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金色のセリン  作者: 峰子
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第1話

 ギデオンは、はっきり言ってその夜は気が乗らなかった。いや、その夜に限らず、この手の誘いには大抵彼は気が乗らない。

 気が乗らないと言ったにも関わらず、友人のレイノルはギデオンの言葉には耳を貸さなかった。領地から離れたこの華やかな街に滞在する機会など、滅多にあるものではない。これを好機とレイノルが無理矢理ギデオンを引っ張って来たのがこの店だった。

 娼館と併設されたその店の名は『カナリア』。人を酒で酔わせ、絢爛なショーで魅せれば現に夢も観せる。一夜の伽もここでは買えた。


「ここだ、ここ。この店がいい女を揃えてる」


「ああ」


 陽気なレイノルにギデオンは対極に徹した仏頂面を返した。レイノルはギデオンの、感情を取り繕いもせずに露骨に顔に表す性質を知っている。取り繕う努力を最初から放棄しているのだ。彼は本当に気が乗らないのだと疑う余地もない。


「そんな顔をするな。もう少し愛想を足したら、お前だってなかなかいい男だぞ?」


「生憎と、逆さに振っても振りまく愛想がない」


「まあ、今更愛想のいいギデオンも気持ち悪いけどな」


「ああ、そうだろうとも。俺に構わず、お前は精々そのご自慢の面相でここの女たちに秋波を送ってやれ」


「無論」


 レイノルは顎をそびやかして自信に満ちた笑みを浮かべた。その仕草は少々高慢だが、彼はそれが似合う華やかな容色を持ち合わせている。金に近い明るい色の髪と青く透き通った瞳を持つ彼は、そこにいるだけで場が明るく華やぐ。ここまで人を魅了する色気に満ちた貴族というのをギデオンは他に知らない。

 他人はレイノルと対極に位置するギデオン・ル・レイントリー卿という男を無愛想の代名詞のように言うが、彼は今更それを気にしていない。元より、気にするほど機微の細やかな性格でもなかった。ギデオンはそんな自分を太々しい人間だと自ら評している。

 華やかな容貌のレイノルに比べて、ギデオンのそれは黒色の髪に眼光鋭い同様の黒い瞳。長身も相まって、そこにいるだけで人を威圧する風貌だ。

 しかし、対極にいるはずのギデオンとレイノルは不思議と馬が合った。貴族の家にありがちな独特の風習に辟易しているという点でのみ、彼らの思考は一致していた。ふたりにとってはそれが却って長年の友情を保つ秘訣となっているのかもしれない。互いが互いを得難い友だと思っているのだ。


「ほら、行くぞ」


 店の中にはむせ返るような甘ったるい偽物の空気が立ち込めていた。そこにレイノルは意気揚々と、ギデオンは重い足取りで入って行ったのだった。



 扉をくぐるなり一変した世界には、酒と半裸の女と手軽な恋が溢れていた。あちこちで花開く官能の恋は余人の目から秘し隠された悲喜交々がある。そんな色とりどりの恋があるから、レイノルも他の男たちも夢中になるのかもしれない。偽物とは言え、様々な情愛の襞をくぐって行くのは景色が滞ることはなく、万華鏡のように目まぐるしく移り変わる夢に心を躍らされる。

 ここはそういう場所だった。

 レイノルが予約していたテーブルにつくと、ギデオンは上質なビロード張りの樫材の椅子に身体を深く沈めた。おそらく彼がこの椅子から立ち上がって女に声をかけることはないだろう。立ち上がるとすれば、それはこの店を出る時だ。

 彼は別に、こういう類の店や商売を忌避するような潔癖な人間ではない。こうして友人に付き合ってやるくらいの寛容さは持ち合わせている。

 レイノルはギデオンに、多少なりとも煩わしい上辺の会話のやり取りに慣れて欲しかった。それで娼館に連れてくるというのがいかにも彼らしい。口先はもとより、あらゆる手練手管で女を籠絡するやり方は社交の場での人付き合いの術に似ていると言えなくもない。

 多少の世辞でも言えなければあっという間に爪弾きに遭う社交の場で、ギデオンはそういったやり取りからはなるべく遠くに己の身を置く。今まで除け者扱いの憂き目に遭わなかったのは、偏に彼の生まれが高貴だからである。

