャが少し痩せたのがわかる。寂しい思いをさせていただろうか。つらい思いをさせられていたのだろうか。華奢な身体ひとつでそれらに耐えていたツィーリャを思うと胸が苦しくなって、ギデオンはツィーリャを抱き締めずにはいられなかった。

 懐の中でツィーリャが猫のようにギデオンの胸に擦り寄る。


「ギデオンってあったかいんですね」


 当たり前のことを今発見したと言うように嬉しそうに声が鳴った。ギデオンは答える代わりにツィーリャの髪を撫でてやった。


「……あなたはこうしていたら私と同じように安心してくれますか?安心するってとても幸せなんです」


「さあ…それは無理だろうな」


 ツィーリャを抱き締めながらギデオンが首を傾げたのがわかった。


「俺はあんたの傍にいると落ち着かない気分になる」


「どうして?」


 ギデオンの懐から顔を上げて彼を見る。彼は顔を歪めて少し考えていた。その頬が心なしか赤い気がしたが、頼りない明かりの許ではよくわからない。


「………あんたが俺の傍にいて安心するのと同じ理由だと思うよ」


 ツィーリャは破顔する。反対にギデオンは苦笑した。落とし穴の底にあったのは、罠と呼ぶより心を震わせる何かだ。だが、それを改めて言葉にするのはまだ怖い気がしていた。苦笑したのは、太々しいと思っていた自分の、思いの外臆病な顔にとうとう気付いてしまったからだった。だが、ツィーリャは今のギデオンに出来るありのままをただ素直にその懐に受け止めている。ギデオンを愛しているというのなら、その曖昧を抱えたままにしておくのは苦しいだろうに。

 両腕からツィーリャを解放して、彼女のためにと摘んで来た花の蕾を小さな手に握らせる。子供にするように彼女の頭を撫でながらも、ギデオンは自分の方が子供のように感じていた。


「あんたは見た目からは考えられないほど強いよ、ツィーリャ」


 ギデオン自身でさえ投げ出してしまいたくなるその曖昧を抱え込むのだから。


「…初めてちゃんと名前で呼んでくれましたね」


 ツィーリャが嬉しそうに微笑んだ。


「そうだったか?」


「そうですよ。いつも私のことは“あんた”って…ぶっきらぼうで」


「……よく乱暴な物言いをすると言われるのは認める」


「それは昔の恋人から言われたんですか?」


 不満がありありと表れた声音にギデオンは怯んだ。


「俺だってそれなりの年齢の男だぞ。不思議なことじゃないだろ」


「……わかってます」


 依然不満の残る声と表情。


「私にはギデオンしかいないから、寂しかっただけです」


 口を尖らせて俯く仕草は彼女を年齢より幼く見せる。ツィーリャのその表情を可愛いと思った。ギデオンは笑みを噛み殺してツィーリャの頭をまた撫でた。彼女に対してはどうもこれが癖になっているようだ。本当はもっとこの気持ちを伝えるのに相応しい触れ方があると思うのに。


「ツィーリャ、次の新月の夜、また迎えに来る」


 ギデオンを見上げる瞳に更に光が集まった。


「今日はそれを言いに来たんだ。ここの侍女に手引きをしてもらうことになってる。用意して待っていてくれ」


「…本当に?」


「俺は約束したぞ。あんたを救い出すって」


 ギデオンの手はまたツィーリャの頭を撫でようとした。はたとそれを思い留まり、手を引っ込める。


「……ツィーリャ、笑ってくれ」


 手を握って、今の心が伝わるようにしっかりと目を見つめて言った。これほど真っ直ぐ人の目を見て言葉を伝えたのは初めてだった気がする。


「あんたが笑うと俺は安心する」


 ツィーリャが返したのは期待以上の笑顔だった。


「ギデオン!」


 ギデオンが受け入れ態勢を取る間もなく、ツィーリャは彼に飛びついた。


「この花が咲くのを楽しみにして笑って待っています!」


 ツィーリャの声が喜びの笑顔と転がった。ギデオンは、離れ離れになった日々もずっと、ツィーリャには笑っていて欲しいと願っていたのだ。ツィーリャの言う通りに、安心することが幸せだと言うのなら、今のギデオンは間違いなく幸せだった。いや、安心以上の気持ちが胸を温めている。


「……私はギデオンのその顔が大好きです」


「どの顔だって?」


「笑顔が。目がとても優しく笑うんですよ」


 思案に顔をしかめたギデオンにツィーリャは含み笑いを返した。今の彼の表情がどんなものか、もうそれ以上教えてくれるつもりはないらしい。


「……ギデオン、あなたを待っています」


「……あんたが泣いても笑ってもここから連れ出しに来るよ」


 初めてこの塔の上に登って来たあの日同様、非情な朝日が昇ろうとしている。

 暗闇に紛れやすいギデオンの暗色の風貌も、太陽が昇ってしまえば他と等しく照らされて姿を晒されてしまう。濃紺を太陽が青に染めてしまう前にここを発たなければならない。ギデオンの決意を鈍らせる全てのものを胸の奥に詰めて、ツィーリャはやっと下手な笑顔だけ浮かべた。


「もうすぐだ。あんたに外の世界を見せてやれる。この花が一面に咲く場所があるんだ」


「……素敵ですね」


「そこであんたは歌を歌ってくれ。あんたが歌いたいように。きっと綺麗だ」


 どんなに宥めてもすかしても、ツィーリャの強張った笑顔がギデオンの足を躊躇わせる。ツィーリャは自分のために踏み出せないでいる彼の足を見ながら、この翼で飛んで行くことが出来ればいいのに、と思った。

 ツィーリャの背を飾るだけのこの翼さえ空を羽ばたくことを思い出せば、こんな小さな籠など容易く飛び立てるのに。

 ギデオンは、表情を曇らせた歌姫に触れるだけの口付けをした。


「あと少しの辛抱だから、待っててくれ」


 こくん、と頷いた目から涙が零れることはなかった。

 頼りなげなツィーリャを残していくのは名残惜しかったが、朝日の気配に急き立てられてその場を後にした。

 黒色の風が去った後は、雲の端に朝日の気配を匂わせる藍色の空と、変わらない海の足音にほんの少しだけ心を慰められる。会いたいと思う気持ちはどうやらツィーリャの身を日毎少しずつ焦がしていたようだ。思いもしなかった突然の逢瀬の喜びの分、ツィーリャの中に溜まっていた寂しさはより心を締め付けた。孤独を耐えることで麻痺していた心が大きく開いてしまった。

 次の新月の夜までの間、この外の世界を歌ったら毎日の寂しさを宥めることが出来るだろうか。

 切なくて美しいこの空と、朝日と、寄せる海の波を。


 薄藍にまで明るさを増した朝空には、白く病んだ三日月が沈もうとしていた。




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