義妹が「祝福のヴェールは私の方が似合います」と言うので、婚約者も花嫁の座も譲りました。ですが神殿の灯はともりませんでした
「その祝福のヴェールは、わたくしの方が似合いますわ」
王都大神殿の婚姻登録室で、義妹のコレットがそう言った。
ここは我が家、ヴァイス侯爵家の応接室ではない。
ジュリアン様の実家、レーヴェル侯爵家の客間でもない。
貴族婚姻の登録と祝福手続きを扱う、王都大神殿の正式な部屋だった。
壁際には、婚姻登録官が立っている。
その隣には、神殿の婚姻儀礼を預かる副神官が控えていた。
向かいの椅子には、私の婚約者であるジュリアン・レーヴェル様。
そしてその隣で、義妹は白いレースの手袋を胸元へ添え、まるで三日後の祭壇に立つのが自分で決まっているかのように微笑んでいた。
「お姉様は、結婚式を少し難しく考えすぎですわ」
コレットは言う。
「花嫁が白いヴェールをまとって、神殿の灯に照らされる。皆さまが見たいのは、そこでしょう?」
「結婚式は、見られるためだけのものではないわ」
「まあ」
義妹は小さく首を傾げた。
「でも、お姉様はいつもそうです。花嫁名の登録だとか、誓い糸だとか、婚姻申請書の写しだとか。せっかくの結婚式なのに、書類と決まりごとの話ばかり」
私は膝の上で指を重ねた。
その言葉を聞いて、ようやく分かった。
この子は本当に、祝福のヴェールをただの美しい花嫁衣装だと思っているのだ。
「コレット」
私は静かに名を呼んだ。
「祝福のヴェールは、誰でもまとえる飾りではないの」
「でも、わたくしの方が似合いますわ」
即答だった。
「お姉様は背筋が伸びすぎていて、少し冷たく見えますもの。花嫁として神殿の灯を受けるなら、もっと柔らかく、可愛らしく見える方がよろしいのではなくて?」
ジュリアン様が、そこで軽く咳払いをした。
私へ向ける目には、少しだけ気まずさがある。
けれど、コレットを止める気はない目だった。
「レティシア」
彼は私の名を呼ぶ。
「君が三か月、婚姻手続きを丁寧に進めてくれたことには感謝している」
「ありがとうございます」
「だが、結婚式は家同士の披露の場でもある。レーヴェル家としては、もう少し華やかで、人目を引く花嫁を立てたい」
人目を引く花嫁。
その言葉で、胸の奥が少し冷える。
結婚式は、花嫁を美しく見せるためだけの場ではない。
婚姻を成立させるための場だ。
神殿の前で名を読み上げ、誓約書に署名し、祝福の灯をともす。
それを経て初めて、二人は夫婦として王家婚姻登録院に記録される。
「つまり」
私は静かに訊いた。
「私との婚約を解消し、コレットを新たな花嫁候補として登録なさる、ということでしょうか」
「正式な婚姻式はまだ終えていない」
ジュリアン様は、少しだけ視線を逸らした。
「婚約解消は制度上可能だ」
「ええ。制度上は」
「そして三日後の結婚式も、コレットで進めたい」
婚姻登録官のペンが、一瞬だけ止まった。
副神官の表情も、わずかに硬くなる。
その反応を見て、私は少しだけ安心した。
少なくとも、この部屋には言葉の意味を分かっている人がいる。
「承知いたしました」
私がそう答えると、コレットの顔がぱっと明るくなった。
ジュリアン様も、少しだけ肩の力を抜く。
泣かれるか、怒られるか、少なくとももっと面倒な反応を予想していたのだろう。
けれど、ここで取り乱したところで、神殿登録の名は一字も変わらない。
「では、婚約者の座も、花嫁の座も、コレットへお譲りいたします」
「お姉様なら、分かってくださると思いましたわ」
「ただし、確認させてください」
私は続けた。
「花嫁を変更する場合、婚約解消届、新たな婚姻申請書、両家の署名、神殿での花嫁名登録、祝福ヴェールの再申請、誓い糸の縫い直しが必要です」
「大げさだな」
ジュリアン様が言った。
ああ、と思う。
やはり最初に出るのは、その言葉なのだ。
「結婚式まで、あと三日です」
