表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

飛んでいる人間

作者: 海辺


 おれは浮いている。


 今も絶賛浮いている。もちろんこれはおれの行動の結果なのだが、いつものように気が付いたら浮いていた。

 このスクリーンの席は九割方埋まっている。座っているのは、おれと同年代かそれよりも若い女子ばかりだ。残りは連れてこられた彼氏と思しき男が数名、そしておれ。セットも何もしていない起きたままの髪を晒してるのはおれしかいない。どこを向いていいのか分からなくて、叱られた後のようにすこし下を向いた。前の席のばっちりウェーブが付いたダークアッシュの髪束が暖色の照明を弾いて生き物のようにおれを睨む。

 注意喚起でも告知でもお得な視聴方法でもいいから早く始まってくれ。ああ、早く暗転して、地面を知らないおれを隠してくれ────


 前いた会社の福利厚生で手に入れていた映画の割引券の期限が切れそうだったので、観にいくことにした。

 久しぶりの能動的な外出であり、その行動自体が何かおれを肯定してくれているような気がしていたのだが、定期が切れていて映画館まで行くにも余計な金がかかってしまい、さっそく後悔しはじめていた。映画には元々興味はなかったから特に何が観たいというのはなかった。

 それでも行く前に上映されている映画の一覧を見て、数年前に大きな話題になった漫画を原作にしたアニメ映画を観ようと決めた。その漫画に思い入れは特になかったが、無料公開期間中に読んだ記憶があったからそれでいいやと思った。他の映画には、おれとの接点がなさすぎる。

 映画館があるショッピングモールに着くと、平日だというのに老若男女でにぎわっていた。キッチンカーから漏れてくるクレープやらベビーカステラやらの甘い香りが空腹よりも先に懐かしさを運んできて、煌めく波打ち際を眺めたようにめまいがした。

 モール内に入って、賑わいの原因が分かった。今日は、祝日だった。海の日。吹き抜けに吊るされた巨大なイルカやカメのフロートはむしろ海をおとぎ話に変えてしまうと思った。

仕事を辞めてからそこまで経っていないというのに、もう曜日感覚が消えていることに苦い驚きを感じるも、そもそも祝日休みはない会社だったなと思い返す。

 平日なら空いてるだろうし、予約なんてしなくても観れるだろと高をくくっていたが、さっそく雲行きが怪しくなってきた。仕方がない、上映時間も迫っているし空いてる席を見つけて観るしかない。

 清潔な香りのするショップたちを素通りして映画館に着いたはいいものの、発券機でいくらクーポンコードを入力してもエラーが出てしまう。どうやらおれが観ようとしていた映画は通常の料金体系から外れた特別料金になっていて、それゆえにクーポンが使えないようだ。どうしよ。券売機は何台もあるが、後ろの列は長い。確実におれは詰まりの原因となっている。定価で観たいと思わないし、それじゃクーポンがもったいないし。どうしよ。どうしよ。そうこうしているうちに空席状況が満席になった。ヤバい。目線が背中に重く突き刺さる。恐る恐る後ろを向いても連れとおしゃべりしてたりスマホを見ている人しかいない。安心して画面に顔を移そうとした瞬間、一番前で待っている人と目が合った。どうしよ。ヤバい、どうしよ。頭が端っこから白く染まっていく。その事実がまだ脳の黒い部分に恐慌を引き起こし、おれはもう冷静じゃなくなってた。何を思ったのか、上映時間が最も近い映画をクーポンコードも入れずに予約してしまった。

 そのままあわてて決済をして、チケットを持って列を出た時は助かったという思いしかなかったが、周囲の期待に満ちたざわめきがおれの耳にも戻ってくると、とたんに後悔が押し寄せてきた。買ってしまったものはしょうがない。もしかしたら名作かもしれない。そう自分に言い聞かせながらスクリーンに向かい、今のおれがいる。


 しきりに『よしぴー』という単語が飛び交っているから、察するに、『よしぴー』なる愛称で呼ばれている男性アイドルが主演か何かを演じていて、ここにいる者のほとんどは銀幕に映る彼を眺めるのが目的なのだろう。

 ここに入る前にちらと見たポスターに大写しになっていたスーツの男が彼なのかもしれない。

 前もってあらすじや主要キャストくらい確認した方がいいだろうとスマホで調べ始めたところで部屋が暗くなった。おれは詰まり気味だった息をゆっくり吐いて、スマホの電源を切った。

 

挿絵(By みてみん)


