静かなる怒り ジュリアンの決意
夜のエルディア邸は静かだった。書斎の奥、ジュリアンの机の上に広げられた紙には、すでに三度目の修正が入っていた。蝋燭の揺らめく光が、彼の緊張した表情を照らしていた。
「……これで終わりですね」
そうつぶやいて、彼はゆっくりとペンを置いた。指先に残る僅かな震えを、彼は気にも留めなかった。
――アルセリオン王国の政略上、より良き縁談として隣国アウレリス王国との友好婚を提案する――表向きは、ただの外交の進言だ。
だが、それを提出する者がエルディア公爵家の嫡男であり、しかもその王太子が学友という立場にあるとなれば、話は別だった。
「あなたの顔を立てるのも……ここまでです、殿下」
誰に聞かせるでもなく、ジュリアンはぽつりとつぶやいた。
♢♢♢
すべての始まりは、あの夜だった。煌びやかな宮殿の中、デビュタントのファーストダンス。フェリシアと踊るはずだった舞台に、突如として割って入ったアレクシスの姿。
ジュリアンは立ち尽くすしかできなかった。王太子として光魔法の少女への敬意などという都合の良い言い訳は聞き飽きた。結果として彼女は傷ついていなかった――いや、そもそも気にもしていなかった。彼女の無邪気な笑顔が、逆に胸を刺した。
けれど、自分は傷ついた。約束を果たせなかった無力さが、胸に重くのしかかる。
大切な約束が踏みにじられたことも、それを当然のように振る舞った王太子の在り方も、何も言えずに見ていた自分自身の弱さも――すべてが、情けなかった。あの瞬間から、何かが変わり始めた。
翌朝。朝靄の立ち込める中、ジュリアンは父・レオナルドを訪ねた。エルディア公爵家の執務室には、重厚な静けさが満ちていた。
「父さま、お時間をいただけますか」
レオナルドは書類から目を上げ、息子を見た。普段の穏やかさとは違う、何か決意のようなものを感じ取ったのか、彼は椅子に深く腰掛け直した。
「王太子殿下に、新たな縁談をお考えいただくのはどうでしょうか」
ジュリアンの声は、静かながらも力強い。レオナルドは眉をひそめた。
「ジュリアン、お前は……そこまでしてフェリシア嬢のことを?」
「ええ。ですが今回は、私個人の感情だけではありません」
ジュリアンは淡々と言葉を続けた。その眼差しには、これまで見たことのない冷徹さがあった。
「王太子殿下が個人の想いで動かれるのは構いません。ただ、それによって他者の立場を脅かすのであれば、話は別です」
「新たな縁談……まさか、アウレリス王国の王女か? いや彼女はまだ」
レオナルドの声には驚きが混じっていた。それは通常、考慮されるはずのない選択肢だった。
「アナスタシア・アウレリス王女。十歳にして王妃教育を修了し、アウレリス魔法学院主席。王家の未来を託すに相応しい人物かと」
ジュリアンの言葉は、まるで長い間準備していたかのように滑らかだった。
「……どこで調べた」
「資料は揃っていました、アウレリス王国に商談に行った際に少しだけ……」
レオナルドはしばらく沈黙した。窓から差し込む朝日が、二人の間に長い影を落としている。そして、小さく息を吐く。
「お前も……変わったな、ジュリアン」
「そうでしょうか?」
「いや。昔から護りたいものには、とことん真っすぐだったか」
ジュリアンは、ふっと微笑した。その表情には、かつての少年の面影が残っていた。
「ええ。それだけは、変えたくありません」
♢♢♢
王家に提出された縁談案は、思った以上に早く通った。
貴族評議会の間では驚きの声も上がったが、もともとアウレリス王国とは交易の拡大交渉が進められており、王女アナスタシアはその象徴として国内でも高く評価されていた。彼女の才能と教養は、年齢を超えて評判になっていたのだ。
ガイウス王が「前向きに検討すべきだ」と判断したことで、懸念の声も次第に収まっていった。クラリーチェ王妃も深い考察の末に同意する。彼女の澄んだ瞳には、何か諦めのようなものが浮かんでいた。
「政治としても、そして将来の民のためにも……ふさわしい選択です」
その一言が、議論に終止符を打った。それは王妃の意志であり、国としての判断でもあった。発表までの日程が急ピッチで組まれ、両国の準備が始まった。
一方そのころ。学院の図書室の隅で、ジュリアンは仲間たち――カイル、シルヴァンと密かに会合を開い
ていた。周囲に人がいないことを確認し、三人は声を潜めて会話を交わす。
「ベアトリス・フォルディア。彼女がこれまでしてきたことを洗い出します」
ジュリアンが古い学院記録を広げながら言った。彼の目には、普段には見せない鋭さがあった。
「また面倒ごとに首突っ込むなぁ、ジュリアンは」
「ま、ベアトリス嫌いだから協力するよ」
「俺も構わないよ。ついでに、1年のころの魔法決闘祭の件、模造剣じゃなかった証拠も探そう」
「頼りにしてます」