私は穏やかに返した。
「大げさで済むうちに、確認しておいた方がよいかと」
「お姉様は、そういうところですわ」
コレットが可愛らしくため息をついた。
「結婚式は、愛と祝福の場でしょう? 名簿や申請書より、心が大切なのではなくて?」
「心を神殿と王家に記録するために、申請書があるのよ」
「まあ」
義妹は小さく笑った。
「まるで登録官の方みたい」
婚姻登録官の眉が、ほんのわずかに動いた。
私は見なかったことにした。
コレットは、自分の言葉がどこへ刺さったのか、まだ分かっていない。
「引き継ぎはいたします」
私は椅子の横に置いていた白い箱を、テーブルの上へ載せた。
中には、婚姻申請書の写し、神殿登録控え、誓い糸の説明書、祝福ヴェールの扱いに関する神殿規定、式当日の進行札が入っている。
青は婚姻申請。
白は祝福ヴェール。
赤は変更不可事項。
緑は式当日の進行。
金は王家婚姻登録院への提出控え。
三か月かけて、神殿と婚姻登録院と確認してきたものだった。
「祝福のヴェールは、神殿が登録済みの花嫁へ貸与するものです。私の名で登録されています。三日前の祈りで、私が誓い糸を一針入れました。これを別の花嫁が使うことはできません」
「でも、ヴェールはもうあるのでしょう?」
コレットが箱の中を覗き込む。
「それを使えばよろしいのではなくて?」
「使えません」
「お姉様とわたくしは、同じ家の娘ですわ」
「花嫁は家名ではなく、本人名で登録されます」
「堅苦しいこと」
義妹は不満げに唇を尖らせた。
「ヴェールに名前が縫いついているわけでもないでしょう?」
「縫いついています」
「え?」
「内側の白糸に、花嫁名と登録印があります。見えない場所に」
私は白い束を取り出した。
「祝福の灯は、その登録を確認してからともされます」
「灯なんて、神官の方がともすものでしょう?」
「神官が、ともしてよいと判断した時だけね」
「では、ともしていただけばいいだけですわ」
あまりにも簡単に言った。
私は少しだけ目を閉じた。
この子には、本当に見えていない。
神殿の灯がともるのは、燭台に火を移す人がいるからではない。
その火を移してよいだけの手続きと誓いが整っているからだ。
「分かりました」
私は白い箱をコレットの前へ押し出した。
「では、明日から婚姻式に関する確認は、すべてコレットへお願いいたします」
「待て」
ジュリアン様が、思わずというように声を上げた。
「すべて、とは」
「花嫁はコレットなのでしょう?」
「だが、君はこれまでの流れを知っている。式が終わるまでは、補佐として」
「私は花嫁ではなくなるのですよね」
私は静かに問い返した。
「花嫁ではない女が、花嫁の婚姻手続きだけを担うのは、神殿にも、王家婚姻登録院にも失礼です」
「それは……」
「もし私の協力が必要でしたら、神殿または婚姻登録院より、正式な補佐依頼をいただければお受けいたします」
副神官が、そこで初めて小さく頷いた。
そう。
必要なのは、そういう線引きだ。
婚約者だから当然やる。
姉だから助ける。
これまで進めてきたから最後まで続ける。
そんな曖昧な形で、婚姻式を動かしてよいはずがない。
「レティシア」
ジュリアン様の声が低くなる。
「君は私に恥をかかせたいのか」
「いいえ」
私は微笑んだ。
「今までずっと、あなたに恥をかかせないために動いてまいりました」
そこで一拍置く。
「その役目を、本日で終えるだけです」
ジュリアン様の顔から、ほんの少しだけ余裕が消えた。
コレットはそれに気づかず、白い箱の留め金を楽しそうに撫でている。
「大丈夫ですわ、ジュリアン様」
彼女は明るく言った。
「お姉様がなさっていたことくらい、わたくしにだってできます。結婚式で皆さまが見るのは、書類ではなく花嫁ですもの」
私は立ち上がった。
これ以上、この場で言うべきことはなかった。
「では、失礼いたします」