 昼過ぎの空気はとにかく暑くて、駅まで歩くだけで汗が滲んでくる。電車に乗ってからも背中の汗が広がっていくのがひどく不快に感じる。

 映画は結局全部観た。部屋がひとつのゼリーのようになりとても途中退出できるような雰囲気ではなかった。寝てはいないが集中してもいないため記憶はもう崩れてしまって小さな断片だけ残っている。

 主人公が働いているオフィスはガラス張りの高層ビルの上層階で、昼はびっくりするほど明るく、夜は他のビルの航空障害灯の点滅を眼下に置くことができる。昼だろうが夜だろうが天井にミチミチに貼られたLEDベースライトが全て付いていて、総務が節電の名目で半分照明を抜いても問題なく明るいだろうなと思った。

 スーツ姿の『よしぴー』がそんなオフィスを颯爽と駆け抜けていく様は確かにそれだけで価値があるように思えた。前半はまだ天上のご職責を毒を貯めつつ観ることができたが、後半は新人とのロマンスっぽくなり心を閉ざすしかなくなった。おれはこれを観て、何を思えばいいのだろう。よしんば没入できたとして、それはマッチが見せたごちそうの幻だろう。

 エンドロール中にも抑えられない感情が漏れ出るようにひそひそ声が横行していた。身構えていた通り、明転した途端洪水のように声が弾け出した。むしろありがたい。みんな『彼』を思い出さずにはいられないのか、退場する動きは緩慢だった。するりと出ることができた。

 しかし、他の用のついでならともかく、映画を観るためだけに出かけること自体おかしい。ここ数日はとにかくだるくて寝てばかりいたというのに、なぜそんな大それたことを思いつき、実行したのだろうか。それに、そんな金の余裕はないのは分かりきってるはずだ。おれに残されているのは手つかずのボーナスだけ。こんな散財しなくとも、月が再び丸くなるころには干上がっている額しかない。家賃光熱費通信費食費税金社会保険料奨学金……なんて禍々しい。邪悪な龍のような言葉の羅列だ。早いことおれは就職先を見つけないといけない。さもないと、家賃光熱費その他もろもろ義務的支出ドラゴンに喰われて終わる。

 危機感がこれまでの無軌道を諫めてこれからを乗り切る糧を得ようとさせたらしく、今度は、寄り道を全くせず電車に乗ってしまったことに漠然とした後悔を感じ始めた。せっかくショッピングモールまで金をかけて行ったのだから何か買えばよかった。しかし、何を?

 背中の汗が滴り落ちた。空腹が、控えめに手を挙げる。そういえば、朝から何も食べてない。



 帰ってきた頃にはもう夕方になっていたが、まだ太陽は沈んでおらず、外は明るい。部屋に入ると黄金色の陽がカーテンから漏れていて、淀んだ暗闇を気紛れに救っていた。暑い。暑い。喉が乾いた。

 スーパーで買ってきたものはとりあえずテーブルに置いて、真っ先にエアコンを付ける。そして、冷蔵庫に入っている麦茶をラッパ飲みする。


「んぐっ、ゲホッゲホッ、おェ………………」


 勢いをつけすぎてむせた。受け止めきれなかった飛沫が服に床に散らばる。

 どうせすぐ乾くし、自分の不手際は放っておいて食材を冷蔵庫に詰める。買い込む習慣が廃れてしまい、無造作に物を入れても支障がないほど中身が少ない。

 二割引の烙印を押されたヒレカツ弁当をレンジで温めている間に、おれはどれだけの割引をしたらまた労働市場で手に取ってもらえるのだろうかと考える。一年ちょっとの勤務経験を経て、おれは気分をプロットすると正弦曲線みたいになったし、まっさらな職歴に泥が付いた。自分自身に割引シールを貼るのはきっと悔しいし情けないし、でも仕方ないだろうし。

 ああめんどくさいな。


 ピーッ!ピーッ!ピーッ!

