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婚約破棄されたい令嬢ですが、婚約者も婚約破棄したがっているなんて知りません

作者: 百香スフレ
掲載日:2026/07/11

 公爵令嬢レティシア・フォン・クラウゼンには、人生で最も大切なものがある。


 それは恋でも、社交でも、宝石でもない。————魔術研究である。


 新しい術式を発見した瞬間の震え。

 古代魔法陣の欠落部分がぴたりと埋まったときの快感。

 徹夜明け、机に突っ伏しながらも「あと一式だけ」と羽根ペンを握る幸福。


 それこそが、レティシアの人生だった。


 だから彼女は、結婚したくなかった。

 特に、王族になど嫁ぎたくなかった。


 王家の婚約者。第二王子妃。⋯⋯聞こえは良い。

 だがその実態は、式典、茶会、挨拶、公務、慈善活動エトセトラ⋯⋯。

 そんなものに時間を奪われたら、魔術研究ができなくなる。それだけは絶対に嫌だった。


 しかし、彼女の婚約者は王国第二王子アルヴィン。

 王家と公爵家が結んだ正式な婚約である。


 絶対に結婚などしたくないが、こちらから破棄など申し出れば、公爵家の評判に傷がつく。

 父にも母にも迷惑がかかる。


 ならばどうするか。

 答えは一つ。


 ——殿下から婚約破棄していただく。


 レティシアは決意した。


 嫌われよう。


 完璧に、華麗に、誰が見ても「これは王子が婚約破棄しても仕方ない」と納得するほどに。


 こうして、彼女の作戦は始まった。


 一方その頃。


 第二王子アルヴィン・レオ・エルディアにも、人生で最も大切なものがあった。


 それは王位でも、権力でも、名声でもない。————音楽である。


 朝の静けさに旋律を拾い、夜の月明かりに和音を重ねる。

 竪琴の弦に指を置いた瞬間だけ、彼は王子ではなく、ただの一人の音楽家になれた。


 だから彼もまた、結婚したくなかった。

 特に、公爵令嬢となど結婚したくなかった。


 レティシア・フォン・クラウゼン。

 王国随一の才女であり、完璧な淑女。あらゆる貴族教育も完璧。家柄も申し分ない。

 そんな完璧な女性と結婚したら、周囲は当然のように言うだろう。


「アルヴィン殿下も、そろそろ音楽など控えて政務を」


 冗談ではない。

 音楽は「など」ではない。命である。


 しかし、こちらから婚約破棄を申し出れば、王家が公爵家を軽んじたことになる。

 政治的にも社交的にも面倒だ。


 ならばどうするか。

 答えは一つ。


 ——レティシア嬢から婚約破棄してもらう。


 アルヴィンは決意した。


 嫌われよう。


 徹底的に、鮮やかに、彼女が「この方とは結婚できません」と言い出すほどに。


 ただし二人は、お互いが同じことを考えているとは知らなかった。


 これは、婚約破棄されたい男女が、互いに嫌われようと奮闘する頭脳戦の物語である。







 とある日、第一戦目。


 レティシアは、婚約者との茶会に白衣で現れた。


 王宮の薔薇園。

 貴族令嬢ならば、季節のドレスに宝石を合わせ、香水を一滴まとって来る場である。


 だがレティシアは違った。


 魔術院の白衣、簡単に束ねただけの髪。手袋には魔石粉。袖には小さな焦げ跡。

 淑女としては、かなり危うい。いや、余裕でアウトだ。


 レティシアは内心で微笑んだ。

 ——完璧だ。

 これで殿下は思うはずだ。公爵令嬢なのに研究狂いすぎる。王子妃には不向きだ。婚約破棄しよう、と。


「レティシア嬢」


 アルヴィンが立ち上がった。


 銀髪に青い瞳。相変わらず、腹立たしいほど美しい。

 彼はレティシアの姿を見て、静かに目を見開いた。


 来た!幻滅の瞬間————!