最後に一礼して、私は婚姻登録室を出た。
扉が閉まる直前、コレットの弾んだ声が聞こえた。
「祝福のヴェールの縁に、金の小花を足せないかしら。神殿の灯に映えますわ」
私は廊下で足を止めなかった。
祝福のヴェールの縁が白いままなのは、花嫁がまだ何も得ていないことを示すためだ。
金の小花は、祝福を受けた後の披露宴で髪へ挿す。
それを説明する役目も、もう私のものではなかった。
翌朝、王都大神殿から封書が届いた。
ヴァイス侯爵家の応接室で、私はそれを受け取った。
差出人は、王家婚姻登録院の監督官。
ラウゼン公爵アーネスト様だった。
若くして王家婚姻登録院の監督権限を預かる方で、貴族婚姻の不備には一切甘くないと聞いている。
封書の内容は、花嫁変更についての確認だった。
私の名で登録されている婚姻式を、レーヴェル家が三日後のまま、花嫁をコレットへ変更して進めたいと申請したらしい。
ただし、神殿側は登録不備として保留。
そのため、私本人へ準備関与の有無を確認するという文面だった。
私は短く返書を書いた。
ジュリアン・レーヴェル様との婚約解消、および花嫁変更の申し出について、神殿婚姻登録室立会いのもとで確認済み。
今後の婚姻式に関する確認は、新たに花嫁候補となられるコレット・ヴァイスへお願いいたします。
私レティシア・ヴァイスは、正式な依頼なき限り、当該婚姻式の準備に関与いたしません。
書き終えたあと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
神殿を困らせたかったわけではない。
式に招かれた方々を困らせたかったわけでもない。
けれど、ここで私が一つでも答えてしまえば、また同じことになる。
花嫁のヴェールは義妹がまとう。
祭壇に立つのも義妹。
けれど、神殿登録も、誓い糸も、婚姻申請書の確認も、見えない部分だけは私が整える。
そんな形は、もう終わりにしなければならない。
二日目には、神殿から父へ確認が届いた。
私は偶然、玄関広間でその報告を聞いた。
「コレット様が、本日の花嫁名登録の再祈祷を欠席されました」
「体調が悪かったのだろう」
父は困ったように言った。
「いえ」
神殿使いは表情を変えずに返した。
「祝福のヴェールに合わせる髪飾りを選ばれるため、とのことです」
「……そうか」
父の視線が、こちらへちらりと向く。
私は何も言わなかった。
父も何も言えなかった。
今さら私へ頼めば、花嫁変更の意味がなくなることくらいは分かっているのだろう。
その日の夕方、ジュリアン様から使いが来た。
手紙ではない。
伝言だった。
祝福のヴェールは、予定どおり使う。
神殿には式当日に説明する。
レティシアには、あまり事を荒立てないようにしてほしい。
私はその伝言を聞いて、しばらく黙った。
式当日に説明する。
神殿婚姻で、それほど危うい言葉はない。
説明は、式当日より前に済ませるものだ。
当日は、済ませた説明を形にするだけの日なのだから。
結婚式当日。
王都大神殿は、朝から白い花で飾られていた。
レーヴェル侯爵家の紋章。
ヴァイス侯爵家の紋章。
祭壇へ続く白い敷布。
灯をともすための銀の燭台。
すべてが、表向きには整っている。
だからこそ、足りないものが余計にはっきり見えた。
私は参列者席の端に立っていた。
花嫁ではない。
婚約者でもない。
ただし、神殿登録に私の名が残っているため、登録抹消の確認者として出席を求められていた。
選んだのは、灰青色の控えめなドレスだった。
白は、もう私の色ではない。
「レティシア・ヴァイス嬢」
低い声が、斜め後ろから届いた。
振り向くと、濃紺の礼装をまとった男性が立っている。
ラウゼン公爵アーネスト様。
王家婚姻登録院の監督官だった。
淡い金髪に、静かな緑の目。
年若いが、表情には妙な甘さがない。
「ラウゼン公爵閣下」
私は一礼した。
「今日は、ずいぶん端にいるのだな」
