未来への門出
朝の光が、寝室のカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。
窓辺に立ったフィオナは、制服の襟元を整える。
「……今日で、終わりか」
小さくつぶやいた声は、感傷というより、どこか晴れやかだった。
十年前の自分は、ただ『悪役令嬢』という役割に怯えていた。
けれど今は違う。この三年間で歩んだ日々は、もう誰にも決めさせないフィオナ・エルディア自身の物語だった。
深く息を吸い込み、鏡の中の自分にそっと笑みを向ける。
ピンク色のリボンが揺れる。これは、特別な日に選んだ、お気に入りのリボンだ。
学院への道のりは、もう何度も歩いたはずなのに、今日だけは空気が少し違って感じる。門の前で警備の騎士たちに軽く会釈をして、中へ入ると――
「フィオナちゃん!」
クララの声が飛んできた。
振り返れば、シルバーのリボンを揺らしながら駆け寄ってくる姿。後ろには、少し寝癖の残ったフェリシアもいて、「卒業式の日くらいきちんと髪整えなよ」とクララに呆れられていた。
「間に合った! っていうか、間に合わなかったら一生言われるところだった!」
「ほんとに。私は知らないからね」
「……二人とも、今日も変わらないわね」
思わず笑みがこぼれる。
そう。この三年間で、自分も、そしてこの仲間たちも変わった――けれど、根っこの部分は、やっぱりそのままだ。
ゆっくりと歩き出す三人。目指すは、講堂。
彼女たちの物語が育まれたこの学院で、最後の舞台が、いま始まろうとしていた。
♢♢♢
講堂に近づくにつれ、周囲の空気が少しずつ張り詰めていく。
三人が講堂の扉をくぐると、見慣れたはずの空間がまったく違って見えた。
高くそびえる天井には魔法紋が淡く浮かび、王家の紋章が静かに輝いている。壇上には教授陣と、ガイウス王、クラリーチェ王妃の姿もあった。アレクシスの姿も見えたが、今日は王太子としてではない。ここで学び、卒業する一人の生徒として、出席している。
クララが小さく息を呑む音が聞こえた。生徒たちが席に着くと、天井に浮かぶ魔法紋がゆるやかに輝きを増していった。そして、澄んだ鐘の音が天井から降るように響き渡る。魔法によって調律されたその音は、静かでありながら心を震わせるような力を持っていた。
やがて壇上に、一人の人物が立った。
深い紫のローブに身を包み、白髪混じりの髪を後ろで束ねた老魔術師。鋭さと穏やかさを併せ持つ眼差しが、生徒たち一人ひとりを見つめていく。
「これより、アルセリオン王立魔法学院 卒業式を執り行う」
その低く響く声に、講堂全体が静まり返る。
学院長――歴代でも屈指の実力を持つ魔術師にして、この学び舎を導く者。
「魔法とは、星の光のようなもの。諸君らはその光を宿す器となった」
言葉は穏やかに、けれど深みを持って、生徒たちの胸に静かに沈んでいく。
「これより諸君らは、アルセリオンの名を背負い、魔法という翼を広げて旅立つ。誇りを持ち、慈しみを忘れず、時に強く、時に優しく――その光で道を照らし続けてほしい」
そして老魔術師は、慈愛に満ちた眼差しでゆっくりと告げた。
「さあ、羽ばたきなさい。卒業、おめでとう」
講堂に、再び鐘の音が静かに鳴り響いた。
「次は、卒業生代表による挨拶です」
壇上に姿を現したのは――カイル・アーディン。
彼の姿は、いつもの元気な笑顔ではなく、静かな決意をまとっていた。
魔導石に手を添え、淡い光を流し込む。
「僕は、カイル・アーディン。騎士団長の息子として誇りを持ち、この学院の門をくぐったのは三年前の春でした」
揺るぎない決意を秘めた声が講堂に響いた。
「入学した頃の僕は、ただ強くなることだけを考えていました。父のような騎士になりたい。皆に認められたい。そんな思いだけで剣を振るい、魔法を使っていました」