娼館も社交界も大して変わらないものだ。人の思惑や優越感の襞を泳いでいくだけ。その場に相応しい表情を取り繕う。

 しかし、ギデオンも何も意地で社交を避けているわけではない。取り繕おうとしても感情が表情に表れてしまうのだ。面白くなさそうな表情で話されても、相手としても気分が良くないはずだ。社交が苦痛というわけではないが、自分にも相手にもいい気をさせないなら、接触を避けることを選ぶのはむしろ彼なりの相手への気遣いの表れである。彼はレイノルの気遣いには感謝しているが、実はここで一夜の相手を探すのも億劫だった。

 照明を落とした店内でそこだけ浮かび上がるように明るい壇上、艶めかしく踊る肌を冷めた目で眺める。明るい輪の中にいる時だけ、彼女も妖艶な笑みを演じるのだろう。そんな風に考える自分は恐らく人間不信なのだと頭の片隅で思った。


「あの踊り子とも、気が合えば一夜の伴侶だ。少しは酔える女はいないのか?」


「いれば勝手に口説くさ」


 ため息と共に言葉を吐いて転がした。


「それは困る。万が一俺の目当てだったらお前とはライバルだからな」


 踊り子は出し物を終えて舞台袖に姿を消した。これから彼女に魅了された男が彼女との今宵限りの駆け引きを愉しむのだ。


「その時はお前に譲る」


 レイノルの嬉々とした顔を見もせず答える。友人はこの遊戯を楽しんでいるだけだ。その場の恋に本気というわけではなく、遊戯の盤上に友人が乗ればこれはこれで興があると思っている。証拠に、レイノルはギデオンの素っ気ない返答に面白くなさそうに鼻を鳴らして、空になった舞台に視線を移す。


「張り合いのない奴だな」


 突然、耳慣れた友人の声を押しやって、澄んだ声がギデオンの耳朶を打った。その清澄さに驚いて声の主を探したが、視線を躍らせるより先に店内の誰もが見つめている舞台に目を遣った。

 声の主は女だった。いや、少女と言っても差し支えない華奢な身体をしている。白く透き通る肌は光を受けて輝く。豊かな金色の髪は色味が濃く、柔らかさを容易に想像させた。金色の鳥の羽と翼を模した衣裳は、艶な化粧と相俟って彼女の姿をよく引き立てている。唇に引いた紅が印象的だった。

 その真紅の唇から紡ぎ出される歌は、清らかな声には不似合いなほど淫らな男と女の恋の歌。男が夜這い、女はそれを形ばかり避けながら駆け引きをする。この店に数多転がるありふれた話だ。しかしそれも人によって悲喜交々。それぞれの色の恋がある。それを歌い上げる声には情感がこもるのに、表情にその情熱が浮かぶことはなかった。歌だけを紡ぐ自動人形のように無表情だ。その不一致が不思議と艶めかしい。


「歌姫のツィーリャだ」


 レイノルがそう言うのを聞いて初めて、自分が息をしていなかったことに気が付いた。ギデオンはレイノルに気付かれないように静かに息を吐く。


「………随分照明が明るいんだな」


 先程女が踊っていた舞台と同じ場所とは思えないほど、そこは明るく輝いて見えた。


「照明?なんか変わったか?」


「さっきまでより断然明るい」


 照明の中ふわふわと浮かぶ埃が反射して小さな光が舞う。ツィーリャの周りにぱちぱちと光輝が弾けているように見えた。光を集めたような瞳が瞬く度、その曄は弾ける。


「……よりにもよって氷の歌姫に酔ったか」


「氷の歌姫?」


「ツィーリャのふたつ名だよ」


 情感を込めて澄んだ美声に包んだ歌を歌い上げるが、表情だけが際立って冷たい。氷と言われて納得した。氷はその凛の鋭さの分、透明度を増すのだという。ギデオンにはツィーリャの冷たさよりも清澄の方がより強く心に残った。


「ツィーリャは無理だ。彼女はこの店で客を取らない。オーナー専用なんだよ」


 歌い上げたツィーリャが金色の翼の衣裳を引き摺り掃けて行く姿を目で追うと、彼女を舞台袖で迎えた男が目を細めるのが見えた。くすんだ色の肌をした、そう若くもない男だ。照明を抑えたこの店内だからこそそう思えるのかも知れない。だが、人が好いとはお世辞にも言えない、好ましからざる雰囲気を持つ男だった。