「花嫁ではございませんので」
「そうか」
公爵は祭壇へ視線を戻した。
「君の返書は読んだ」
「婚姻登録院宛てのものですか」
「神殿にも写しが回った」
「そうですか」
「明確でよかった」
アーネスト公爵は言った。
「曖昧にしていれば、今日の責任も君に寄っただろう」
「責任が寄るのは、困ります」
「だろうな」
短い返事だった。
慰めでも、同情でもない。
けれど、奇妙に楽だった。
この方は、私を花嫁の座を奪われた令嬢として見ているのではない。
どこまで線を引いた人間なのかを見ている。
「閣下は」
私は小さく訊いた。
「今日、祝福の灯がともると思われますか」
「登録次第だ」
「そうですね」
「そして、登録は甘くない」
その声は静かだった。
怒鳴るよりも、ずっと重い。
入場の鐘が鳴った。
ジュリアン様が祭壇の前へ立つ。
白い礼装。
胸にはレーヴェル家の銀章。
隣には、コレット。
彼女は祝福のヴェールをまとっていた。
私が三日前の祈りで、白い糸を一針入れたヴェール。
けれど縁には、金の小花が足されていた。
美しい。
確かに美しい。
でも、神殿の祝福ヴェールとしては違う。
「金を足したか」
アーネスト公爵が、ほとんど独り言のように言った。
「はい」
「どの程度まずい」
「意味を知らないと分かる程度には」
「なるほど」
公爵は短く言った。
「分かりやすくまずいな」
「はい」
分かりやすく、まずかった。
神殿長ヘレナ猊下が、祭壇の前へ進み出た。
銀髪の老女で、声は低く、よく通る。
彼女の前には、婚姻登録書と神殿灯が置かれている。
神殿灯は、婚姻の成立条件が整った時だけ、神殿長の手でともされる。
灯がともれば、誓約が神殿に認められたことになる。
灯がともらなければ、その婚姻は成立しない。
「これより、婚姻誓約を確認する」
神殿長の声が、礼拝堂に響く。
「花婿、ジュリアン・レーヴェル」
「はい」
「花嫁、レティシア・ヴァイス」
礼拝堂が、静まった。
コレットの顔が、一瞬だけこわばる。
ジュリアン様が慌てて口を開いた。
「猊下。花嫁はコレット・ヴァイスです」
「登録書には、レティシア・ヴァイスとあります」
「変更申請を」
「保留中です」
神殿長は静かに答えた。
「再祈祷が終わっていません。新たな婚姻申請書も、両家の署名が揃っていません。祝福ヴェールの再貸与も行われていません」
「ですが、同じヴァイス家の娘です」
「花嫁は家名ではなく、本人名で登録されます」
ジュリアン様の唇が止まる。
コレットは、ヴェールの端を握りしめた。
「でも、わたくしが花嫁ですわ」
「あなたは、今日の神殿登録上の花嫁ではありません」
「そんな」
「そして、そのヴェールはあなたのものではありません」
神殿長の視線が、コレットの頭上のヴェールへ向く。
金の小花が、神殿の光を受けてきらめく。
美しかった。
けれど、ただ美しいだけだった。
「祝福ヴェールの内側には、登録済みの花嫁名と誓い糸があります。これはレティシア・ヴァイスの登録ヴェールです」
「お姉様が譲ってくださったのです」
コレットが、私の方を見る。
礼拝堂中の視線が、こちらへ向く。
私は静かに首を振った。
「私は譲っていません」
「お姉様!」
「婚約者の座と花嫁の座は譲りました。でも、神殿登録済みの祝福ヴェールは譲れないと説明しました」
コレットの顔から血の気が引いていく。
ジュリアン様も、ようやく状況を理解し始めたようだった。
「レティシア」
彼は低い声で言う。
「こんな場で言わなくても」
「この場で使ったのは、あなた方です」
私は答えた。
「式当日に説明すると決めたのも」
彼は何も言えなかった。
神殿長ヘレナ猊下が、神殿灯の前に立つ。
銀の火皿には、まだ火が入っていない。
本来なら、ここで神殿長が灯をともす。
そして、花嫁と花婿は、その灯の前で誓いを述べる。
けれど、神殿長は火を取らなかった。
