表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

【短編小説】月の仮面[恋愛]

「お疲れさまでした」時計が19時を指したころ、早川綾音はデスクを片付け、同僚たちに軽く頭を下げた。デザイン事務所での仕事は好きだったが、社交的な先輩や意見をはっきり言える同僚たちと比べると、自分はいつも影が薄い気がしていた。「早川さん、ここの配色、やっぱりこっちのほうが良かったんじゃない?」「……はい、すみません」先輩の指摘に曖昧にうなずくしかない。自信がなく、思ったことを口に出せない自分が嫌になった。帰宅後、ベッドに寝転がり、スマートフォンを手に取る。指が自然にSNSアプリのアイコンを押した。


《ルナ》のアカウントはフォロワーが5000人を超え、毒舌で鋭い言葉が受けて人気だった。「今日はまた『できる風を装った無能』と働かされたわ」ふと、思いついた言葉を投稿する。すぐに「わかる」「職場あるある!」といったコメントがついた。現実では誰にも言えないような言葉が、ここでは簡単に受け入れられる。SNSの「ルナ」は、綾音にとってもう一つの自分であり、唯一の拠り所だった。


その日の夜、通知が鳴った。《ナギ》からの返信が届きました。「ルナさんのツッコミ、本当に的確ですね。うちの職場にも“できる風の無能”がいますよ(笑)」彼の優しい言葉に、綾音は思わず笑みをこぼした。


「ナギさんって、本当に穏やかだよね」綾音はスマートフォンを見つめながら、そうつぶやいた。ナギは数カ月前、ルナの投稿に返信してきたのがきっかけで知り合った。彼は毒舌な「ルナ」の言葉に対してもユーモアを交えて返してくる、柔らかい雰囲気の人だった。時折、仕事の愚痴をこぼしながらも、どこか相手を思いやる言葉がにじむ。その優しさに、綾音は次第に惹かれていた。


「ナギさんの会社はどんな感じなの?」軽い気持ちでメッセージを送ると、すぐに返事がきた。「小さい会社だけど、居心地は悪くないかな。たまに大変だけど」「いいね、羨ましい」「ルナさんの職場は大変なの?」ふと、現実の自分が頭をよぎった。誰に話しても否定されそうで、ずっと飲み込んできた不満。だが、ナギなら聞いてくれるかもしれない——そんな期待が膨らんだ。


「うちの職場は、言いたいことが言えない空気があってね。意見を言っても、結局は上の人が決めちゃうから、どうせ無駄って思っちゃうんだ」送信した後、綾音は少し後悔した。重たい話題だったかもしれない。だが、数分後、ナギからの返信が届いた。


「それって、すごく辛いよね。ちゃんと考えてる人が報われないのは間違ってるよ」短い言葉なのに、その優しさが心にしみた。(ナギさんがリアルの知り合いだったら、どんなに楽だろう)綾音はスマホを胸に抱き、目を閉じた。SNSの仮面をかぶった「ルナ」だけが、自分の本音を受け入れてもらえる居場所だった。


「綾音、たまには息抜きしないと」同僚の麻美に誘われ、綾音はしぶしぶカフェでの食事会に参加することになった。正直、気が進まなかったが、「今日は先輩の友達も来るから」と言われ、断りづらくなったのだ。夕方、待ち合わせ場所のカフェに着くと、落ち着いた雰囲気の店内にはすでに数人のグループが集まっていた。「こっちこっち!」麻美に手を引かれ、綾音はテーブルに着く。自己紹介が始まり、軽い雑談が交わされる中、ふと視線の先にいた男性が目に留まった。


(……あれ?)


その男性は、綾音より少し年上くらいの雰囲気で、控えめながらも時折笑顔で話に加わっていた。落ち着いた声、穏やかな口調、そして柔らかい物腰——。「凪川翔太なぎかわ しょうた」と名乗ったその男性は、どこかナギに似ていた。「デザインの仕事って大変そうですよね」「ええ、まぁ……」ぎこちなく言葉を返す綾音に、翔太は柔らかく微笑んだ。


(こんな人が『ナギ』だったらいいのに)そう思いながらも、もちろん彼がナギであるはずがないと、自分に言い聞かせた。その後、話題がSNSの話になったとき、翔太が何気なく口にした言葉が、綾音の胸をざわつかせた。


「この間さ、SNSでめちゃくちゃ毒舌なアカウント見つけてさ。ああいうの、ちょっと苦手なんだよね」その瞬間、綾音の胸が締め付けられた。まるで「ルナ」を否定されたような気がした。(もしこの人が「ナギ」だったら……きっと嫌われる)楽しいはずの食事会が、綾音にとっては途端に息苦しいものに変わっていた。


食事会が終わり、綾音はどっと疲れを感じながらカフェを後にした。(翔太さん……やっぱりナギじゃないよね)けれど、彼の穏やかな口調や話し方が、どうしてもナギと重なって見えてしまう。思い切って「ナギさんって、どんな人なんだろう」とメッセージを送ろうかとも考えたが、勇気が出なかった。帰宅後、ベッドに寝転がり、いつものようにSNSを開いた。そこには、ナギの新しい投稿が表示されていた。《ナギ》「今日はカフェで素敵な女性と会った。話しててすごく心地よくて、思わず見とれそうになった」——カフェ。