「あれがこの店のオーナーのクレイア・ア・アリアシュだ。奴は“ア”を名乗らないが、下位民族の出身だということは誰もが知ってる。何でも、元は奴隷だったとか何とか。定かじゃないけどな」


 ギデオンと同じく“ル”の名を持つ友人、レイノル・ル・ウィンステッド卿は嘲るように言った。彼は、貴族の意味を持つ“ル”を名乗ることにそう誇りを感じているわけでもなければ、下位民族の意味である“ア”の名を持つ者を軽んじているわけでもない。そんな選民思考とは無縁の男だ。

 レイノルはクレイアを嫌っているのだ。


「商売に貴賤はないがな、俺はあいつの儲け方は好きじゃない」


 言って彼はグラスに半分ほど残っていた強い酒を一気に煽った。

 色を売る商売をしている者には、悪徳とも言える汚い商いをする者もいると聞く。レイノルはそういった、人の弱みに付け込む類の人間を嫌う。楽しむなら後腐れなく、華やかに。彼はその瞬間を大いに謳歌する、明るく楽観的な性格なのだ。


「それなら儲けを落としてやることもないだろう」


 ギデオンの言にレイノルは片眉を上げてにやりと笑った。


「俺の財布は奴に根こそぎ抜かれるほど迂闊じゃないってことさ」


「なるほど?」


 挑発するように笑って、琥珀色の酒をレイノルの空のグラスに注いでやった。



 早々に恋の相手を口説き落としたレイノルを置き去りにして、ギデオンは店を出た。ひとりあの店で飲む気には到底なれないし、レイノルのように恋の相手を探そうとは思わない。何よりあの場で自分が異端であることは彼自身よくわかっていた。相容れない空間にいつまでも居座るつもりはない。

 すっかり暗闇に包まれた街を見上げると、暗い色の屋根や尖塔の先に細い月の輝く星空が見えた。星は空いっぱいに輝いているはずなのに、街に閉じ込められたこの場所から見えるのは歪に切り取られた狭い空だった。

 この閉塞感が特別嫌いなわけではないが、息苦しいと言えば息苦しいし、ここではないどこかにもっと居心地のいい場所があるような気もする。

 ギデオンもレイノルも、貴族の慣習に縛られ自由を望んでいるようでいて、それから解き放たれることを希求するわけでもない。人は誰しも今在る場所に多少の不満を持ちながら矛盾を吞み込んで生きて行くものだ。

 ぼんやり考えながら角を曲がろうとすると突然、胸に勢いよく人が飛び込んでくる衝撃が走った。


「…ごめんなさい!」


 宝石が転がったとしたらこんな音がするのだろうと思えるような高く澄んだ声がした。先程『カナリア』の夢の舞台で聞いた声そのままの音に、ギデオンの胸が高鳴った。

 しかし、胸元で自分を見上げていたのは精々が十六、七の幼い顔立ちの少女だった。いや、実際はもっと年は上なのかもしれないが、驚きに見開かれた目があまりに素直にギデオンを見上げるので幼く見える。その細面には先程見た歌姫の艶な化粧っ気など全くなく、唇は健康的に色付いた本来の色だ。彼女は金色の髪と衣裳を隠すように黒いレースを身に纏い、頭からすっぽりと目深に被っていた。顔立ちの印象があまりにも違っていたので人違いかと思ったが、少女の衣裳にギデオンは見覚えがある。ツィーリャが着ていたものそのままの金の羽の衣裳だった。


「……まさかあんた、ツィーリャか?」


「私の名前を御存じなのですか?」


(……嘘だろ……)


 ギデオンは先程夢を見た転瞬、それを粉々に打ち砕かれた気がした。あの妖艶な氷の美女が化粧を落とせばこのような少女だったとは。つくづく、女の化粧というものは怖い。刷けば色香さえ完璧に纏うことが出来るのだ。