「この婚姻に、祝福の灯はともせません」
礼拝堂が、完全に沈黙した。
コレットが小さく息を呑む。
ジュリアン様の顔が白くなる。
参列者たちの間に、低いざわめきが広がった。
「待ってください」
ジュリアン様が一歩前へ出る。
「婚姻式を中止するということですか」
「中止ではありません」
神殿長は答えた。
「不成立です」
「不成立……」
「登録済みの花嫁名と祭壇に立つ人物が一致しません。祝福ヴェールも不正に使用されています。神殿として、灯をともすことはできません」
「でも、皆が見ているのに」
コレットの声が震える。
「結婚式なのに」
「だからこそです」
神殿長は言った。
「婚姻を飾りとして扱うなら、神殿は祝福しません」
その一言で、礼拝堂の空気が重くなる。
義妹は理解できない顔をしていた。
ジュリアン様も、どう動けばよいのか分からない顔をしている。
彼らは、神殿の灯がともることを前提にしていた。
ともらないという選択肢があることを、考えていなかったのだ。
「レティシア嬢」
アーネスト公爵が、私の名を呼んだ。
私はすぐに顔を上げる。
「はい」
「この場を、予定どおりの婚姻式として成立させる方法はあるか」
「ございません」
私は即答した。
公爵の目が少しだけ細まる。
「理由は」
「花嫁名登録、婚姻申請書、誓い糸、祝福ヴェール、両家署名が一致していません。特に、登録済みの祝福ヴェールを別の花嫁がまとっている以上、神殿灯をともせば、神殿が不正な婚姻を認めた形になります」
「では、終わらせる方法は」
「あります」
私は祭壇を見る。
泣きそうなコレット。
青ざめたジュリアン様。
困惑する参列者。
火のともらない神殿灯。
今なら、虚偽の婚姻としてより大きな問題になる前に止められる。
「婚姻式ではなく、不成立確認へ切り替えます」
「具体的には」
「神殿長猊下が、祝福の灯をともさない理由を参列者へ告げます。婚姻登録官は、本日の婚姻不成立を記録します。祝福ヴェールは神殿へ返却し、登録済みの私の名は抹消申請へ。コレットが花嫁になる場合は、新たな申請からやり直す必要があります」
「花婿は」
「祭壇を下りるべきです」
「コレット嬢は」
「ヴェールを外してください」
コレットの顔が歪む。
でも私は続けた。
「今のまままとい続ければ、祝福ヴェールの意味まで損なわれます」
「君は、それを進められるか」
「正式なご命令があれば」
私は答えた。
「今の私は参列者であり、登録抹消確認者です。命令なく動けば、また責任が曖昧になります」
「よい返答だ」
アーネスト公爵の口元が、ほんのわずかに動いた。
笑ったのかもしれない。
けれどすぐに、監督官の顔へ戻る。
「王家婚姻登録院監督官アーネスト・ラウゼンの名で命じる。レティシア・ヴァイスを、この場限りの婚姻不成立確認補佐として任じる。神殿登録官は彼女の確認を補助せよ」
「承知いたしました」
私は深く一礼した。
その瞬間、胸の奥にあった迷いが消えた。
正式な命令。
正式な役目。
ならば、動ける。
「婚姻登録官は、不成立確認書を出してください」
私は登録官へ言った。
「花嫁名登録不一致、祝福ヴェール不正使用、再祈祷未了、両家署名未提出。この四点を理由として記録します」
「承知しました」
「副神官は、ヴェール返却用の白箱を。コレットから外す時は、神殿側の手で。本人やレーヴェル家に持たせないでください」
「はい」
「参列者への説明は、神殿長猊下からお願いいたします。これは家同士の気まずさではなく、婚姻登録上の不成立です」
「承知しました」
人が動き始める。
礼拝堂の混乱が、少しずつ手続きの形へ戻っていく。
これは成功ではない。
結婚式は失敗した。
でも、失敗を婚姻成立に見せかけるよりは、ずっとましだった。
「コレット」
私は義妹へ向き直った。
彼女はヴェールを握りしめたまま、震えていた。
「そのヴェールを外して」
「嫌です」
