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金色のセリン  作者: 峰子
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第4話

 舞台を終えて屋敷に戻った夜。柔らかいカーペットの敷かれた廊下を、ツィーリャの小さな足がぱたぱたと音を立てながらクレイアの許に急いでいた。このところ忙しいクレイアが珍しくこの時間に屋敷にいるのだ。お忍びに出るにしても、せめてクレイアの顔を見てからにしたかった。屋敷に戻るのはきっと遅くなるだろうから。

 明るい光に思わず足を止めて、窓の外、紺碧に上る満月を振り仰ぎ、それに見惚れた。

 ツィーリャは満月が好きだ。

 自由に外に出ることを許されない彼女にとって、太陽ほどではないにしろ、自分にも明るい光を注いでくれる満月が好きだ。そして一番歌が浮かんでくる夜だからだ。心というものは月の満ち欠けに添うものなのだろうか。満月の夜が一番心が膨らみ、歌にも艶が増す。


「ギデオンはあそこにいるでしょうか……」


 待っていてくれるのだろうか。昨晩の約束通りに。望月が綺麗だから、あの約束も満ちて叶うのかもしれない。ギデオンはとても優しく笑ったから、今度会える時はもっと素顔を見せてくれるかもしれない。

 人間の気持ちを察し、それを歌にして来たツィーリャが、歌にするよりも先に相手の心に触れた瞬間だった。

 ギデオンといると不思議だった。心を縛り付けていたものが解けて生まれ変わったように、世界の何もかもが輝いて新鮮さを増す。夜の散歩の楽しさだけではない。美しいと知っていた星月夜さえ、目の前に押し寄せるような曄の感動で溢れるのだ。

 ギデオンと会ってもっと話したり、笑い合ったり出来れば、煌めく歌が溢れるような気がする。ツィーリャはそれを歌ってみたい。もっとたくさんのことをギデオンに教えて欲しい。日に日に会えるのが楽しみになっていく。


(そうだ!マスターにギデオンのことを相談してみましょう)


クレイアに、舞台の後も特別に友達だけは会えるようにして欲しいとお願いするつもりだった。

「友達」。その言葉の響きにツィーリャの胸は弾んだ。

 友達が出来たのだ。ツィーリャを差別しない、少し気障で皮肉屋の人間の友達が出来たのだ。自分がこんなに嬉しくて楽しい気持ちなのだから、養い親もきっと喜んでくれるはずだ。彼はずっとツィーリャが人間に迫害されないかを心配してくれていた。

 ギデオンはツィーリャを迫害なんてしない。ありのままの姿を綺麗だと言って受け入れてくれた。会いに来てくれたし、待っていると言ってくれた。その時に感じたあの気持ち。心に沁み渡って歌になりたがった気持ちはツィーリャの心と同じだった。


 楽しい。優しい。会いたい。会えた驚き。

 少し遅れてやって来る「嬉しい」。

 会いたい。会いに来て。

 そしてまた笑って。


 姿形は違っていても、心が同じなのだとしたらツィーリャは慰められる。そうだとしたら、いつかはギデオンやクレイア以外の人間にも心を開いてもらえるのかもしれない。

 急に目の前に未来が広がった気がした。弾む心を抱えてクレイアの部屋へ急いだ。


「マスター、ツィーリャです」


 マホガニーの扉を叩いて声をかける。数瞬置いて中から声が聞こえた。


「入りなさい」


 扉を開けると、書物に特有の懐古の匂いがした。クレイアはいつもこうして書物に埋もれている。この匂いを嗅いで心が落ち着くのは、ツィーリャにとってそれがクレイアの匂いになっていたからだ。

 彼は下位民族の出身だった。それが一代でこれだけの財を築いたのには理由がある。クレイアには独学で身に付けた教養があった。ツィーリャはクレイアが世間であまりよく言われていないのは知っていたが、この書物の全てを知識として溜め込んで来た彼を尊敬もし、誇らしくも思っていた。


「ん?随分嬉しそうな顔をしているんだな」


 クレイアは書物を置いて破顔した。ツィーリャといる時のクレイアはとても優しく笑う。ギデオンのものとは少し違うけれど。


「また本が増えましたね」


 彼は背後の書棚を見上げて苦笑した。


「整頓が全く追い付かなくてね。いくらか処分しなくてはならないのだろうが…」


「ここから本がなくなっちゃうんですか?」


 ツィーリャはいつでも素直に感情を表す。今も見た目にはっきりわかるほど肩が落ちて、身体が小さく丸まったように見える。クレイアはそれが可笑しくてつい声を立てて笑った。