 勝利の鐘が鳴る——筈だった。


「素晴らしい」

「⋯⋯はい?」

「その白衣、よく似合っている。知性と情熱を感じる」


 レティシアは固まった。


「焦げ跡もいい。努力の証だね」

「焦げ跡が、いい?」

「うん。僕は好きだ」


 失敗した。

 一方、アルヴィンも同じ茶会で作戦を実行していた。


 彼は机の上に、山ほどの楽譜を置いた。そして告げる。


「今日は君に、僕の新曲を七曲ほど聴いてもらいたい」


 普通の令嬢なら、王子の演奏には喜ぶ。


 だが七曲。しかもすべて未完成。

 途中で止まり、やり直し、また止まる。


 これを延々と聴かされれば、いかに完璧な淑女でもうんざりするはず。


 アルヴィンは内心で頷いた。


 これで彼女は思うだろう。この方は音楽ばかりで面倒だ。結婚など無理、と。


「では、一曲目を」


 竪琴の音が庭園に響く。それを、レティシアは静かに聴いた。


 そして、二曲目、三曲目、四曲目。


 アルヴィンは何度も弾き直した。

 それでもレティシアは逃げなかった。


 そして七曲目が終わったとき、彼女はぽつりと言った。


「三曲目の第二旋律ですが」

「うん?」

「あれは一曲目の主題を変形させたものですか?」


 アルヴィンは驚いた。


「わかるのかい?」

「魔術式の展開に似ていましたので。基礎式を変形して別効果を生むときの構造に近いです」

「⋯⋯なるほど」

「ただ、五曲目の中盤は少し不安定です。音が喧嘩しています」

「⋯⋯驚いた。僕もそこに悩んでいたんだ」

「魔術なら、補助式を一つ挟みます」


 レティシアは紙にさらさらと図を書く。

 アルヴィンは覗き込んだ。


「それを音にすると⋯⋯こうかな」


 アルヴィンが竪琴を弾くと、美しい和音が鳴った。

 レティシアの目が輝く。


「今のです!」

「だよね!良かったよね?」

「はい。見事に安定しました」

「ありがとう!」

「いえ⋯⋯⋯⋯」

「⋯⋯⋯⋯」

「⋯⋯⋯⋯」


 二人はしばし沈黙した。


 お互い、同時に思った。

 ————なぜ盛り上がっているのだろう。







 別の日、第二戦目。


 レティシアは、あえて王子に嫌われるため、今日の茶会では魔術の話しかしないことにした。こんな喋ることやること魔術ばかりのトンチキ女、嫌に決まっているだろう。


「殿下、昨夜ついに古代ルナリア式の欠落構文を三十七箇所復元しました」

「それはすごいね」

「三十七箇所です」

「うん」

「⋯⋯⋯⋯普通、引きませんか?」

「なぜ?」

「三日寝ていません」

「それは引くというより心配してしまうな」


 アルヴィンは眉を下げた。


「ちゃんと眠っているのかい?」


 違う。そうではない。

 心配されたいのではない。嫌われたいのだ。


 レティシアはさらに畳みかけた。


「ちなみに、眠気覚ましに失敗して実験室の天井を燃やしました」

「怪我は?」

「ありません」

「ならよかった」

「⋯⋯よくありません。天井を燃やしたのですよ?」

「情熱的だね」

「情熱的で済ませないでください⋯⋯」


 なぜか好意的に解釈される。

 今日も失敗だ。レティシアは奥歯を噛んだ。







 第三戦目。


 アルヴィンは、あえて王子らしくない姿を見せることにした。


 彼はレティシアを王宮の一室に招いた。


 そこは美しい応接間————ではなかった。

 床には楽譜、椅子にも楽譜、机にも楽譜。紅茶を置く場所すらない。


 アルヴィンは思った。

 ——これで完璧だ。整った生活を好む公爵令嬢なら、必ず嫌がる。こんな楽譜まみれで散らかった部屋、さぞ幻滅するだろう、と。


「すまない、片づける時間がなくて」


 もちろん嘘である。

 わざと散らかした。昨日の夜、メイドが片づけようとするのを涙目で止めた。


 レティシアは部屋を見渡すと、静かに呟く。


「⋯⋯なるほど」


 ——来た!軽蔑か、失望か。どちらにせよ、この婚約関係は終わりだ!


