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金色のセリン  作者: 峰子
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第3話

 夜空にぽかりと浮かぶ月を見ると、ツィーリャを思い出す。あの羽の金色はちょうどこんな風に優しい色だった。街に閉じ込められた夜空を見るのに飽きて、ギデオンはもっと広いところへ月追いの散歩と洒落込もうと部屋を出た。

 レイノルにはあの後ツィーリャのことを色々聞かされた。

 あの店で歌うようになってからその美声はすぐに知れ渡り、有名になったこと。歌う以外の声を誰も聞いたことがないということ。過去に美声に酔った客がツィーリャを攫おうとしたので、それ以来警護が厳重になったという噂があること。ツィーリャは店のオーナー、クレイアの専用で、伽の客は一切取らないこと。クレイアはツィーリャを殊の外寵愛していて、店にいる時は片時も彼女を放さないこと。

 ツィーリャはクレイアの情婦であると噂されているということ。

 あの夜偶然に出会ったツィーリャはクレイアを優しい人だと言っていた。だとしたら少なくともクレイアに虐待されるとか、非道なことをされているわけではないのだろう。歌うのが好きだと笑っていたから、クレイアの過剰な保護でがんじがらめにされていても、彼女は彼女なりに幸せなのだと思う。己の価値観に無理矢理嵌め込んで、その幸せは間違っている、もっと自由を望んでいいはずだと言うのは独り善がりだ。

 彼女がそれ以上を望まないのであれば、それでいいではないか。

 ただ、それではどうにもギデオン自身が切ない。あの幼く澄んだ声の持ち主が広い世界を知らずに過ごすなど、切ない。広い世界を知ればきっとあの歌は更に美しくのびやかに響くのに。あの声が全ての美しいものを包んで歌になるのに。

 そうであってこそツィーリャは本当に、心の底から歌うことを楽しいと思うのではないか。ギデオンは、他ならぬ彼女自身にその喜びを知らずに過ごして欲しくなかった。

 街外れまで来ると建物に邪魔されずに空がよく見渡せた。草地に身体を投げ出して月を眺める。あれほど高いところから街を見下ろせば、ギデオンやレイノルのしがらみの悩みも、ツィーリャのことも些末なことに見えるのだろうか。月は沈黙を守るが、もしかしたら正しい答えを知っているのではないか。


「…ま、いくら正しくても納得出来なきゃ意味がないな」


 呟いたところで、頭上の月を黒い影が遮った。


「こんばんは」


 あの晩と同じ、黒いレースを纏ったツィーリャだった。だが今日はより念入りに暗色の外套も着込んでいる。ちょうど彼女のことを考えていた時に突然本人が現れたものだから、知らず呼び寄せてしまったのかとばつが悪くなる。


「脱走癖でもあるのか、あんたは」


 ギデオンの無愛想にも怯まず、ツィーリャは悪戯っぽく笑う。


「可愛いお花、ありがとうございました」


 上機嫌で彼の傍らに座り込む。


「……なんで俺だとわかった」


 起き上がりながらぶっきらぼうに言うが、対するツィーリャは依然変わらず、にこにこと笑っていた。


「メッセージを読んだからです。“そういう歌の方がよく似合う”って。すぐギデオンだってわかりました。それに、ギデオンがお花をくれるとしたら、私が一番嬉しいものをくれると思ったから」


 あの花束に添えた走り書きのメモにはどこにも署名などしていない。ただその一言だけを書いたのだ。


「あの夜はギデオンが来てくれたからあの歌を歌えたんですよ。いつもはもっと違う歌を歌うんです。お店にはそういう空気がいっぱいで、複雑な感情が入り乱れているから」


「恋の駆け引きの歌か」


「そうですね」


「くだらないな。そんな歌を歌わせる奴の言うことを聞くことはない」


 忌々しげに短くため息を吐く。脳裏にはクレイアの姿が浮かんでいた。


「いいえ、歌わされてるんじゃないんです。歌になってしまうんです」


「……そいつは音楽に携わる者にしかわからん感覚ってやつか?生憎、俺にはその心得がなくてな」


「ええと…多分それとは違うと思います。なんというか…その場にいる人の感情が入り乱れていて、悲しんでいたり、愛していたり、諦めていたり、怒っていたり。それを読むと、そういう歌になっちゃうんです」