「ツィーリャは本が好きか?」


「自分で読むことはあまり。マスターが読んで話してくださるのを聞く方がずっと好きです」


 クレイアはまた声を立てて笑う。クレイアが笑うとツィーリャは実は達成感を覚える。店にいる時、無愛想というわけではないが、浮かべる笑みが空っぽなのをツィーリャは知っていた。彼は滅多に本心から笑うことがないのだ。ツィーリャに向けてほんの少し笑顔を浮かべることはあっても、声を立てて笑うのは珍しい。


「このところ忙しさに取り紛れて本も読んでやっていなかったな。すまない。寂しい思いをさせただろう?」


 ツィーリャはふるふると首を振った。つられて温かい色の金の髪が揺れる。


「わがままを言ってもいいのだよ。お前は殊の外寂しがり屋だから」


 そう言われてツィーリャは恥じ入って頬を染めた。クレイアは幼い時のことを言っているのだ。幼い時は、クレイアが仕事に行こうとするのを泣いて駄々をこね、本を読んでいればその膝によじ登ってそれを邪魔することもした。

 しかしさすがに大人になってからはそのような振る舞いをすることはない。


「たまにはわがままを言ってくれないと、私は寂しいよ、ツィーリャ」


「…あの……それならひとつだけ、いいですか?」


「言ってごらん」


 クレイアの優しい笑顔に後押しされて、ツィーリャは指を組んだり解いたりしながら言い出した。


「舞台の後、ちょっとでもいいんです。おともだちに会ってもいいですか?」


「……お友達?」


「ギデオンっていうんです。怖い顔してますけど、いい人なんですよ。私が人ではないことを知っても、全然嫌な顔なんてしないんです」


 ツィーリャは心から嬉しそうに微笑んだが、クレイアは僅かに目を眇める。これは苛立った時の彼の癖だ。それを見てツィーリャは胃が冷たくなるのを感じた。

 怒られるのだろうか。なぜ怒られるのだろうか。さっきまであんなに機嫌が良かったのに。


「……度々会っているのか?」


 声音からは先程の穏やかさが消え失せ、底冷えのする静かな苛立ちが滲んでいる。


「ここ最近、お前はよく夜中に抜け出しているそうじゃないか。その男と会っていたのか?」


 ツィーリャにとって、クレイアは世界の全てだ。彼女の全てを握る人が、彼女に失望している。足元が崩れるような恐ろしさだった。ツィーリャは恐怖に喉を締め付けられて何も答えることが出来なかった。


「私以外の誰も信用するなと言ったはずだ!!」


 クレイアの手がツィーリャの頬を打った。目がちかちかする。初めて打たれたという衝撃でツィーリャの手足は硬直した。その手首をクレイアの手が力任せに掴んで揺さぶる。


「お前があの男に恋をしたのはひと目で解っていたよ。だが駄目だ。それは悪いことなんだよ、ツィーリャ」


 見開かれた瞳にはクレイアだけが映っていた。ツィーリャの全てだった人が、いっそ優しくも聞こえる低い声で囁く。


「お前は私のものだ。勝手に他の男に心を奪われるなど、悪いことなんだよ」


 クレイアの言葉がツィーリャの身体中を縛り戒める。心が絞られ、彼女はまた明るい星月夜から遠のいた気がした。外に出てはいけない、クレイア以外を信用してはいけない。そう言われるたびにツィーリャの足元の光は少しずつ狭められていく気がする。


「お前は私以外の誰も信用するな!誰もだ!誰であってもだ!!」


 顎を捕らわれ噛み付くようなその言葉をぶつけられた後、ツィーリャは引き摺られるように連れて行かれる。


「マスター……!」


 ツィーリャはその先にあるものが何だか知っている。たったひとつ窓があるきりの、高い塔の小部屋。まさにそこに押し込まれ、ツィーリャは数歩たたらを踏んだ。


「…ここに閉じ込めてしまえば、お前はあの男に会いには行けまい」


 クレイアの冷たい声がした後、背後で扉を閉められた。重い鍵のかかる音が響く。


「……マスター!ここから出してください!出して!お願い!!」


 力いっぱい扉を叩いた。厚みのある重い音がする。扉の向こうの音さえもツィーリャには届かない。悲痛な訴えもクレイアの耳には届かない。耳に入る音と言えば、小さな窓の向こうの潮の音だけだ。ツィーリャは音さえも届かないこの部屋に閉じ込められた。