 

 チンが終わってアツアツの弁当と対面する。さすがに美味しそうだ。スマホを取り出して、今月は動画を見すぎて通信制限に引っ掛かりそうなのを思い出す。仕方なく、テレビを付ける。軽くザッピングをしても面白そうな番組はない。どこも選挙のことばかりやっている。もう終わって結果が出てるらしい。そういえば、最近は選挙カーが何かを叫んでいたような気がする。頭がロクに回らない日が多くて気づいたら色々なことが過ぎている。

 とりあえず弁当を食べよう。テレビは思いのほかうるさかったから、消した。


 暇だ。シャワーを浴びればもう寝れる。一方で、やらなくてはいけないことはいっぱいある。飲み残しのカップ麺を雑に流しているせいでシンクのゴミ受けが詰まっている。それを片づけるには積まれた皿を洗わないといけない。日に日に存在感を高めていくゴミ袋もそろそろ捨てにいかないといけない。晴れ続きだというのに洗濯も滞っている。

 家事だけでもこれだけ溜まっているというのに、仕事も探さないといけない。

 やらないと。毎日同じように焦る。しかし何もやらずに一日が終わっていく。じりじりと追い詰められていく感覚を紛らわせるために、大して興味もない動画をけんけんぱしていく。あるいはSNSを捻ったままにしておく。

 するとそれらはかつて見たことのない領域を映しはじめる。すらすらと虫のうんちくを言いながら野山で小型哺乳類の死骸をせっせと集めている人がいたと思ったら、どこにでもあるような看板の差分を求めておれの知らない場所を巡っていたり。昔流行ったミームやフレーズを著作権を完全に無視して抽出し、切り張りした下品なコラージュもたくさん流れてくる。悲しいことに、そういうものほど面白かったりする。一瞬だけど、何か救われた気分になったりする。

 どこにそんな熱意があるんだろう。おれが思い出せる限りでそんなパッションを持ったことは一度もない。ゲームにハマりすぎて一晩中ぶっ通しでやってしまったというような話とは違うだろうし。

 でも、サーバーからサーバーを何度も渡った先にいる誰かは、きっと一銭にもならないし、共感もされないだろうに、自分を満足させるために動いている。その自由さが、何が好きなのかも分からない空っぽのおれには新鮮で、つい見てしまうのかもしれない。

 とはいえそんなのは単なる先延ばしにすぎない。おれの怠惰は、すべておれに返ってくる。

 通信制限のこともあるし、ゲームでもして眠くなるのを待つかと考えた矢先、メッセージの通知が来た。妹からだ。やりとりは正月以来だから、半年ぶりになる。

 お盆は帰省するのか知りたいらしい。

 妹は向こうの家から看護大学に通ってるし、両親は別に寂しくはないはずだ。昔から妹の方がおれより好かれてたから、なおさらだ。仕事辞めたことを言ったら絶対ぐちぐち言われるよな。妹はともかく、両親には知られたくない。中学生の頃からずっと関係がギクシャクしていて、それからずっとほとんど口を利かない状態が続いている。ここぞとばかりに嬉々として小言を言ってくるはずだ。お母さんの言う通りにしなかったから、そうなったんだぞ、と。妹とは別に仲がいいわけではないが、おれと両親を繋ぐ唯一の糸として機能してくれている。 

 『忙しいから多分行けない』

 返信はすぐ来た。

 『そう。来れるか決まったら教えて』

 実にあっけない。

 不仲の理由は実に月並みなものだと思う。裕福でもないのに、いや、むしろ貧しいからなのか、向上心が高く、それを自分ではなくおれに向けていた。それは昔のことで、今やおれも大人だ。どちらもあえて関係を改善させる一歩を踏み出そうとしていないだけだと、遠く離れていれば思えるのだが。最後に帰ったのはまだ大学生の頃だったか、内定先を伝えたら、もっと勉強していたらどこそこに行けたはずだなんてまだ言っていたから、もういいやと思った。これ、おれがいけないのかな?

 おれは金の問題を理由に地元の国立大の現役合格しか許されなかったのに、妹は私立に親の金で行っている。おれは親との関係にも受験にも失敗した。妹はおれを見て上手く立ち回った。それだけのことだ。それだけのことだけど、奨学金の返済日になって通帳に刻印される半角カタカナを見るたびに怒りともつかない鉄黒い淀みが脳を浸す。妹のことを知りたくない。キャンパスライフを謳歌しているであろう妹を知ったら、きっと唯一の糸すら切ってしまう。粗い粗い兄妹という解像度でのみ、おれは正気でいられる。


 ゲームをやる気も失せていよいよ空虚が満ちていく。利子付きの夏休みがまた一日過ぎてしまった。

 何か生産的なことをして辻褄を合わせたくなる。今からできることは限られる。……これって、おれの人生そのものにも言えるな。理科の教科書かなんかで見た、液胞が詰まって他の器官が窮屈そうに寄り添っている植物の細胞を思い出した。爆発しそうなほどパンパンになって、アリの巣に水を入れるのと同じ無邪気さで突きたくなるあの膨らみ。