その単語が目に入った瞬間、綾音の心臓が跳ねた。続く文章には「仕事でよく行くカフェ」とあり、そこが今日のカフェと一致していることに気づいた。(まさか、翔太さんがナギ?)偶然ではなく、確信に近い直感が背中を駆け抜けた。「……もし、翔太さんがナギだったら?」けれど、思い出したのは、彼が言った「毒舌なアカウントは苦手」という言葉。もし「ルナ=綾音」だと知られたら、彼はきっと幻滅する——そんな不安が頭をよぎる。


結局、その夜は「今日の食事会、楽しかった?」と、当たり障りのないメッセージをナギに送るにとどめた。「うん、いい人に出会えたよ」ナギの返事に、綾音は複雑な思いを抱きながら、スマートフォンの画面をそっと閉じた。


それから数日、綾音はずっと悩んでいた。ナギと話すたび、どうしても翔太の顔が浮かぶ。けれど、「ルナ」の自分を否定するような言葉を思い出すたびに、正体を明かす勇気が出なかった。(もし幻滅されたらどうしよう)そんな迷いを抱えたまま、時間だけが過ぎていった。ある日の夜、綾音が帰宅すると、スマートフォンの通知が鳴った。《ナギ》からのメッセージが届きました。「相談したいことがあるんだ」その一文に、綾音は思わず息をのんだ。急いで返信すると、すぐに返事がきた。「最近、リアルで気になる人ができたんだけど……」その言葉に、綾音の指が止まった。(やっぱり、カフェで会ったあの人のこと……?)胸が締めつけられる感覚の中、ナギのメッセージは続いていた。


「その人、もしかしたら……ルナさんなんじゃないかって思ってて」目を疑った。まさか、ナギが「ルナ=綾音」だと気づいていたなんて——。「でも、もしそうなら……正直、ちょっと怖い。ルナさんって、時々すごく辛辣なこと言うじゃない? あの人が本当にルナさんだったら、なんだかショックかもしれない」(……私、嫌われるのかな)心がぎゅっと縮こまるような感覚だった。「どうしよう……」その夜、綾音はスマートフォンを握りしめたまま、何度もナギへの返信を打っては消した。


翌日、綾音は仕事中もずっと落ち着かなかった。ナギへの返信はまだできず、気持ちばかりが焦る。(正体を明かすべきか、黙っているべきか……)どちらを選んでも、後悔する気がした。帰宅後、スマートフォンの画面を見つめながら、綾音は意を決してナギにメッセージを送った。


「さっきの話、もう少し詳しく聞かせてほしい」しばらくして、ナギからの長いメッセージが届いた。「最近よく行くカフェで会った人なんだ。すごく落ち着いてるし、話しやすくて……。でも、僕、今まで『ルナ』にいろいろ本音を話してきたでしょ? それが、もしリアルの彼女だったら……きっと失望するんじゃないかって思うんだ」「失望?」綾音は思わず声に出してつぶやいた。


「ルナさんは毒舌だけど、僕はあの言葉が好きだった。思ったことをはっきり言えるのが、すごくうらやましかったんだ。でも……カフェで会ったあの人が同じ人だとしたら、その“本音”が全部作り物みたいに感じちゃいそうで」胸が締めつけられた。翔太は「ルナ」を否定したわけじゃなかった。ただ、SNSの「ルナ」とリアルの「綾音」を別の存在として捉えていて、もしそれが同じ人だとしたら、そのギャップに戸惑っているのだ。


(でも、どちらも本当の私なのに……)


綾音はスマートフォンを握りしめたまま、再び返信を打っては消した。


(正体を明かすなら、今しかない。でも……)


結局その夜、綾音は「もう少し考えさせて」とだけメッセージを送り、ベッドに潜り込んだ。心に広がる不安を抱えたまま、眠れぬ夜が続いた。


「話したいことがあるから、時間を作ってもらえませんか?」翌朝、意を決した綾音はナギにそうメッセージを送った。数分後、「いいよ。カフェで会おうか?」という返信が届いた。その日の夕方、カフェに着くと、翔太はすでに席に座っていた。「待たせちゃって、ごめんなさい」「いや、大丈夫」いつもと変わらない穏やかな声。けれど、今日はそれが妙に遠く感じた。「話したいことって……?」綾音は何度もシミュレーションした言葉を思い返す。けれど、目の前の彼の顔を見た瞬間、頭が真っ白になった。(もし嫌われたら……)不安に押しつぶされそうになりながら、震える声で口を開いた。


「……私、実は……」言いかけたところで、翔太がぽつりとつぶやいた。「ねぇ……もしかして、君が……ルナ?」綾音の心臓が跳ね上がった。「……どうして、そう思ったの?」「この間の食事会のとき、SNSの話題が出たでしょ? そのとき、君がすごく顔をこわばらせてたから……。それに、最近のルナさんの投稿、どこか苦しそうで」翔太の声は優しかった。でも、その優しさがかえって綾音を追い詰めた。