 屋敷の北端、崖に迫った燈台のような小さな世界に。




 歌うのが好きだと言っていたツィーリャが、『カナリア』に姿を見せなくなってもう随分経っていた。その間に季節も変わって春に差し掛かっている。店の者に聞けば、ツィーリャは体調を崩して臥せっているのだと言う。何度聞いても、病状もツィーリャの様子もわからず仕舞いで、ギデオンは苛立って、とうとうクレイアに直接面会を求めた。面会の希望はあっさり通った。

 通された部屋は意外なほど質素な造り。その部屋の主にはいっそ分相応だった。部屋の奥の大きな机の向こうには、暗い色の肌をしたクレイアが立っていた。


「ようこそおいでくださいました、レイントリー様」


 彼は盾のように立ちはだかるその机の影から出て来て、向かい合わせのソファに座るようにギデオンを促した。ギデオンがそれに応じてソファに座ると、クレイアも遅れて向かいのソファに腰を下ろす。


「面会感謝する」


「いえ…レイントリー様とご友人のウィンステッド様には、当店をご贔屓にしていただいておりますので…。それで、本日はどのようなご用件で?」


 暗い色の肌をしたクレイアは故意に表情の一切を消しているかのように眉ひとつ動かすことはなかった。ツィーリャは本当にこんな男の傍で安心できるのだろうか?クレイアへの信頼を表す言葉の数々は、実は嘘だったのではないかとさえ思える。


「贔屓にしていた歌姫が、もうずっと長いこと臥せっていると聞いたんでな。ぜひ見舞いたくて、オーナーであるあなたに直接頼みに来た。お取次ぎ願えるだろうか?」


「……レイントリー様がお気にかけられるほどの芸の者ではありません」


 クレイアは頬がこけた顔や細身の体躯がいかにも神経質そうな男だった。今も、穏やかさを取り繕おうとしてはいるものの、伏せた視線からはギデオンへの不快感がひしひしと伝わる。


「クレイアさん、ツィーリャから聞いていないか?私は彼女の友人だ」


「…いえ、私は何も」


「何も聞いていないと?」


「ええ、生憎と」


 ギデオンの挑む視線に応じたのは、同じく攻撃的な昏い眼だった。ふたりはしばしそのまま睨み合う。ギデオンには、クレイアのその眼だけで彼の真意がわかった。彼はギデオンを激しく拒絶しているのだ。

拳を握りしめた。歯痒さと、ギデオンを拒むクレイアへの恨めしさに。

 長患いで臥せっているツィーリャの様子がずっと気になっていた。せめてひと目笑顔を見ることが出来れば多少なりとも安心できるものを、それもままならないのだ。

 だがギデオンは、クレイアが彼を拒む理由を感情のままに問い詰めることはしなかった。レイノルが、きっとこうなるだろうと言っていたからだ。これほど悪意を込めた拒絶を受けるとは思わなかったが。

 ツィーリャへの面会を断られた場合の振る舞いも、レイノルが言っていた通りに演じようとゆっくり目を閉じて心を落ち着かせた。


「……なるほど」


 大きく息を吐き出してその一言を呟く。


「どうやら私の勘違いでオーナーにはご迷惑をおかけしてしまったようだ。申し訳ない。非礼を詫びるよ」


 店の女との駆け引きに失敗した客を演じて、肩を落として見せる。取り敢えずここは退いて、別の手を考える方が良さそうだ。なるべくなら正攻法で、と思っていたのだが。


「……とんでもございません」


 クレイアは形ばかり、浅く会釈をする。

 外套と帽子を素早く身に付けたギデオンは、去り際、帽子のつばの陰から彼を見た。硬い表情で立っているクレイアは、無言でギデオンに対する嫌悪感を漂わせていた。彼もそれを取り繕えているとは思っていないだろう。