「……よくわからんな」


「ごめんなさい…私、説明が下手で」


「よくはわからないが、あんたがそういう才能を持ってるんだということは何となくわかった」


 ツィーリャはぱっと表情を輝かせてからほっとため息を吐いた。


(やっぱりギデオンはわかってくれる…)


 ギデオンだけは、他の人間にもクレイアにも感じる隔たりがない。飛び越えるべき壁をこの人は持たないのだ。


「それにしてもあんた、よくここがわかったな」


 ギデオンはいつもここにいるわけではない。ここへは初めて来たのだ。月のよく見える所へ行こうとしたらここに辿り着いた。もしかしてツィーリャもただ月に誘われて来たのだろうか。


「あなたの周りにはぱちぱちと光が弾けて見えるんです。それを追って来たら、会えました」


 ぱちぱちと弾ける光輝…ギデオンにもそれは覚えがあった。『カナリア』の舞台で初めてツィーリャを見た時、彼女の周りに光が弾けるのを見たのだ。ツィーリャには人の気持ちを歌にする不思議な才能がある。もしかしたら、と思い、ツィーリャに問うた。


「それもあんたの持つ不思議な才能のひとつか」


「わからないけど…そうかもしれません………自分のことなのに、なにひとつわからない」


 瞳が翳りかけたツィーリャの横顔に声を放った。


「気にするな。誰だって自分のことなんかわからない」

 

 するとツィーリャは柔らかく微笑んだ。


「……ギデオンの傍にいると安心します」


 ギデオンは危険を感じてぎくりと肩を震わせた。ちらとツィーリャに視線を送ると、変わらず柔らかな微笑みを浮かべていて何を考えているのかわからない。

 いや、きっと何も考えていないのだと思う。相手はまだ子供と言っても差し支えない少女なのだ。


「あのな、女が男に向かって安心するとか言うもんじゃない」


「なぜですか?」


 こくっと首を傾げてツィーリャの目がギデオンを映す。その視線に更に怯む。


「……悪いことを考える奴もいるだろう」


 そう、それは例えばレイノルのような遊び慣れた男とか、だ。


「…ギデオンはそんなことありませんよ」


「なぜそう言い切れるんだ」


 ぶっきらぼうな問いかけにツィーリャは悪戯っぽく笑った。


「初対面の女の子が逃げているのを匿って、しかも次の機会のためにアドバイスまでしてくれる人が、こんな時に悪いことを考えるはずがありません」


「…わからないぞ、俺だってなぁ…」


「わかりますよ」


 即座に返されてギデオンはぐっと言葉を飲み込んだ。それを見てツィーリャは含み笑いを返す。その仕草に氷の歌姫の妖艶を見た気がして危機感が膨れ上がり、脳裏で遠く警鐘が鳴る。


「ギデオンの傍にいると不思議なんです。弾ける光が見えたり、この前みたいな恋の歌を歌えたり」


「今までにはなかったのか?」


「はい。でも、知らないことばかりでなんだか楽しい」


 知らないことを知っていく楽しみを覚えたツィーリャは輝いて見える。月明りの下が不似合いなほど明るい笑顔だ。


「…もし、自由に外を歩き回れるとしたら、あんたはそうしたいと思うか?」


「………それは、マスターが許してくれません」


 それまでの輝く笑顔をその言葉で蓋をして、ツィーリャの表情は硬くなった。


「どうしてクレイアの言いなりなんだ?こうしてお忍びで外に出てくるくらいなのに」


「マスターは私を拾って育ててくれました。優しくて、今もこうして傍に置いてくれています。私が今まで生きて来られたのも、歌を歌っていられるのも、マスターのおかげなんです」