「この散らかり方には規則性がありますね」

「え?」

「右側が完成曲、左側が未完成曲。椅子の上は保留。床に落ちているものは没案に見せかけて、実は未練がある曲」


 アルヴィンは絶句した。


「なぜわかったの?」

「私の研究室と同じです」

「同じなのかい?」

「はい。私の床も、だいたい思考の地図です」


 アルヴィンは胸を押さえた。


 少し感動してしまった。

 いけない。嫌われる作戦だったはずだ。


 しかし、同志を見つけた喜びを、噛み締めないことができないアルヴィンであった。







 第四戦目。


 レティシアは、王宮舞踏会で決定打を放つことにした。


 ダンスを断る————。

 婚約者からのダンスを断るなど、かなりの無礼である。


 これなら殿下も怒るはず。

 舞踏会の夜。アルヴィンがレティシアに手を差し出した。


「レティシア嬢。一曲、踊ってくれるかな」


 レティシアは予定通り、申し訳なさそうに微笑んだ。


「申し訳ございません、殿下。私、今夜は踊れません」

「体調が悪いのかい?」

「いえ」


 レティシアは堂々と言った。


「新しい術式を思いついてしまったので、今すぐ帰って書き留めたいのです」


 周囲の令嬢たちがざわめいた。


 完璧だ————。これぞ研究狂い。

 婚約者より魔術を優先する女。最早ここまでやると既に公爵家に迷惑がかかっている気もするが、婚約破棄をするよりはマシだ。


 さあ、怒ってください。

 婚約破棄してください。


 だがアルヴィンは、驚くほど真剣な顔になった。


「それは大変だ」

「⋯⋯はい?」

「発想は逃げる。すぐに書いたほうがいい」

「え、ええ」

「馬車を用意させよう。紙とインクはある?」

「あります」

「足りなければ僕の楽譜用紙を持っていくといい」


 ざわめきが、今度は別の色に変わった。


「まあ⋯⋯殿下はなんてお優しいの⋯⋯」

「レティシア様の才能を尊重していらっしゃるのね」

「理想の婚約者ですわ」


 違う。なにもかも違う。


 レティシアは帰りの馬車で頭を抱えた。抱えながら、足りない用に渡された楽譜用紙をなんとなく眺めていた。







 第五戦目。


 アルヴィンは、レティシアを怒らせるため、彼女の研究発表会に大量の花を贈った。


 華美な贈り物。研究の場には不釣り合いだ。

 しかも花束の中には、小さな音符型の飾りを忍ばせた。


 真面目な彼女なら、きっと言うだろう。

 研究発表を飾り物のように扱わないでください、と。


 だがレティシアは花束を見て、目を細めた。


「殿下」

「うん」

「この花の配置⋯⋯もしかして、音階になっていますか?」


 アルヴィンは固まった。


「⋯⋯気づいたのかい?」

「ええ。赤薔薇がド、白百合がミ、青い小花がソ。三和音ですね」

「ただの嫌がらせ⋯⋯いや、装飾のつもりだったんだけど」

「面白いです」

「面白い?」

「花の色彩と音階を対応させ、さらに魔力属性と結びつければ、新しい儀式魔術に応用できるかもしれません」


 彼女は花束を抱えたまま、研究室へ走っていった。


 後日、その研究は王立魔術院で高く評価された。

 論文の謝辞にはこう書かれていた。


『着想のきっかけをくださったアルヴィン殿下に感謝を』


 アルヴィンは頭を抱えた。


 なぜだ。なぜ嫌われない。

 それどころか評価が上がっている。いよいよどうすれば良いのか全く分からなくなってきた。







 第六戦目。


 レティシアは、社交界で噂を流した。


「クラウゼン公爵令嬢は、婚礼衣装の刺繍に防御術式を入れようとしているらしい」

「初夜の寝室にも結界を張るつもりらしい」

「夫婦の寝室より、個人研究室を広くしたいらしい」


 すべて本心だった。