「では、ツィーリャによろしく。早く良くなるように祈っていると伝えてくれ」


「ありがとう存じます」


 その時初めてクレイアが微笑んだ。安らぎとは縁遠い昏い表情だった。

 初めて見たその笑みが何やらうすら寒く、ギデオンは重い扉を閉めてその部屋を出た。



「ギデオン、どうだった?」


 宿にしている部屋に戻るなり、真っ先にレイノルがギデオンを出迎えた。


「あいつには会えなかった」


「やっぱりそうか」


「お前の言うとおりだったよ」


「クレイアは歌姫にご執心だな」


 レイノルと話しながら外套と帽子を脱ぐ。それを適当に投げ捨てて、自分の身体をぞんざいに寝椅子に放った。天井を睨み付けてクレイアとのやり取りを反芻する。


「……もしかしたら臥せっているというのは嘘かも知れないな」


「嘘?」


「あいつは俺のことを友達だと話しておくと言っていたんだ。クレイアは俺のことは聞いていないと言っていた。その割には敵意剥き出しでな」


 レイノルは呆れた笑みを浮かべる。


「ああ~、大事な歌姫の口から男の名前を聞いちゃ、嫉妬心も湧くだろうなぁ」


「は?」


「クレイアはお前に妬いてるんだろ」


 レイノルは当然のように言うが、ギデオンにとってその言葉は青天の霹靂だった。


「……なんだ、思いもしなかったって顔だな?ここまで鈍いとさすがに俺も尊敬するぞ?」


 レイノルを睨み付けると心底同情した目で溜め息を吐かれた。


「…なあ、お前は何でそんなに歌姫に会うために走り回ってるんだ?口説き落とそうってわけじゃないんだろ?」


 ギデオンはその意味を考えた。考え込んで黙ってしまった彼に、レイノルは首を傾げる。

 ツィーリャに会って何をしたいのかなど、実はギデオンは考えていなかった。ただ、外の世界で束の間遊んでいた小鳥が本当に楽しそうだったので、閉じ込められているなら哀れだと思った。慰めてやるか、連れ出してやるか、そんなことは考えていない。閉じ込められていても、彼女が泣いていないならそれでよかった。笑っているのをこの目で見られればそれで満足するだろう。


「……俺はただ、あいつが笑っているのを見たいだけだ」


 舞踏会の夜、透き通った歌の舞台、草地の、月明りの下。

 あの時見た笑顔をまた見たかった。笑っていると確信出来るものが欲しかった。今ギデオンが手繰れるツィーリャの痕跡からは、とてもその確信は得られなかったのだ。笑っていて欲しい。その思いから零した言葉を、レイノルは寂しく笑って拾い上げる。


「なるほど。口説くって感じじゃなさそうだ」


「……なあ、クレイアの屋敷は街外れのどこだったかな?」


「海の方だ。崖の上」


「……崖の上か……」


 相変わらず天井を見つめたまま考え込んでいるギデオンにレイノルは親切に忠告しておく。


「海側からの訪問は不可能だぞ。仕損じれば荒海へ真っ逆さまだ。ちゃんと正面から入れてもらえ」


「断固拒否されたばかりだっていうのに、何をいまさら」


「それはクレイアを通しての話だろう?」


 レイノルは彼特有の自信に満ちた高慢な笑みを浮かべる。ギデオンの顔に浮かんだ表情を読んで、今回ばかりは感謝して欲しいところだ、とレイノルは思った。


「クレイアの屋敷の侍女を口説いてるところなんだ。お前、伝書鳩になる気はないか?」


「……お前はよくよく、ひとつのところに腰を落ち着けないな」


「俺と違って一途なお前にはわかるまいよ。で、行ってくれるのかくれないのか、どっちだ?伝書鳩殿」


 レイノルの懐から運命のカードのように差し出されたその手がかりを、ギデオンは無言で受け取った。



 クレイアの屋敷の裏口は、件の侍女によってわかるかわからないかぐらいに僅かに扉を開けられていた。ギデオンは必要最低限の隙間を開けると、そこに素早く滑り込んで内側から扉を閉めたと見せかけて、こっそりハンカチを噛ませておいた。

 侍女はよほど待ち望んでいたのだろう。扉の前で頬を紅潮させて緊張気味に立っていた。その初心な仕草にギデオンは少し同情する。何と言っても相手はレイノルだ。友人の悪口を言いたくはないが、彼は色恋方面では決して褒められた付き合い方をしない。遊び慣れた女を相手にするなら後腐れもないが、こんな純粋そうな女にまで手を出すなど、ギデオンはさすがに友人の女好きにうんざりした。いつかどこかの女に刺されても仕方がないとさえ思う。