「……ごめんなさい。ルナは、私です」


ようやく絞り出した言葉に、翔太の表情がほんの少し揺れた。「やっぱり……」彼がどう思っているのかがわからず、綾音は息を詰めた。「……本当は、最初から気づいてたんじゃないかって思ってたんだ」意外な言葉に、綾音は顔を上げた。翔太の目には、驚きよりも、どこか安心したような光が宿っていた。


「……最初から気づいてた?」綾音は思わず聞き返した。「うん。確信はなかったけど、ルナさんと話してるときに、どこか君と似てるなって思ったことが何度かあってさ」「……どうして、そのとき言わなかったの?」「もし違ったらって思ったんだ。それに……」翔太は少し言葉を詰まらせ、ゆっくりと視線を綾音に向けた。「もし本当に君がルナだったら、幻滅しちゃいそうで……」その言葉に、綾音の心が冷たくなる。


「やっぱり……嫌いになった?」震える声で尋ねると、翔太は驚いたように目を丸くした。「え? いや、そんなことないよ」「でも……ルナのこと、嫌だって言ってたじゃない」「違うよ」翔太は首を振った。「僕が嫌だったのは、SNSで悪口を言うのが本音だって思い込んでたから。でも、カフェで会ったときの君は、もっと素直で優しい人だったから……そのギャップが受け入れられないんじゃないかって思っただけで」「……?」「でも、今ならわかる。どっちも君なんだよね」綾音は、思わず息を飲んだ。


「職場で我慢してるときの君も、ルナとして気丈にふるまってる君も、ぜんぶ本当の君だろ?」「……そんな風に、思ってくれるの?」「うん。どっちも、好きだから」その言葉が信じられなくて、でも心の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じた。「……ありがとう」涙をこぼした綾音の手を、翔太はそっと握った。そのぬくもりが、仮面の下に隠していた本当の自分を、やさしく包み込んでくれた気がした。


それから数日後、綾音と翔太は再びカフェで会っていた。「……でね、その先輩が『この色のほうがいい』って言うから、結局そのまま通っちゃって」「え、それって綾音さんのほうが正しかったんじゃ?」「でしょ? でも、私が言っても説得力ないみたいで……」他愛もない話だった。それでも、こうして気兼ねなく話せる相手が隣にいるだけで、綾音の心は驚くほど軽かった。


「……前は、こんなふうに誰かに愚痴るのも苦手だったんだ」ふと、綾音はつぶやいた。「『ルナ』として言いたい放題だったじゃない」翔太が笑いながら言う。「それは……あれは、強がってただけ」笑いながら答えたものの、その言葉が自分でも意外なほど素直に出たことに驚いた。


「私、本当はいつも不安だったの。職場でうまく話せないし、誰にも本音を言えないから……。だから、ルナみたいに強がって、毒舌キャラを演じてたのかもしれない」「……そっか」翔太はうなずき、少し考えるように視線を落とした。


「でもさ、強がってるのって悪いことじゃないと思うよ。無理してるときって、自分を守るためにそうするしかないときだってあるから」「……守るため?」「うん。だから、ルナとしての君も、リアルの君も、どっちも大事なんだよ」「……そんな風に思ってくれるの、翔太さんだけだよ」「じゃあ、その“特別”にしてもらっていいかな?」茶化すような声に、綾音は思わず吹き出した。「……もう、ずるいよ」その笑顔は、SNSの「ルナ」でもなく、職場の「早川綾音」でもない、仮面を外した本当の彼女だった。


その夜、綾音は久しぶりに「ルナ」としてSNSに投稿した。《ルナ》「今日、ちょっと素直になってみた。そしたら、意外と悪くなかったかも」以前なら、「ルナ」がこんな弱音を吐くなんてありえないと思っていただろう。けれど今は、もう強がるだけの自分でいる必要はない気がした。「……あ」ナギからの返信が来た。《ナギ》「素直になれたのは、きっと君が頑張ったからだね。おめでとう」「……頑張った、か」翔太の言葉が脳裏に浮かぶ。彼はいつも綾音のことを「頑張ってる」と言ってくれた。SNSで強がる自分も、職場で悩む自分も、全部受け入れてくれた。


(私、ちゃんと自分を好きになれてるのかな……)そう思ったとき、ふとスマートフォンが震えた。「明日、どこか行かない?」翔太からのメッセージだった。「……行く!」すぐに返信を送りながら、綾音は思わず笑ってしまった。


「何笑ってるの?」スマホ越しの声が聞こえてきそうな気がして、綾音はそのまま布団に潜り込んだ。翌日、二人は待ち合わせのカフェで再会した。「今日はどこに行くの?」「うーん……どこでもいいけど」翔太が笑う。「でも、綾音さんが笑ってくれたら、そこが一番いい場所かな」「……もう、またそういうこと言う」綾音は顔を赤くしながら、それでも嬉しさを隠せなかった。


「これからは、ちゃんと素直になってみるよ」「うん。君のペースでね」カフェの窓から差し込む光が、まるで二人の未来を優しく照らしているように感じた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