「外して」
「これは、わたくしが」
「あなたのものではないわ」
義妹の目から涙がこぼれる。
「お姉様は、どうしていつも」
「コレット」
私は静かに言った。
「あなたが欲しかったのは、祝福される花嫁の姿だったのでしょう」
「だって」
「でも私は、その祝福がどうすれば成立するのかを見ていた」
コレットの唇が震える。
ジュリアン様は何も言わない。
言えないのだろう。
「それだけの違いよ」
私は続けた。
「そして、その違いで、神殿の灯はともらなくなるの」
コレットは泣いた。
けれど、もう誰もその涙で手続きを止めなかった。
副神官が進み出て、彼女の頭から祝福のヴェールを外す。
金の小花が、白い布の縁で小さく揺れた。
美しかった。
けれど、ただ美しいだけだった。
神殿長ヘレナ猊下が、参列者へ向き直った。
「本日の婚姻式は、神殿登録上の不備により成立しません」
礼拝堂に、その言葉が響く。
「祝福の灯は、ともりません」
銀の燭台は、最後まで暗いままだった。
式後、私は大神殿の側廊へ呼ばれた。
灰色の石壁に囲まれた通路は、礼拝堂のざわめきから少し離れている。
奥の部屋では、ジュリアン様とコレット、両家の当主、神殿長、婚姻登録官が事情を聴かれているらしい。
扉越しに、コレットの泣き声が少しだけ聞こえた。
「お姉様が、もっと優しく教えてくださればよかったのに」
そんな声が漏れた。
私は目を閉じた。
最後まで、それなのかと思う。
教えなかったのではない。
申請書も、登録控えも、神殿規定も、再祈祷の機会も、全部あった。
それを軽く見たのは、コレット自身だ。
「君は入らないのか」
アーネスト公爵が、いつの間にか隣に立っていた。
「入る理由がございません」
「義妹君は、君に責任を寄せたいようだ」
「でしょうね」
「怒らないのか」
「怒るより先に、ヴェールの金糸がどう外されるか気になります」
私がそう答えると、公爵は一度だけ瞬きをした。
そして、ほんのわずかに笑った。
「君らしい返答なのだろうな」
「私らしい、のでしょうか」
「今日の君を見た限りでは」
その言葉に、私は少しだけ肩の力を抜いた。
今日の私。
花嫁としてではなく。
姉としてでもなく。
ただ、婚姻を正しく終わらせるために動いた私。
その私を見たと言われるのは、不思議な気持ちだった。
奥の扉が開いた。
婚姻登録官が出てくる。
彼は私へ向けて、きちんと一礼した。
「レティシア・ヴァイス侯爵令嬢。今回の件について、王家婚姻登録院より確認いたします」
「はい」
「あなたが花嫁変更後の婚姻式準備に関与していないことは、神殿および婚姻登録院へ提出された返書で確認済みです。よって、本日の婚姻不成立について、あなたに責はありません」
「ありがとうございます」
責任がない。
その言葉を聞いて、胸の奥にあった硬いものが少しだけほどけた。
私はずっと、見えない手続きの成果だけを誰かに渡してきた。
けれど、失敗だけは自分に戻ってくるのではないかと、どこかで思っていたのだ。
「なお」
登録官は続ける。
「ジュリアン・レーヴェル様とコレット・ヴァイス様による婚姻申請は、虚偽登録未遂として審査保留となります。再申請は可能ですが、神殿長および婚姻登録院の特別確認が必要です」
「はい」
「祝福ヴェールの不正使用については、神殿規定違反として記録します。コレット様は、当面、神殿婚姻式における花嫁補助、親族代表、立会席への登録を認めません」
「承知いたしました」
話し合いで済むわけではない。
当然だった。
婚姻登録は、家同士の都合だけで書き換えられるものではない。
花嫁名を残したまま別の女性を祭壇へ立たせ、登録済みの祝福ヴェールを使った。
知らなかった、似合うと思った、美しく見せたかった。
それだけで済む話ではない。
登録官が去ると、側廊には私とアーネスト公爵だけが残った。
礼拝堂の方から、参列者が帰る音がかすかに聞こえる。