「……クレイアを信頼しているんだな」


 ギデオンは薄く笑った。


「はい……この世で一番」


 信頼は安心に繋がる。ツィーリャはクレイアの許にいるのが一番安心するはずなのに、この寂しげな笑顔はどうだろう。


「あんた、今寂しそうな顔してるぞ」


「え?」


「どうしてそんな顔をするんだ」


「私は……」


 寂しさと戸惑いの表情で黙り込んだツィーリャの目を見て、ギデオンは咄嗟に、まだ開いてはならない扉を開いてしまった気がした。囚われの鳥の無邪気を守ってやるのではなかったか。片手を差し伸べ、ツィーリャの頭をぽんぽんと軽く撫でてすぐ手を引いた。その髪はいつか想像した通り柔らかかった。


「わからないなら、まだ今はわからなくていい。きっとわかるときは来るさ」


「………はい」


 ツィーリャの表情がほっと和らいだ。


「ギデオン?」


「ん?」


「言ってはいけないのかも知れないけれど、やっぱりギデオンの傍はとても安心します」


「………そりゃ紳士冥利に尽きるね」


 ツィーリャは声をあげて笑った。視線を夜空に転じて夢見るように言の葉を紡ぐ。


「あなたといると、本当に時間が早く過ぎてしまう。とてもきらきらしていて楽しいです。マスターといる時とは違う気持ち…」


 ギデオンは夜空を見上げるツィーリャの横顔を見ていた。時間が早く過ぎてしまうのは、楽しい気分なのは、籠の中の鳥が夜に紛れてひととき世界の一端を見た感動からだろう。片足の爪先を外の世界に触れさせてみては、朝日が昇れば急いでそれを引っ込める。朝日に憧れてもいいものを。


「またお店に来てください。今度はもっとゆっくりお話ししたいです」


「舞台の後にか?あんたの楽屋も護衛がうようよいるだろう。そんなことが出来るのか?」


「マスターに頼んでみます。ギデオンは私の初めてのおともだちなんですもの」


 ギデオンは苦笑した。社交の場でも人付き合いをなるべく避けている彼を、自ら「おともだち」と呼ぶ存在が彼にもいたのだと思うと不思議な気持ちになる。


「それとも今度は私から会いに行きましょうか?」


「舞台に引っ張り上げられて踊る羽目になるのはごめんだぞ」


「ふふ、それも楽しそうですね」


 ギデオンは草むらに隠れて咲く小さな花を一輪、無造作に手折り、ツィーリャの目の前に差し出した。目の前で揺れる可憐な花びらに、ツィーリャの目が数度瞬く。


「俺の贈った花束が好きだと言っただろう。あんな花はここに来れば他にもたくさんあるんだ」


 ギデオンの手からその花を受け取る。葉と花びらはかすかな風に揺られて震えても、不思議と儚げではなかった。


「この花が好きならまたここに来い。俺はここにいるから」


 飛び立つことは出来なくとも、せめて世界の風と匂いを感じて、美しい歌の土壌にして欲しい。ほんの少し手を伸ばせば届くところにある、世界の美しいものを知っていて欲しかった。


「ギデオンは待っていてくれますか?」


「ああ」


 短い返事に、ツィーリャの胸の奥で鈴が鳴る。それを合図に呼び起こされたのは、ツィーリャの知らない歌だった。

 今この瞬間まで気付かなかった。ギデオンの笑顔にはいくつかの種類があること。そして、自分が本当に一番好きなのは、今目の前のギデオンが見せる笑顔だということ。

目がとても優しくて、いつもの皮肉な仮面を被らない素顔の笑み。それが素顔なのだとツィーリャは知っていた。


「……約束ですよ」


 胸の中に渦巻く歌が溢れないように、自分の両手とギデオンがくれた一輪の花とで閉じ込めた。



 その夜を境に、ツィーリャはギデオンの前に姿を現さなくなった。



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