「お待たせしたようだな」


「いいえ…!」


 手紙を差し出すと、侍女は大切そうにそれを受け取り、深々と頭を下げて礼を言った。


(何の、礼を言うのは俺の方さ)


 ギデオンは来た時と同じように裏口から出て行くふりをして、侍女の姿が見えなくなったのを確認してから、屋敷の奥庭に向かって暗色の外套を翻した。

 資産家の屋敷も貴族の屋敷も、造りは大体似たようなものだ。大切なものを隠すなら、屋敷の奥まったところと相場は決まっている。だが、数ある部屋のどこにも人のいる気配がない。月のない今宵のような夜には、人がいれば必ず明かりを灯すはずなのだが。

 完全に当てが外れてギデオンは立ち尽くした。新月の薄闇と暗色を纏う風貌のおかげで、何とかここまで人目を避けて入り込めはしたが、そう長くもいられまい。どうしたものかと、わずかな光を放つ星空を仰いだところで、細い玻璃のような声が耳を掠めた。

 はっとして辺りを見回す。どこかにうっすらとでも明かりの灯っている部屋はないか。そうして忙しなく見回したところで、声が上から降って来るのに気が付いた。

 見上げると、牢獄のような高い塔の海側に面した小窓から微かな明かりが漏れていた。声はそこから聞こえる。崖の上、まるで燈台のようにそびえる塔から、波の音に混じって細い声が聞こえる。塔は崖の突端に建っているのだ。


「……ちっ!」


 ギデオンは鋭く舌打ちをした。ツィーリャを徹底的に閉じ込めておこうとする意図が、その塔からはありありと見て取れた。虐げているとさえ言える。こんなところでツィーリャが笑っているとはとても思えなかった。

 とは言え、梯子も縄もなくあの小窓まで辿り着くなど相当に難しい。微かな星明りを頼りに見る限りは、どうやら塔の外壁は凹凸が激しく、登れなくもなさそうだ。だが、手掛かり、足掛かりが必要なことには変わりはない。

 何かないかと外套や上着を探って、たったひとつ、使えそうな硬い感触を返すものが指に触れた。懐からそれを取り出す。愛用の万年筆だった。それを外壁に差し込んで行けば、何とか登れなくもない。もちろんそんなことをすれば万年筆は二度と使えなくなるだろうが。

 ギデオンはほんの少し迷って、万年筆のペン先を外壁の隙間に差し込んだ。



 窓を叩く音がして、ツィーリャは振り返った。風の音かと思ったが、星明りに逆光の人影がはっきりと見える。はっと息を呑んで弾かれるように窓に駆け寄り、鍵を開ける。今はそれさえもどかしかった。会いたかった人が今すぐ目の前にいるのだ。隔てるものは薄いガラスの窓ひとつ。

 最後の障害であった窓をやっと開け放ち、その暗色の影を波の音と共に招き入れた。

 ギデオンは黒い風のように部屋に舞い降りる。その昏さは不吉なもののように思えたが、ツィーリャにとっては胸が熱くなるほど懐かしい天つ風のようだった。


「よう」


 ギデオンはツィーリャに向かってにやりと笑った。


「あんたが来ないから俺から来てやったぞ」


「……ギデオン!」


 ツィーリャは名を呼ぶとその人の懐に飛び込んだ。思ったよりも熱烈な歓迎にギデオンは多少狼狽える。が、久し振りに聞くツィーリャの声に、何とか落ち着きを取り戻した。彼を放すまいと細腕に力を込めて縋り付いているツィーリャを見下ろして小さく笑う。


「…これだけの大歓迎を受けると、愛用の万年筆を一本駄目にした甲斐があったという気がしてくるな」


 笑いながらそう言って、ツィーリャの頭をぽんぽんと軽く撫でた。彼女はまだギデオンの胸に顔を埋めて彼に縋り付いている。


「……おい、大歓迎はいいが、そろそろ解放してもらえないか」


 細い肩に触れると、小刻みに震えているのがわかった。彼女は泣いていたのだ。その顔を上げさせて、掌で涙を拭ってやる。


「美人が台無しだぞ」


「……会いたかった」


 泣き声から絞り出されたその言葉と、自分を見上げる涙で濡れた瞳に、ギデオンは咄嗟に危険を感じた。ツィーリャの顔を両手で覆って後から後から溢れだす涙を何度も拭ってやる。だが、何度そうしてやっても涙を堰き止めることは出来なかった。


