今日もダメだった吾輩
吾輩はツバメである。名はまだない。
ないが、妻からはだいたい「あなた」と、少し機嫌の悪い時は「ちょっと」と呼ばれている。
春である。巣の季節である。
つまり吾輩にとっては、胃の縮む季節である。
なにしろ妻は巣の査定に厳しい。
今朝も吾輩は、見つけたばかりの物件へ妻を案内していた。人通りは多い。軒も深い。壁もざらついていて泥が乗りそうだ。近くには水たまりもある。完璧だ。今度こそいける。吾輩は飛びながら、胸のあたりをふくらませていた。
「どうだい」
妻は何も言わず、軒下へふわりと降りた。首をかしげ、左右を見て、下を見て、上を見た。
「周囲は」
「いい感じだろう。人も多いし、猫もそう簡単には来られない」
「外敵は」
その問いに、吾輩は一瞬だけ黙った。
「……いた」
「何が」
「カラスが、まあ、少し」
「少しって何羽」
「十羽くらい」
妻がゆっくりこちらを向いた。
「だめだろ~~!?」
春の空に響き渡る一声であった。
通りすがりの人間の子どもが、びくっと肩を震わせたほどである。
「十羽は多いかなと思ったんだ。でも軒はよかったんだ。軒は」
「軒が良くても、巣ごと朝食にされたら意味がないでしょう。あなた、前から思ってたけど、物件の表面しか見てないのよ」
ぐうの音も出ない。
吾輩はしょんぼり羽をたたんだ。
だが、妻はただ怒るだけではない。そこが救いであり、逃げ場のなさでもある。
「いい。最低限の条件を言うわ。まず、人の出入りがあること。静かすぎる場所はだめ。カラスも猫も寄りやすいから」
「うん」
「雨が吹き込みにくいこと。泥が落ちたら最初からやり直しよ」
「うん」
「泥場が遠すぎないこと。毎回遠くまで運ぶのは非効率だわ」
「うん」
「それと、虫の通り道が近いこと。育て始めたら、餌が遠い巣は地獄よ」
妻はそこまで言って、少しだけ息をついた。
「……仕方ないわね。次を見に行くわよ」
その「仕方ない」は、見捨てていない証拠である。
吾輩はその一言だけで、なんとか翼を持ち直した。
だが、その日から吾輩の受難は続いた。
二件目。軒は立派、だが泥場が遠い。却下。
三件目。泥場は近い、だが人通りが少なく猫の足跡が見える。却下。
四件目。虫は多い、だが夕方になると西日がまともに差し込む。却下。
五件目。これはいけると思ったら、梁の上にスズメがふんぞり返っていた。却下。
六件目で吾輩は学んだ。
七件目で少し賢くなった。
八件目を過ぎるころには、吾輩は飛びながら自然と周囲を見るようになっていた。
あそこの細い路地は、猫が身を隠しやすい。
この店先は朝から人が動くから、カラスが近づきにくい。
あの川べりは泥は豊富だが、帰り道の上空を猛禽が切る。
あの建物の壁はつるつるしていて、そもそも泥が乗らない。
十件目で妻は言った。
「ようやく、少しは見るようになったじゃない」
誉められたのか、これ。
たぶん誉められたのだろう。吾輩はその晩、ひとりでそっと嬉しかった。
そして飛び回ること十数回。
ついに、吾輩は見つけた。
古びた商店の軒先だった。表は人通りがあり、けれど巣をかける場所は少し奥まっている。近くに小さな水たまりがあり、少し飛べば川沿いへ出られる。虫も流れる。何より、上からの見通しがよすぎず悪すぎず、外敵の気配を早く拾える。
吾輩はもう浮かれなかった。
ただ、静かに妻を呼んだ。
妻はいつものように、下を見て、上を見て、横を見た。
長い。とても長い。
やがて妻は、小さく言った。
「……ここなら、まあいいわ」
その瞬間、吾輩の胸の奥で何かが弾けた。
勝った。
いや、勝敗ではないのだろうが、勝ったとしか思えなかった。
その日から、巣作りが始まった。
泥を運ぶ。貼る。押す。休む。
また泥を運ぶ。貼る。押す。少し直す。
妻は仕事が速く、しかも雑に見えて正確だった。吾輩が少し斜めにつけた泥も、無言で嘴の先で整えてしまう。ぐうの音も出ないが、見ていて惚れ惚れした。
やがて巣は形になった。
土の匂いがして、日陰はほどよく涼しく、ここがもう自分たちの場所なのだとわかった。
そのころになると、吾輩は餌を取りに飛ぶたびに、周囲の道筋を確かめるようになっていた。
「そっちじゃない」
ある夕方、巣から飛び立とうとした妻に吾輩は声をかけた。
「何よ」
「正面の空路は見通しがいいけど、その分ちょっと目立つ。今はカラスが二羽、向こうの電線にいる。左の看板の下を回ったほうがいい」
妻がぴたりと止まった。
「……見えてるの」
「見えてる。あと、裏の細い通路は朝ならいいけど、夕方はだめだ。猫がよくいる。昨日も一匹、樽の陰にいた」
妻はしばらく黙っていたが、やがて小さく羽をすくめた。
「へえ」
その「へえ」は、かなり高評価である。
吾輩は知っている。
次の日も、その次の日も、吾輩の情報は役に立った。
人通りが増える時間。猫の巡回路。カラスがよく止まる電線。風が強い日の抜け道。十数回も物件を蹴られながら飛び回った経験は、いつのまにかこのあたりの地図として、吾輩の体に刻まれていたのだった。
ある日、妻は餌をくわえたまま言った。
「あなた、候補地選びは壊滅的だったけど」
「ひどいな」
「空路の見立てだけは、わりと役に立つのね」
わりと。
だが、その「わりと」は、妻の口から出る言葉の中ではかなり上等な部類に入る。
吾輩は何でもないふりをしながら、胸を張った。
「任せたまえ」
「調子に乗らないで」
「はい」
春の光の中、妻は巣の縁に降り立った。
その顔は相変わらず少し厳しくて、それでも前よりほんの少しだけ柔らかかった。
見上げれば軒は深い。
足元には泥の椀。
近くには人の気配と、遠くには川の匂い。
ここならいける。ここでなら、生きていける。
吾輩は巣の縁にとまり、胸をいっぱいにふくらませた。
ついに見つけた、安住の地である。
飛び回り、叱られ、詰められ、カラス十羽を「少し」と申告して怒鳴られ、それでも諦めずにたどり着いたのである。
吾輩はやり遂げた。
たぶん、かなりやり遂げた。
少なくとも今日のところは、もうダメではない吾輩であった。