 これを聞いた王子が引かないはずがない。

 ————だがアルヴィンは、噂を聞いて少し考え込んだあと、側近に言った。


「寝室に防音魔術を組み込むことは可能かな」

「殿下?」

「作曲に集中できる」


 噂はさらに広がった。


「殿下はレティシア様の研究室に、ご自身の音楽室を隣接させるおつもりらしい」

「まあ、常にそばにいたいのね」

「なんて仲睦まじい」


 違う。断じて違う。

 レティシアは頭を抱えた。







 第七戦目。


 アルヴィンは、ついに禁じ手を使った。


 レティシアに、自作の恋歌を贈ったのである。


 もちろん本気ではない。だが、自作の恋歌を贈るなど、キザすぎて重すぎる。大抵の女性は引いてしまうだろう。そんな贈り物で引かせる作戦だった。


 題名は『君の瞳に沈む月』。

 我ながら恥ずかしい。——しかし、これならどんな令嬢でも困る。今回は自信満々だ。


 レティシアは楽譜を受け取り、沈黙した。

 長い沈黙だった。


 来た————!ついに嫌われたか。

 アルヴィンが勝利を確信していると、レティシアがバッと顔をあげる。


「殿下!!」

「うん」

「この曲————呪詛返しに使えます」

「⋯⋯⋯⋯はい?」

「旋律の反復構造が、悪意の循環を逆流させる形に近いのです。恋歌としてはよくわかりませんが、防御魔術としては非常に優秀です」

「恋歌としては?」

「よくわかりません」

「そ、そう⋯⋯」

「ですが研究素材としては素晴らしいです」


 アルヴィンは負けた。

 恋歌は魔術防壁になった。

 その防壁は後に、王都の外壁結界の改良に使われた。


 民は讃えた。


「殿下とレティシア様の愛が王都を守った!」


 二人は同時に叫びたかった。


 愛ではない。事故である。

 こうして、二人の嫌われ作戦はことごとく失敗した。


 それどころか、世間の評価は上がり続けた。


 レティシアは「王子の芸術を理解する知性の薔薇」。

 アルヴィンは「婚約者の才能を支える理想の王子」。


 社交界では、二人の結婚を待ち望む声が日に日に大きくなった。


 そしてついに、王妃から正式に告げられた。


「来春、あなたたちの婚礼を行いましょう」


 レティシアは青ざめた。

 アルヴィンも青ざめた。


 だが二人は、お互いの青ざめた顔を見て、別々の勘違いをした。


 レティシアは思った。


 殿下は私との結婚が楽しみすぎて緊張しているのね。⋯⋯申し訳ない。私は絶対に結婚したくない。


 アルヴィンは思った。


 レティシア嬢は王族に嫁ぐ覚悟で緊張しているんだ。⋯⋯申し訳ない。僕は絶対に結婚したくない。


 その夜。

 二人は同時に最後の作戦を決意した。


 婚約破棄を相手に決断させる、最大にして最後の一手。


 レティシアは、アルヴィンを王宮の研究室に呼んだ。


「殿下、大切なお話があります」

「実は僕も、君に話がある」


 二人は向かい合った。

 机の上には、魔術式と楽譜が積まれている。


 いつの間にか、二人の作業道具は同じ机に並ぶようになっていた。


 だが今日は決戦の日。

 レティシアは深く息を吸った。


「殿下、私は結婚後も、絶対に毎日十時間は研究させていただきます」


 アルヴィンは目を見開いた。


 来たか。彼は内心で頷いた。

 ならばこちらも。


「僕も、毎日十時間は音楽をする」


 レティシアは驚いた。

 負けじと続ける。


「公務は最小限にしたいです」

「僕もだ」


「夫婦の寝室とは別に、個人研究室が必要です」

「僕も個人音楽室が必要だ」


「夜中に実験することがあります」

「夜中に作曲することがある」


「爆発することもあります」

「音が爆発することもある」


「食事中に術式を考えます」

「僕は食事中に旋律を考える」


