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今日もダメだった吾輩

掲載日:2026/10/04

 吾輩はツバメである。名はまだない。

 ないが、妻からはだいたい「あなた」と、少し機嫌の悪い時は「ちょっと」と呼ばれている。


 春である。巣の季節である。

 つまり吾輩にとっては、胃の縮む季節である。


 なにしろ妻は巣の査定に厳しい。


 今朝も吾輩は、見つけたばかりの物件へ妻を案内していた。人通りは多い。軒も深い。壁もざらついていて泥が乗りそうだ。近くには水たまりもある。完璧だ。今度こそいける。吾輩は飛びながら、胸のあたりをふくらませていた。


「どうだい」


 妻は何も言わず、軒下へふわりと降りた。首をかしげ、左右を見て、下を見て、上を見た。


「周囲は」


「いい感じだろう。人も多いし、猫もそう簡単には来られない」


「外敵は」


 その問いに、吾輩は一瞬だけ黙った。


「……いた」


「何が」


「カラスが、まあ、少し」


「少しって何羽」


「十羽くらい」


 妻がゆっくりこちらを向いた。


「だめだろ~~!?」


 春の空に響き渡る一声であった。

 通りすがりの人間の子どもが、びくっと肩を震わせたほどである。


「十羽は多いかなと思ったんだ。でも軒はよかったんだ。軒は」


「軒が良くても、巣ごと朝食にされたら意味がないでしょう。あなた、前から思ってたけど、物件の表面しか見てないのよ」


 ぐうの音も出ない。

 吾輩はしょんぼり羽をたたんだ。


 だが、妻はただ怒るだけではない。そこが救いであり、逃げ場のなさでもある。


「いい。最低限の条件を言うわ。まず、人の出入りがあること。静かすぎる場所はだめ。カラスも猫も寄りやすいから」

「うん」

「雨が吹き込みにくいこと。泥が落ちたら最初からやり直しよ」

「うん」

「泥場が遠すぎないこと。毎回遠くまで運ぶのは非効率だわ」

「うん」

「それと、虫の通り道が近いこと。育て始めたら、餌が遠い巣は地獄よ」


 妻はそこまで言って、少しだけ息をついた。


「……仕方ないわね。次を見に行くわよ」


 その「仕方ない」は、見捨てていない証拠である。

 吾輩はその一言だけで、なんとか翼を持ち直した。


 だが、その日から吾輩の受難は続いた。


 二件目。軒は立派、だが泥場が遠い。却下。

 三件目。泥場は近い、だが人通りが少なく猫の足跡が見える。却下。

 四件目。虫は多い、だが夕方になると西日がまともに差し込む。却下。

 五件目。これはいけると思ったら、梁の上にスズメがふんぞり返っていた。却下。


 六件目で吾輩は学んだ。

 七件目で少し賢くなった。

 八件目を過ぎるころには、吾輩は飛びながら自然と周囲を見るようになっていた。


 あそこの細い路地は、猫が身を隠しやすい。

 この店先は朝から人が動くから、カラスが近づきにくい。

 あの川べりは泥は豊富だが、帰り道の上空を猛禽が切る。

 あの建物の壁はつるつるしていて、そもそも泥が乗らない。


 十件目で妻は言った。


「ようやく、少しは見るようになったじゃない」


 誉められたのか、これ。

 たぶん誉められたのだろう。吾輩はその晩、ひとりでそっと嬉しかった。


 そして飛び回ること十数回。

 ついに、吾輩は見つけた。


 古びた商店の軒先だった。表は人通りがあり、けれど巣をかける場所は少し奥まっている。近くに小さな水たまりがあり、少し飛べば川沿いへ出られる。虫も流れる。何より、上からの見通しがよすぎず悪すぎず、外敵の気配を早く拾える。


 吾輩はもう浮かれなかった。

 ただ、静かに妻を呼んだ。


 妻はいつものように、下を見て、上を見て、横を見た。

 長い。とても長い。

 やがて妻は、小さく言った。


「……ここなら、まあいいわ」


 その瞬間、吾輩の胸の奥で何かが弾けた。

 勝った。

 いや、勝敗ではないのだろうが、勝ったとしか思えなかった。


 その日から、巣作りが始まった。


 泥を運ぶ。貼る。押す。休む。

 また泥を運ぶ。貼る。押す。少し直す。

 妻は仕事が速く、しかも雑に見えて正確だった。吾輩が少し斜めにつけた泥も、無言で嘴の先で整えてしまう。ぐうの音も出ないが、見ていて惚れ惚れした。


 やがて巣は形になった。

 土の匂いがして、日陰はほどよく涼しく、ここがもう自分たちの場所なのだとわかった。


 そのころになると、吾輩は餌を取りに飛ぶたびに、周囲の道筋を確かめるようになっていた。


「そっちじゃない」


 ある夕方、巣から飛び立とうとした妻に吾輩は声をかけた。


「何よ」


「正面の空路は見通しがいいけど、その分ちょっと目立つ。今はカラスが二羽、向こうの電線にいる。左の看板の下を回ったほうがいい」


 妻がぴたりと止まった。


「……見えてるの」


「見えてる。あと、裏の細い通路は朝ならいいけど、夕方はだめだ。猫がよくいる。昨日も一匹、樽の陰にいた」


 妻はしばらく黙っていたが、やがて小さく羽をすくめた。


「へえ」


 その「へえ」は、かなり高評価である。

 吾輩は知っている。


 次の日も、その次の日も、吾輩の情報は役に立った。

 人通りが増える時間。猫の巡回路。カラスがよく止まる電線。風が強い日の抜け道。十数回も物件を蹴られながら飛び回った経験は、いつのまにかこのあたりの地図として、吾輩の体に刻まれていたのだった。


 ある日、妻は餌をくわえたまま言った。


「あなた、候補地選びは壊滅的だったけど」

「ひどいな」

「空路の見立てだけは、わりと役に立つのね」


 わりと。

 だが、その「わりと」は、妻の口から出る言葉の中ではかなり上等な部類に入る。


 吾輩は何でもないふりをしながら、胸を張った。


「任せたまえ」


「調子に乗らないで」


「はい」


 春の光の中、妻は巣の縁に降り立った。

 その顔は相変わらず少し厳しくて、それでも前よりほんの少しだけ柔らかかった。


 見上げれば軒は深い。

 足元には泥の椀。

 近くには人の気配と、遠くには川の匂い。

 ここならいける。ここでなら、生きていける。


 吾輩は巣の縁にとまり、胸をいっぱいにふくらませた。


 ついに見つけた、安住の地である。

 飛び回り、叱られ、詰められ、カラス十羽を「少し」と申告して怒鳴られ、それでも諦めずにたどり着いたのである。


 吾輩はやり遂げた。

 たぶん、かなりやり遂げた。

 少なくとも今日のところは、もうダメではない吾輩であった。

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― 新着の感想 ―
人の夫婦を見ているようでほのぼのでございました。(*^ω^*) ツバメのダンナ様頑張っていますよね。健気で、ちょっと調子に乗ってしまうところがまた可愛かったです。(*´ω`*) 奥様のお返事が、本当…
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