「でも、ある日、大切な人が危険に晒されたとき、僕は気づいたんです。『強さ』とは何か。本当の『守る力』とは何なのか」
その言葉に、フィオナのまつ毛が、春の風に触れるように、かすかに揺れた。
「守りたい人の傍にいること。その笑顔を見続けること。それは時に、剣よりも難しく、魔法よりも複雑なことでした。何度も挫け、何度も立ち上がり……それでも、その人の光が、僕を前に進ませてくれました」
カイルは一息つき、視線を壇上から講堂全体へと巡らせる。
「この学院は、僕に本物の絆を教えてくれました。友情の温かさ、信頼の重み、そして……愛の尊さ。共に笑い、共に泣き、時には互いを支え合った日々は、僕の心の奥底に、永遠に刻まれています」
「人を守るということは、相手の全てを受け入れ、その未来を信じること。僕はようやく、真の強さの意味を理解できたように思います」
そして、彼の視線がフィオナに向けられた。それは一瞬のことだったが、その瞳には、誰にも揺るがされない誓いが宿っていた。
「これからの道は、決して平坦ではないでしょう。それでも僕は、この学院で学んだ全てを胸に、騎士としての誓いを果たします。どんな時も正義の心を失わず、大切な人々の明日を、この剣と魔法で守り抜くことを誓います」
「三年前、不安と希望を胸に踏み入れたこの学院は、僕の人生の真の始まりの場所となりました。ここで出会ったすべての方々に、心からの感謝を。そして、特別な光をくれた一人の人に、永遠の誓いを。ありがとうございました」
魔導石の光がゆっくりと消える。講堂に、温かい拍手が広がった。
その音の中で、フィオナは小さく息を吐く。
(……本当に、立派になったな)
『いつか隣に立てるように』と願っていた少年は、もう、自分が追いかけるべきほどに遠く、大きな存在になっていた。
――そして、それでも変わらず自分の方を見てくれる。
そのまっすぐさに、思わず頬が緩んでしまった。
卒業式が終わり、生徒たちはそれぞれ家族と帰路につき、学院の中は少しずつ静けさを取り戻していった。
だが、誰もいなくなった講堂の裏庭には、まだひとり残る少女の姿があった。
フィオナ・エルディア。
夕暮れの柔らかな光に包まれた花道を見つめながら、彼女は胸に満ちる余韻を静かに抱いていた。
(……終わったんだな)
三年間の記憶が、静かに波のように押し寄せてくる。泣いた日も、笑った日も、必死だった日々も、全部がここに詰まっていた。
その時――
「やっぱり、ここにいた」
聞き慣れた声に振り返ると、制服の上から深紅の外套を羽織ったカイルが、夕日に照らされて立っていた。彼の瞳には、静かな安堵の色が浮かんでいる。
「探したよ。なんとなく、まだ帰ってないんじゃないかって」
「……うん。帰る前に、少しだけ」
フィオナは微笑みながら答える。頬に当たる風が、気持ちよかった。
カイルは彼女の隣に立つと、ポケットから丁寧に折りたたまれた白い布を取り出し、古びたベンチに敷いて座るよう促した。その仕草に、いつもの彼の優しさが現れていた。
二人で並んで腰かける。肩と肩の間には、わずかな距離。
「カイルの卒業生代表のスピーチ、すごく胸に響いた」
フィオナの言葉に、彼は少し赤くなりながら目を伏せる。
「そっか。……それ、言ってもらえて、すっごく嬉しい」
どちらからともなく見上げた夕暮れの空に、風が一つ、桜の花びらを運びながらやさしく流れていった。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
このお話も、ついに明日で最終話となります。
フィオナたちの学院生活の終わり、そしてカイルとの関係に一区切りがつく、大切な回になります。
書いている側としても、彼女たちと一緒に歩んできた時間を思い出して、ちょっぴりさみしい気持ちです。
最後まで、どうぞ見届けていただけたら嬉しいです!