「会話がなくても怒りません」

「むしろ助かる」


「記念日を忘れるかもしれません」

「僕も忘れるかもしれない」


「贈り物は宝石より魔石がいいです」

「僕は宝剣より楽器がいい」


 二人は黙った。


 あれ⋯⋯おかしい。なぜか条件が噛み合っている。

 レティシアは恐る恐る言った。


「殿下⋯⋯もしかして、結婚したくないのですか?」


 アルヴィンも恐る恐る言った。


「君も⋯⋯結婚したくなかったの?」


 長い沈黙。

 ——そして二人は同時に叫んだ。


「もっと早く言ってください!」

「そちらこそ!」


 ついに、真実が明かされた。


 レティシアは魔術研究に生きたいから結婚したくなかった。

 アルヴィンは音楽に生きたいから結婚したくなかった。


 二人は互いに婚約破棄されたがっていた。


 そして半年以上、互いに嫌われようとしていた。


 白衣も、七曲演奏も、魔術語りも、散らかった楽譜部屋も、舞踏会からの逃亡も、恋歌も。全部、嫌われるためだった。


「最悪です」


 レティシアは額を押さえた。


「本当に最悪だ」


 アルヴィンも頭を抱えた。


「私たち、何をしていたのでしょう」

「お互いの好感度を上げ合っていた」

「上げるつもりはなかったのに」

「僕もだよ」


 二人はしばらく落ち込んだ。


 だが、レティシアはふと顔を上げた。


「⋯⋯待ってください」

「どうしたの?」

「私たち、結婚したくなかった理由は同じです」

「趣味の時間が減るからだね」

「はい。ですが、もし結婚相手が互いの趣味を完全に理解し、邪魔せず、むしろ支援できる相手なら?」


 アルヴィンが黙った。


 レティシアは続けた。


「私は殿下の音楽に口を出しません。むしろ魔術で音響設備を改良できます」

「僕は君の研究を邪魔しない。むしろ社交の場で君の研究価値を広められる」

「夫婦の会話が少なくても問題ない」

「同じ部屋で別々のことをしていても平気」

「記念日を忘れてもお互い様」

「贈り物も実用品で済む」

「寝室には防音と防爆の二重結界」

「最高では?」


 二人は顔を見合わせた。


 そう。相手が普通の貴族なら、結婚は地獄だった。


 だが、この相手なら。魔術狂いのレティシアと、音楽狂いのアルヴィンなら。

 むしろ、結婚したほうが趣味に生きられる。


 なぜなら二人は、互いの異常さを理解できる唯一の相手だったから。


「レティシア嬢」

「はい」

「⋯⋯⋯⋯結婚、する?」

「条件次第です」

「条件は?」

「————研究時間一日十時間保証。王宮内に専用研究棟。実験失敗時の修繕費は共同予算。夫婦行事は月二回まで」

「いいね。僕からも条件を。音楽時間一日十時間保証。専用音楽室。深夜作曲への苦情禁止。新曲発表時の感想は最低三行」

「感想三行は重いですね」

「君の論文感想二十枚より軽い」

「それは確かに」


 二人はその場で婚姻契約書を書き始めた。

 それは王国史上、最も色気のない婚姻契約書だった。


 第一条、互いの研究および創作活動を妨害しない。


 第二条、相手の集中時間に話しかけない。


 第三条、爆発および大音量については事前申告を努力義務とする。


 第四条、社交行事は交代制で出席してよい。


 第五条、互いの成果物には敬意を払う。


 第六条、困ったときは助ける。


 第七条、極力仲良くする。


「最後の条文、雑では?」

「大事だよ」

「まあ、大事ですね」


 こうして二人は、婚約破棄を目指した結果、結婚することになった。


 翌春。


 王都中が祝福する中、レティシアとアルヴィンの婚礼が行われた。

 参列者は皆、涙ぐんだ。


「互いを深く理解し合った理想のご夫婦ですわ」

「長い愛を育まれたのね」

「運命のお二人だわ」