「あの…何だか、ごめんなさい…?」


「……いや……」


 ギデオンは落胆半分、呆れ半分で溜め息を吐いた。

 その時ツィーリャの走って来た方から数人の乱れた足音が聞こえて来て、彼女の肩が小さく弾んだ。怯えたような反応にギデオンは直感的に悟った。


「…追われてるのか?」


「あ、あの…急いでいますので、ここで失礼します。ほんとにごめんなさい」


「待て」


 そう言って、黒いレースを翻して擦れ違おうとしたツィーリャの腕を容易く捕らえて、細い路地の方へと引き摺っていく。


「は、放してください!」


「そっちに逃げるより、隠れた方が早い」


「え?」


「追われてるんだろ。早くしろ」


「は、はい!」


 言われるままに路地へ滑り込んだツィーリャを暗色の外套の中に抱え込み、路地の入口に立ちはだかって追っ手から姿を隠した。程なくして、揃いの目立たない服装の男が三人、通りに駆け込んでくる。彼らは辺りを見回してギデオンの後ろ姿を見つけたが、彼が鋭く睨み付けると早々に興味を無くして通りの先に駆けて行った。先程ツィーリャが逃げようとしていた道だ。そのツィーリャはギデオンの外套の中に匿われながら、追っ手たちの足音が遠ざかっていくのを聞いていた。

 足音が完全に聞こえなくなったところで、ツィーリャを懐から解放した。緊張に息を詰めていたのだろう。彼女はほっと溜め息を吐いた。


「ありがとうございました。おかげさまで助かりました」


 ツィーリャは幼い顔立ちに似合いの人懐っこい笑顔をギデオンに向ける。氷の歌姫とは到底思えない温かさだ。ギデオンは彼女の前に立ち、そのまま路地の奥へ導いた。


「それはいいが、あいつらは何者だ?あんた、なんで追われてたんだ」


「…あの人たちは私の護衛なんです。私、黙って抜け出して来たので…」


「氷の歌姫ともあろうものが、夜遊びか?」


 呆れたようなギデオンの声音に、ツィーリャは何も答えなかった。落とした視線の先の自分の衣裳を眺めるだけだ。路地を抜けて、辺りに人がいないことを確認してから小さな広場に出た。


「…お節介ついでにひとつ言っとくが、人目を忍ぶのにその衣裳は目立ち過ぎるぞ」


 腕から長く垂れ下がって翻る金の羽毛の袖と、肩甲骨の辺りから後ろに引き摺る金色の羽飾りは、舞台では歌姫の姿を引き立たせても、宵闇に紛れるには華やか過ぎた。金色を覆う闇色のレースでさえもそれを隠しきれてはいないのだ。


「あ、これは衣裳ではないんです」


「…普段着ってことか?何にせよ、お忍びならもっと着る服があるだろう」


「いえ、これは私の羽なんです」


「はねぇ~?」


 怪訝を前面に表して顔を歪めたギデオンに、ツィーリャは自分の腕を差し出した。触ってみろと言っているのだろう。ギデオンは疑わしげに金色の羽毛を纏うツィーリャの腕を取り、しげしげと眺めた。月明りは頼りなく、弱々しい星明りのみだったので目で見ただけではよくわからない。


「触っても構いません」


 ツィーリャがそう言うので、手首から腕に手を滑らせた。指先が袖だと思っていた羽に触れ、それが確かに腕から生えているのだと分かる。金の衣裳はツィーリャの羽そのものだった。ギデオンの驚きにツィーリャは肯定の微笑みを返した。次に彼はツィーリャの背後に垂れ下がる羽飾りを見る。触らなくてもわかった。それは翼なのだ。背に畳まれず、ただ引き摺るだけの金色の翼だ。


「……これが衣裳じゃないっていうのはわかったが…それならなぜ、逃げるのにその翼を使わなかったんだ?」


「……この翼はあるだけで飛べないんです」


 ツィーリャは翼を持ち上げようとするように腕を広げた。引き摺るだけの翼は彼女の意思に反して沈黙を守る。


「……傷付けられて飛べなくなったとか?」


 ギデオンの脳裏にはクレイアの暗い色の顔とレイノルの言葉が同時に浮かんだ。決して世間には誇れない商いをしているクレイア。レイノルがあそこまで嫌うからには、ギデオンもまだ聞いたことのない後ろ暗いことをしているのかもしれない。例えばそれは虐待のような。もしかしてツィーリャは、翼で飛んで逃げないようにクレイアに傷付けられたのではないか、という嫌な想像が脳裏を過った。