「おい、どうしたらこの涙は止まるんだ」


 ギデオンの心中にはざわざわと何かが這い回る。


「…あなたが抱き締めてくれたら止まります」


 這い回っていたそれはツィーリャの言葉を契機に暴れ回る。その正体が自分の鼓動だったと気付くまでにしばらく時間がかかった。


「……マスターが、あなたに会いに行くのを許さないと……」


 ツィーリャの身体中に歌が溢れた。先程玻璃のように細い声で歌っていた切ない旋律の歌だ。


 会いたい。切ない。忘れないで。会いに来て。抱き締めて。笑いかけて。

 会えない。悲しい。嗚咽。熱が高まっていく左胸。会いたい。あなたに会いたい。


 そうしてツィーリャの孤独は歌になった。

 そんな歌があったことを、今までは知らなかった。会えないことがこんなにつらい存在があることを、ツィーリャは知らなかったのだ。その気持ちの正体をクレイアは恋だと言った。その時受けた衝撃は、この別離の間に徐々にツィーリャの内側に染み込んで、ギデオンへの想いを自覚した。

 ツィーリャはギデオンに恋をしていたのだ。


「ギデオンに会いたくて、叶わなくて悲しかった。会えないと、いつかあなたに忘れられてしまうのではないかと泣きたくなった」


 ほろほろと涙は零れて、ギデオンの掌とツィーリャの頬の間に染み入った。


「私、ギデオンが好きなんです」


 ギデオンは戸惑った。しかしそれは表情には表れず、ただ瞳だけが揺れるばかりだ。ツィーリャはギデオンの存在が幻でないように、束の間悲しみを慰める幸福な夢でないことを願って、ギデオンの掌を両手で包み込む。そこからは確かに人の熱を感じた。


「あなたに会いたかった……」


 頬を飾るのは相変わらずの涙だ。ギデオンはしばらく躊躇ってから、ツィーリャの額をひとつ軽く撫でた。


「……泣かんでくれ。あんたが泣くと、どうにも落ち着かない」


 そうして、触れるか触れないかのぎこちない抱擁でツィーリャを慰める。ギデオンの前ではいつも笑っていた彼女が泣いている姿は儚く思えて、それ以上強く抱き締めてしまっては呼吸を止めてしまいかねないと思った。両腕は理性の力で思い留まらせ、頭の中は、どうしたらツィーリャが笑うのか、それだけでもういっぱいだった。

 懐の中でツィーリャが涙声で小さく笑う。


「……ギデオンは女性の扱いにあまり慣れていないでしょう?」


 意外な言葉にギデオンは憮然とした。


「生憎と誠実な性質でね」


 言うと、その時初めてツィーリャがギデオンを見上げて笑った。彼女を解放すると、自分で涙を拭って笑う。ギデオンはほっとして、懐に手を突っ込んだ。


「……あんたが飛び込んでくるから潰れたかと心配だったが…」


 ツィーリャは首を傾げてギデオンの懐を見遣る。


「どうやら無事なようだ。野の花は強いな」


 彼の手の中で揺れたのは、小さな蕾を付けた花だった。芸の者に会いに行く時は喜ばせるための花を。レイノルに教わった、ギデオンの出来る数少ない気遣いだ。


「やるよ。あんたが外に出ないうちに、季節が変わってあの草原で芽を出した花だ」


 ツィーリャは柔らかく笑ってその花を受け取る。心が温かくなって、優しく解れていく。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


 ギデオンは肩をそびやかして皮肉気に笑う。ツィーリャはすぐにその花を水を満たした杯に生けた。小さな花には少し大振りな杯で、くたりと俯く姿はあまり見栄えのするものではなかったが、ツィーリャは満足そうに微笑んだ。


「……あんたをここに閉じ込めたのはクレイアか」


 剣呑な色を含んだ声に、ツィーリャは遅れてこくんと頷いた。


「……マスターは今までにないくらい怒っていました。私が恋をするのは、悪いことみたいです……」


 ギデオンは咄嗟に、それは違う、と言いかけて口を噤んだ。クレイアは狂った独占欲に駆られてこのような暴挙に出たのだ。ツィーリャが他の男に恋をしていることを知ってのこの所業は、その狂気が彼女を愛するがゆえの嫉妬心からだというのは明らかだった。