 そんな連想ゲームはどうでもいい。そうだな、テーブルの一角に陣取る郵便物の束を崩しにかかるか。まずは明らかにDMだと分かるものから処理しよう。

 経験則からいくと、こういうのは始めるのがとにかくめんどくさいだけで、始めてみると驚くほど簡単に片付くものだ。DMはロクに中身を見ずに捨てた。それだけで半分くらいきれいになった。残りは年金や保険、税金に関するものだが、じっくり読んだところで理解できるとは思えないから、ざっと読んで何か納付か申告が必要かどうかだけ確認する。記載されている数字は何の数値で、何を根拠に算定されているか不明だが、とりあえずおれを脅かすものではないことが分かれば十分だ。

 

 おれは脅かされていた。確かに、退職ハイの時に一連の手続きはやっていた。当時、おれは万能感に包まれていたからそれで全て終わったような気でいた。今の体調ではとてもできなかったことだからそれに関しては昔の自分に感謝している。しかし、誤算はそれで支払いまで済んだような気でいたことだ。やったのは切り替えなどの手続きだけで、当然その後に請求が来る。それが、目の前にある書類たちだ。

 払える。全然払える。ただ、貯金が底を突くまでの猶予は一気に短くなった。なぜこんな勘違いをしていたんだ。過去の自分を責めたところでどうしようもない。しかしこの明確な深刻さは、湧き出た感情の暫定的な捌け口を提供しなければ何かを壊してしまいそうな激しさを含んでいた。

 冷静になろう。冷静になるためには……一旦外に出た方がいい。軽く汗をかいたらシャワーを浴びて今日のところはとりあえず寝よう。そうしよう。

 


 熱が籠った玄関を開けても全く気温が変わった気がしない。思わず舌打ちをしてしまう。

 あまりにもぬるい空気に雨の予感を感じて上を見上げる。まばらに雲はあるが、星が豆粒のような小ささで光っているのが見える。降られることはなさそうだ。

 何かが動いた気がしてもう少し目を凝らす。なんてことはない、ただの飛行機だった。

 歩き出したはいいが、散歩の習慣がないからどこに行けばいいのか分からない。自然と通り慣れたコンビニまでの道のりを辿りだす。ふと、道中に公園があったことを思い出した。

 

挿絵(By みてみん)


 少し横道にそれたところにあるその公園は、鉄棒とすべり台、ブランコがあるだけの小さなものだ。街灯が一本、遊具たちに影を与えていた。誰もいないことを確かめて、ブランコに近づく。おれを嫌がるように少し揺れている。ブランコに年齢制限なんてないはずだ。気にせず乱暴に乗って、足を離す。


 ギィ……ギィ……


 大して振れていないのに器具が擦れる音がうるさい。思わず周囲を見まわしたが、相変わらず動いているのは街灯に集まる虫くらいだ。勢いが付いてくると重力に揺り動かされて、身体がかつての楽しさを思い出してきているのが分かった。浮き上がりきったところで思い切り手を離したらどうなるんだろう。ブランコに乗ったら必ずした想像が思い出フォルダから記憶として蘇ってくる。いい大人なのに自分が作り出した勢いに軽い恐怖を感じて足がこわばった。


 おれは飛んでいる。翼はない。ただ飛んでいる。

 落ちて地面に激突するのを待ってるだけだ。自分の将来を操作できると思ってない。何かを削りながら自分一人を生かすので精一杯だ。何かが崩れればもう死の際々まで吹っ飛ぶ。いつの間にか友達はいなくなったし、生活水準が上がるはずないし、恋人ができる見込みはないし、ましてや結婚して子どもを育てるなんて自信も能力もないし。歳ばかり取っていったところで、おれより早く歳を取るこの国がまともな年金を寄越すとは思えないし。ここまで生きれば、なんてない。身体が動かなくなったらもうお陀仏だ。


 もう飛んでるだけだから、この現状を誰かのせいにするつもりはない。そして、何かを変えようという意識もなければ義務も権利もない。家族がいる向こう側の世界には町内会とか墓参りがある。おれは自分から色々なものを捨てていって、飛翔体になった。

 何の虫かは分からないが、闇の中からジーと鳴く声が聞こえる。外には音があって、それだけでおれの存在が紛れた気分になる。

 

 勢いよくブランコから離れてしばし飛んだ。ドサッと重たい音を立てて着地する。あまり痛くない。ここまでは、おれでもできる。手のにおいを嗅ぐと鉄サビの懐かしい香りが付着していた。

 あーあ、隕石がここに降ってこないかな。願望越しの夜空に、飛行機はもういなかった。












評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