「多分、生まれつきなんだと思います。物心ついた時にはもう私は孤児で、飛ぶことも出来ませんでした」


「孤児?」


「見世物小屋に売られそうになっていたところをご主人様(マスター)に拾われたんです」


「ご主人様(マスター)だって?」


「はい。クレイア様は私のマスターです」


「…あんたは店の歌姫じゃなく、クレイア本人の…その…」


 情婦なのか、と聞きたかったが、何となくその言葉に違和感を感じて口を閉じた。幼く清らかな姿のツィーリャには不似合いな言葉だ。

 ツィーリャはにっこりと笑った。


「マスターは優しい人です。こんな、姿形の醜い私なんかを拾ってくれて、お店で歌わせてもくれます」


 ツィーリャは自分の腕から生えている羽を眺めながら言う。彼女の言う“醜い”とは、人と違うという意味らしかった。異端は集団の中ではどうしても目立つ。羨望にしろ侮蔑にしろ、異質な存在として線引きをされてしまうのは、ツィーリャにとっては劣等感以外のなにものでもなかった。


「私、歌うのが好きなんです」


 歌を歌っている時だけは人はツィーリャの声に耳を傾けてくれる。そしてそれを昔から褒めてくれたのはクレイアだった。だから彼女にとってクレイアは特別だ。自分を肯定してくれたクレイアこそが彼女の世界の全てだった。


「……あんたは醜くなんかない」


 ギデオンが思わず落とした言葉にツィーリャは目を丸くした。


「…俺は、あの店であんたの姿を見て…その…綺麗だと思った………声と同じくらい」


 言葉が滑らかに出て来ない己の物慣れなさにギデオンは顔が熱くなった。ただでさえ言い慣れない言葉を口にして、つっかえる度に羞恥は増して頬の赤みもそれに比例して熱さえ持ち始める。それを隠そうとすると自然と視線は俯いた。

 これがレイノルなら、もっと女が喜ぶように、美辞麗句の限りを尽くしていかにツィーリャが美しいかを語るのだろうが、生憎自分にはこれが精いっぱいだ。常より極力人と関わらないようにしていると肝心なところでしくじるのだ、とギデオンは恥じ入っていた。

 拙い褒め言葉を言い終えた後、何も言わないツィーリャに恐る恐る目を向けてみると、彼女の頬もギデオンに負けないくらいに色付いていた。


「あ、ありがとうございます…そんなことを言っていただいたのは初めてで……嬉しいです」


「…いや…別に……」


 ふたりはそれきり黙って顔を赤くしていた。

 少しの沈黙の後、澄んだ声でツィーリャが言葉を紡ぐ。


「あの、あなたのお名前は?」


「ん?ああ…ギデオンだ。ギデオン・ル・レイントリー」


「ギデオンさんですね」


「さん付けなんて鬱陶しい。ギデオンでいい」


「ふふ、ギデオン?」


 さも可笑しそうにツィーリャが笑うので、ギデオンは不思議に思って眉を上げた。


「ギデオンって変な人ですね」


 名前を呼び捨てろと言う貴族など普通でないのはツィーリャも知っている。ギデオンはそう言われるのをむしろ歓迎するとばかりににやりと笑った。


「知ってる」


 彼の言い様に、ツィーリャはまた笑った。細い三日月の夜の幻のようなひとときだった。お忍びの外歩きというのはそれだけでスリルがあって胸が弾むものだ。

 今夜出会ったギデオンという人は、ツィーリャが日頃触れ合う数少ない人の誰とも違う。彼女の身の回りにいる人間は、ツィーリャを丁重に扱ってはくれるが垣根を越えて歩み寄って来ようとしてはくれない。

 しかしギデオンは違った。黒髪と同じ色の黒い瞳は親しみよりも先に厳しさを感じさせる。正直に言うと、最初はその風貌が少し怖かった。しかし彼は、笑えばその笑みが皮肉気であっても愛嬌を覗かせる。

 ほんのひとときの間に、ギデオンのその表情はツィーリャの好きなもののひとつになってしまった。ギデオンがほんの少しでも笑むと、わくわくと胸が弾んだ。


(本当に変な人)


 夜の散歩で人に会ったのは初めてだった。いや、こんな人間に会ったのさえ初めてだった。


「ギデオン、私、今とても楽しい気分です」


「そうか」


 気の利いたことは何も言えない自分が何か出来たとは思わないが、ツィーリャが楽しいと言うなら良かったとギデオンは思う。


「何度かこうしてお屋敷を抜け出したことはありますが、今日ほど楽しいのは本当に初めて!」


 彼女は踊るようにその場でくるくる回る。金色の羽と黒のレースが翻る。それは社交界のどのパーティでも見られなかった心躍る奔放なダンスだ。ギデオンは思わずツィーリャの片手を取って彼女の頭上に差し上げた。目の前で婦人が踊っていればそれをエスコートするくらいの気遣いは彼にもあるのだ。