 だが、ギデオンは自分の口から、クレイアはツィーリャを女性として愛しているのだと知らせたくはなかった。嫌な感情が渦巻いて、それが言葉を堰き止めた。


「あんたのことは俺が必ず救い出す。あまり使いたくない手だが、俺もこれで一応貴族だ。家の威光を使ってあんたをここから連れ出すことは出来る。それを望むか?」


 ツィーリャは驚きに目を見開く。真摯に彼女を見つめるギデオンの目で、その言葉が重く真実味を増した。頷けば、ギデオンは必ずそれを叶えてくれる。ツィーリャはもう、ギデオンと隔たれて胸を絞られながら歌うのは嫌だった。涙を堪えて鬱屈した思いを歌うしか出来ない日々は、ただもう悲しかった。

 だから、しっかりと頷いたのだ。


「待っています。あなたが来てくれるのを」


 それを聞いてギデオンはほっと息を吐いた。我知らず緊張していたらしかった。彼の懐に、今度は確かめるようにツィーリャが潜り込む。抱き締めて、よく覚えておくのだ。次に会える時まで、彼に会えた喜びを。


「……ありがとう、ギデオン。あなたが来てくれて、本当にほっとしました。あなたの傍はやっぱり安心します」


 ギデオンはまた狼狽える。今度はツィーリャが飛び込んできた驚きからではなく、鼓動を悟られはしないかとそればかりが気になる。女慣れしないからではなく、これほど狼狽えてしまうのはツィーリャだからだ。彼は呼吸を整えて、無理矢理でも何とか落ち着きを取り戻した。


「……だから、女が男に対して容易く安心するとか言うもんじゃない。そのうち痛い目を見るぞ」


「ギデオンならそんなことになりませんよ」


 絶対の信頼を伺わせる言葉に、ギデオンはさすがにむっとして彼女を見下ろす。


「あのなぁ、これはいわゆる夜這いだぞ。男が女のところに忍んで来たらどういうことになるか、あんたならわかるだろ?」


「……私がお店で歌っていた歌と同じですね」


 ツィーリャの声はギデオンの懐の中でくぐもって聞こえる。


「そんな状況で安心するとか言ってたら、何が起きてもあんた文句は言えないぞ」


 ギデオンはツィーリャの額を指先で弾いて軽く睨む。ツィーリャは漸くギデオンの言葉の意味が分かったらしく、瞬間真っ赤に点火して彼から離れた。その様子にやっと肩の荷が下りて彼は短く息を吐く。


「冗談だ。あんたが泣くならまた普通に会いに来てやる」


 頬を軽く撫でられるとツィーリャはほっとして呼吸が出来るようになる。それを見て、ギデオンは小さく笑った。そして暗色の影のような外套を引き連れて去ろうとしたギデオンのそれを、ツィーリャの手が咄嗟に引き留めた。

 また離れてしまう。また会えなくなってしまう。そう思ったら、不安に押し出された両手がギデオンの外套を掴んで彼を引き留めていた。


「夜這いでも構いません!」


 ほとんど本能的に飛び出た言葉だったが、自分の本心はこれだったのだと決意が腹に落ちた。


「わ、私……」


 喉がからからに乾いて、酸素の行き届かなくなった頭はくらくらした。視界が充血してちかちかする中、ギデオンがツィーリャを真正面から見返している。その顔は驚きで満たされていた。彼の唇が開きかけて、諭す言葉が放たれるその前にきっぱりとそれを封じた。


「ギデオンなら後悔しません」


 喉の奥は灼熱なのに、指先は清冽だった。

 ギデオンはツィーリャの言葉にまたも危険を感じた。それがどういう類の危険なのかわからない。きっとこれは落とし穴なのだろう。落ち込んだら二度と這い上がれないことを本能で知っていた。だから脳裏でこれほど喧しく警鐘が鳴るのだろう。

 ギデオンの足は操り人形のようにツィーリャに歩み寄った。諭してやるつもりだったのか、宥めてやるつもりだったのか、それはわからなかった。彼の足は確実に落とし穴に向かっている。信頼しかないツィーリャの瞳がギデオンを見上げていた。危険を知らせる警鐘は鳴り止まない。

 彼女の頬にはまだ涙の跡が残る。それを拭ってやるつもりで手を触れたが、それきり警鐘はふつりと消えた。


 ギデオンは今まで感じたことがないほど静かな気持ちで、ツィーリャの唇に口付けた。




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