結婚式の鐘は鳴らなかった。
祝福の灯も、ともらなかった。
でも、不正な婚姻として記録されることだけは避けられた。
「レティシア・ヴァイス」
アーネスト公爵が、改めて私の名を呼んだ。
「はい」
「王家婚姻登録院で働く気はあるか」
「……婚姻登録院、ですか」
「婚姻申請、神殿登録、花嫁名確認、祝福品の貸与、両家署名の照合。名前は堅いが、人手が足りない」
私はすぐに返事ができなかった。
あまりにも唐突で。
けれど、あまりにも欲しかった言葉だったからだ。
「なぜ、私なのでしょう」
「今日の不成立確認への切り替えは、君が出した」
「閣下が採用なさっただけです」
「採用できる形で出したのが重要だ」
公爵は言う。
「君は、結婚式を無理に成立したことにはしなかった。失敗は失敗として残し、その上で、婚姻登録を汚さずに終わらせた」
「それは」
「それができる人間は多くない」
静かな声だった。
同情ではない。
慰めでもない。
能力を見たうえでの評価だった。
「君は花嫁として見られていた」
アーネスト公爵は続ける。
「だが、本来は祝福される側に立たされるだけの人間ではない」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
白いヴェールをまとうこと。
祭壇に立つこと。
神殿の灯に照らされること。
私はそれらを嫌っていたわけではない。
ただ、それだけで見られるのが苦しかった。
その下にある名、申請、誓い糸、署名、登録。
全部含めて見てほしかった。
「君は祝福を飾っていたのではない」
アーネスト公爵は言った。
「祝福が成立する場所を守っていた」
私は、すぐには返事ができなかった。
そんなふうに言われたのは、初めてだった。
「正式な役目でしょうか」
ようやく、私は訊いた。
「花嫁だったから手伝う、ではなく」
「正式な役目だ」
公爵は即答した。
「任期、権限、報酬を文書にする。君の家にも、神殿にも、婚姻登録院にも写しを出す」
「私を、花嫁の座を失った令嬢として保護するためではなく」
「違う」
また即答だった。
「必要だから呼ぶ」
「……ずいぶん率直でいらっしゃいますね」
「曖昧にすれば、君は受けないだろう」
「はい」
私は少しだけ笑った。
「受けません」
「なら、率直に言う」
公爵は、まっすぐ私を見た。
「王家婚姻登録院には、君のように見えない登録糸まで見る人間が必要だ」
その言葉は、どんな宝石よりも私を動かした。
「お返事は、明日の午前でもよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
「今日ではなく?」
「君は今日、ともらない神殿灯を見た。返事は一晩置いた方がいい」
「お気遣いですか」
「手続き上も、その方がよい」
その返しがあまりにも真面目で、私は少し笑ってしまった。
手続き。
そう言われる方が、私にはずっと分かりやすい。
側廊の向こうで、扉が開く音がした。
コレットが出てくる。
目元を赤くし、ヴェールを失った髪には、金の小花の髪飾りだけが残っている。
その隣には、青ざめたジュリアン様がいた。
「お姉様」
コレットが私を見つける。
「どうして」
また、その言葉だった。
「どうして、お姉様ばかり」
私は義妹を見た。
昔なら、胸が痛んだのだと思う。
今も、痛まないわけではない。
けれど、それはもう私が戻る理由にはならない。
「コレット」
私は静かに言った。
「あなたが欲しかったのは、祝福される花嫁の姿だったのでしょう」
「だって」
「でも私は、その祝福がどうすれば成立するのかを見ていた」
義妹の唇が震える。
ジュリアン様は、何も言わない。
言えないのだろう。
「それだけの違いよ」
私は続けた。
「そして、その違いで、灯はともらなくなるの」
コレットは顔を伏せた。
金の小花が、側廊の灯りを受けて光っている。
美しかった。