 ギデオンの腕の下を、ツィーリャが笑いながら独楽のようにくるくると回る。ダンスと言うには拙過ぎるが、今夜は楽しければそれでいい。形式も何も関係なく、踏みたいステップを踏んでただ跳ねればいいのだ。


「練習すれば、私も貴婦人みたいに踊れるようになるでしょうか?」


「馬鹿言え。あんなもの、踊れたってつまらんぞ。しゃなりしゃなりしてるのはあんたには無理なんじゃないか?」


「そうですね。私はこうして自由に踊っている方が好き!」


 楽しそうに笑い声を転がすツィーリャに両手を引かれ、ギデオンの身体は彼女の動きに翻弄されて傾いた。


「おい、俺は踊らないぞ!」


「もう踊ってます」


 宝石が転がる澄んだ声でツィーリャがまた笑った。ツィーリャが笑うと、ギデオンの心が滑らかになっていく気がする。耳に心地よいその声のせいだろうか。誰もがツィーリャの声に心を慰められるのかもしれない。だから常に人が囁き合うあの店で、彼女が歌う時だけは暗がりと沈黙に守られて時が止まっていたのだろう。囁くより息を吐くより、ツィーリャの声に耳を傾ける者ばかりなのだ、あの場には。その音にはそう思わせる魔法を感じさせた。


「なあ、あんたの声、歌ってる時も綺麗だが、笑ってる時の方が綺麗だな」


「そうですか?」


「ああ。あんたの声は明るくて幸せな歌がよく似合うと思う。…店で歌ってたような歌もいいけどな、ご本人にちょっとばかり色気が無さ過ぎる」


 にやりと意地の悪い笑みを向けると、ツィーリャは大袈裟に眉根を寄せて下から彼を睨みつけた。挑む相手の方が背が高いと、こういう時に迫力半減だ。内心、ツィーリャはそのことを少しだけ悔しく思った。悔し紛れにギデオンの胸を指で突いて、手を腰に当てる。


「ギデオンって失礼な人ですね!」


「それも知ってる」


 ギデオンが肩をそびやかして道化る。形ばかり怒って見せていたツィーリャはそれに吹き出し、ギデオンもつられて笑い声を上げた。

 くるくるくるくる。世界が踊る。その景色の転化も目まぐるしく。

 ツィーリャの心も今までにないほど楽しく弾んでいた。クレイアといる時の穏やかで守られて安らぐ気持ちとはまた違う。吸い込む空気が薫り高く、少し冷たくて、飲み込むと胸の奥ですっと溶ける。その夜の冷気が爽やかに心を駆け抜けるのだ。笑うと、目の前のギデオンもまた笑う。心に花が咲いたように明るく、温かい空気が灯る。今のこの気持ちを歌えば、きっと誰もが明るく楽しくなれるはずだ。しっかり覚えておこう。

 くるくるくるくる。星も三日月も天球で踊るこの楽しい夜を。



 小さな舞踏会は、広場に三人の男が駆け込んでくる足音で突如終わりを迎えた。


「ツィーリャ様!お探ししましたよ!」


 言われると、先程までの温かさが嘘のようにツィーリャの表情が陰る。


「あ…ごめんなさい…。その…道に迷ってしまって、こちらの方に道を教えていただいていたんです」


 男の一人は納得がいっていないようでギデオンを睨んでいたが、彼はその視線を無視した。無愛想な顔立ちはこういう時に役に立つ。無言が壁になって、他人が近寄り難い空気を瞬時に醸し出すことが出来るのだ。今回も同様に、男はギデオンへの詮索をあっさり諦めた。


「…ツィーリャ様、勝手に抜け出されては困ります。クレイア様も心配しておられますよ」


「ごめんなさい」


「さあ、お屋敷に帰りましょう」


 男の一人に背を押されて歩き出す前に、ツィーリャはかすかに振り返ってギデオンを見た。


「…それでは。ありがとう、親切な方」


 ツィーリャは弱々しく微笑んだ。男たちに囲まれてクレイアの屋敷の方へ連れられて行くツィーリャはまさに籠の中の鳥のようだった。ギデオンは思わずその背中に声をかける。


「店に行くよ!あんたの歌を聴きに!」


 振り返ったツィーリャは泣き笑いのような表情を浮かべた。

 別れの笑顔のはずなのに、なぜかそれは呼びかけのような気がした。





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