 二人は微笑みながら、心の中で思った。


 違う。最初は本気で破談にしたかった。

 だが、もう訂正する必要もなかった。


 結婚後、二人は王宮の一角に新居を構えた。

 左側にはレティシアの研究棟、右側にはアルヴィンの音楽室。中央には、二人で紅茶を飲むための小さな居間。


 朝、レティシアは魔術式を書き、アルヴィンは旋律を書く。

 昼、二人は互いの成果を少しだけ見せ合う。

 夜、レティシアの実験が爆発し、アルヴィンの新曲が爆音で響く。


 使用人たちは最初こそ怯えたが、やがて慣れた。


「今日は奥様の爆発が小さめですね」

「殿下の曲も穏やかですわ」

「平和な日です」


 もちろん、二人の生活は普通の夫婦とは少し違った。


 甘い言葉は少なく、舞踏会も最低限。

 贈り物は宝石ではなく、魔石と弦。


 記念日の夕食では、二人とも途中で新しい発想を得て無言になった。


 だが、それでよかった。誰も怒らない。誰も寂しがらない。

 むしろ、相手が集中している姿を見ると安心した。


 ある夜。

 レティシアが研究室で術式を書いていると、隣の音楽室から新しい旋律が聞こえてきた。


 静かで、優しくて、少しだけ楽しげな曲。

 レティシアはペンを止めた。


「アルヴィン」


 隣室の扉が開く。


「どうしたの?」

「その曲、好きです」


 アルヴィンは目を丸くした。

 それから、嬉しそうに笑った。


「ありがとう。君のことを考えて作った」

「⋯⋯なら、呪詛返しには使えませんね」

「恋歌だからね」

「恋歌は難解です」

「いつか理解してくれればいいよ」


 レティシアは少し考えた。

 そして、自分の机から小さな魔石を取った。


「では、これを」

「これは?」

「あなたの曲に合わせて光る魔石です。試作品ですが」

「僕に?」

「はい」


 アルヴィンは大切そうに受け取った。


「最高の贈り物だ」

「宝石より実用的でしょう」

「うん。君らしい」


 彼は魔石を竪琴のそばに置いた。

 旋律に合わせて、淡い光が揺れる。


 レティシアはその光を見ながら思った。

 結婚は、研究の敵だと思っていた。だが、どうやら違ったらしい。——少なくとも、この人との結婚は。


 アルヴィンもまた、光る魔石を見ながら思った。

 結婚は、音楽の邪魔だと思っていた。だが、どうやら違ったらしい。——少なくとも、この人との結婚は。


 二人は互いに婚約破棄されたがっていた。

 互いに嫌われようとしていた。それなのに、最終的には結婚した。


 そして、なんやかんや幸せになった。

 王国の人々は後にこう語る。


 第二王子アルヴィンと公爵令嬢レティシアは、は互いの才能を認め合う理想の夫婦だった、と。


 ただし、本人たちだけは知っている。

 その始まりが、壮大な勘違いと、失敗だらけの嫌われ作戦だったことを。

 今日も王宮の一角では、魔術の爆発音と竪琴の旋律が響いている。


 そしてその中心で、二人は笑っている。

 恋かどうかは、まだ少し難しい。けれど幸せかと問われれば、答えは一つ。


 ——間違いなく、幸せである、と。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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また、毎週土曜日20時に異世界恋愛ジャンルの短編を投稿しています。

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【連載版】王宮結界樹の管理を解任されたので田舎で暮らします。私を追いかけてきたのは王子ではなく結界樹でした

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