けれど、ただ美しいだけだった。
「レティシア」
ジュリアン様が、ようやく口を開いた。
「私は、君がそこまで見ていたとは知らなかった」
「そうでしょうね」
私は答えた。
「ご存じでしたら、花嫁変更をあのようには進めなかったでしょうから」
「……戻ってくれないか」
その声は、弱かった。
花婿らしくないほどに。
けれど、私の心は不思議なくらい動かなかった。
「戻る、とは」
「婚約者として。いや、せめて婚姻申請のやり直しだけでも」
「ジュリアン様」
私はまっすぐに彼を見る。
「あなたが今お望みなのは、私ではありません」
「何?」
「私が整えていた手続きです」
ジュリアン様の顔色が変わった。
でも私は止めなかった。
「私自身を必要となさったわけではない。神殿の灯がともらなかったから、ともすための手が必要になっただけです」
「そんなことは」
「ございます」
私ははっきりと言った。
「ですから、戻りません」
沈黙。
礼拝堂のざわめきも、少し遠くなった。
側廊には、ただ石の冷たさだけが残っている。
「私は、正式な役目のある場所へ参ります」
私はアーネスト公爵へ一礼した。
「お返事は、明日の午前に」
「待っている」
公爵は短く答えた。
その短さが、ひどくありがたかった。
翌朝、私は王家婚姻登録院へ返書を出した。
お受けいたします、と。
ただし、条件を三つ添えた。
役目と権限を文書にすること。
報酬を明記すること。
そして、私を誰かの花嫁の代わりとして扱わないこと。
昼前、返書が届いた。
アーネスト・ラウゼン公爵の署名入りだった。
条件を認める。
君は代わりではない。
祝福が正しく成立するために必要な人間として迎える。
私はその文を、しばらく見つめていた。
祝福のヴェールは、もう私のものではない。
ジュリアン様の隣も、もう私の場所ではない。
でも、胸の奥は不思議なくらい軽かった。
私は祝福を受けるためだけの人間ではなかった。
名を確認し、誓い糸を見て、署名を照らし、神殿灯をともしてよいかを整える。
そうして初めて、結婚式が結婚式になることを、私は知っている。
一月後。
王家婚姻登録院の確認室で、私は新しい婚姻申請書を広げていた。
花嫁名。
花婿名。
両家署名。
神殿登録印。
祝福品の貸与記録。
誓い糸の確認欄。
どれも華やかではない。
けれど、誰かの結婚式が正しく始まるためには必要だった。
「レティシア嬢」
アーネスト公爵が声をかけてきた。
私は顔を上げる。
「閣下」
「勤務後に時間はあるか」
「確認室の申請書を三件終えたあとでしたら」
「では、そのあと」
「お仕事でしょうか」
「最初は仕事の話をしない努力をする」
あまりにも真面目な顔で言うので、私は笑ってしまった。
「では、私も努力します」
「茶を用意する」
「それは、手続き上必要な茶でしょうか」
「いや」
公爵は少しだけ口元を動かした。
「私が、君と話したい茶だ」
胸の奥が、静かに温かくなる。
甘い言葉ではない。
けれど、私には十分だった。
「では、勤務後に」
「ああ」
公爵は短く答えた。
私は申請書へ視線を戻す。
窓の外では、神殿の鐘が小さく鳴っていた。
どこかで、今日も結婚式が行われるのだろう。
祝福のヴェールをまとった花嫁が、神殿の灯の前へ立つのだろう。
私はもう、誰かの花嫁の座を飾るために立たない。
祝福のヴェールを奪われても、そこへ戻らない。
でも、誰かの祝福が正しくともる場所を守ることはできる。
神殿の灯は、飾りではない。
花嫁も、飾りではない。
そして私も、誰かの隣を埋めるためだけの人間ではない。
次に祝福の灯がともるとき。
私は王家婚姻登録院の徽章を胸につけて、その光を見るのだろう。
誰かの代わりとしてではなく。
その灯が、正しくともる場所を守るために。
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