フィオナへの嫌がらせ。魔法決闘祭での不正。そして、実はフェリシアへの陰湿な攻撃も行っていた。これまで彼女の地位と家柄が守ってきた真実。表には出なかったが、確かに存在した悪意の数々。
それをすべて記録に起こし、証拠を添えて王家に提出する。隠されていたいじめの証拠。その計画は、着々と進められていった。
「僕は……フェリシアの隣に立ちたいんです」
夜の中庭で、ジュリアンはつぶやいた。誰にも見えない場所で、月明かりだけがその決意を照らしていた。彼の瞳には、強い光が宿っていた。
「だからもう、絶対に譲りません」
♢♢♢
王宮の玉座の間に、しんと張り詰めた空気が流れていた。豪華な装飾が施された天井からは、太陽の光が差し込み、大理石の床に虹色の光を落としている。赤い絨毯の上を、小さな足音が静かに進んでくる。
全ての視線が、その少女に注がれた。
「アウレリス王国より参りました。アナスタシア・アウレリスと申します」
澄んだ声が、広間に響き渡る。まっすぐな姿勢。エメラルドグリーンのドレスは、彼女の瞳の色を引き立てていた。わずか十歳とは思えぬほど堂々とした振る舞いに、王宮の重臣たちは息を呑んだ。
「アウレリス王国の姫君を、心より歓迎する」
玉座に座るガイウス・アルセリオン王は微笑み、青と金の王室の衣装に身を包んだ彼は、威厳と同時に優しさも湛えていた。クラリーチェ王妃も穏やかに頷いた。
「貴女の訪問を心より歓迎する。王太子アレクシスの将来の伴侶として迎える準備を、ここに進めよう」
王の声に、会場のあちこちから小さなざわめきが起こる。それは期待と不安が入り混じった音だった。
アナスタシアはひざをつき、深く頭を垂れた。
「光栄にございます。アルセリオン王国の未来に、少しでもお力添えできるよう努めてまいります」
その言葉には、年齢を感じさせない重みがあった。その姿は完璧だった。教養、礼節、威厳――すべてを幼くして備えていた。
玉座の横に立つ王太子アレクシスの表情は、硬かった。彼はただ前を見つめ、微動だにしない。その目には、複雑な感情が交錯していた。
♢♢♢
謁見を終えた後、控室に移ったアレクシスは、クラリーチェ王妃の前で無言を貫いていた。壁には先王の肖像画が掛けられ、彼らを見下ろしているようだ。王妃は息子の表情を見つめながら、静かに口を開いた。
「……納得がいかないのなら、今のうちに言いなさい」
王妃の声は柔らかかった。だが、その瞳には冷たい光があった。
「俺が納得しようとしまいと、決まったことなのですよね」
アレクシスの声には諦めが滲んでいた。
「ええ。あなたにはもう、選ぶ権利などないのだから」
クラリーチェは静かに、しかし鋭く言い放った。
「本気だったんです。俺は……フェリシアが好きでした」
「本気?」
王妃の声が、初めて感情を帯びた。それは――怒りだった。
「あなたが本気だったというのなら、フィオナの時から変わらないわね。あの時も婚約者として守ったことあったの? 違うわ。あなたは立場に甘え、自分の欲望のままに動いただけ」
アレクシスは息を呑んだ。
「そして、フェリシアに至っては……あなたは彼女に何をしてあげたの? デビュタントでは彼女の約束を踏みにじり、学院では目で追うだけ。それで『本気』だと?」
「……」
「あなたは立場に甘えて、誰の心も守れなかった。守る努力すらしなかった。フィオナは傷つき、フェリシアはあなたを見てもいなかった。そして今、守れなかった現実だけが残っているの」
王妃の言葉は、容赦なくアレクシスの心を抉った。
「あなたが本当に本気だったなら、なぜジュリアンのように動けなかったの? 彼は自分の大切な人を守るために、王家すら動かした。それが本気というものよ」
アレクシスは、何も言い返せなかった。プライドも、言い訳も、すべてが砕け散った。
♢♢♢
その日の午後、アレクシスは一人でアナスタシアと対面した。花と緑に囲まれた応接間に用意された紅茶と菓子を前に、彼女は落ち着いた様子で彼を迎えた。少女の姿は小さく、椅子に腰掛けると足が床につかないほどだったが、その眼差しは年齢不相応に鋭かった。
「初めまして、殿下」
彼女の声は、謁見の時よりも柔らかさがあった。
「……よろしく。アナスタシア嬢」
アレクシスは気まずさを隠せず、目線を合わせるのに苦労した。
「殿下、婚約という形を取りますが、私から何かを無理に望むことはいたしません」
アナスタシアは、紅茶をゆっくりと啜りながら言った。彼女はあまりにも冷静だった。
アレクシスは驚いて彼女を見た。
「私は、この婚姻が両国のためであることを理解しています。ですが……殿下は、この婚約についてきちんと理解されていますか?」
その問いは、あまりにも的確だった。アレクシスは言葉に詰まる。
「それは、どういう?」
「殿下がどなたかをお慕いだったことは、噂で聞き及んでおります。ですが……この婚約は、そういったものとは別です。私は形式だけの婚約でも構いません。両国のためになるなら、それで十分です」
アナスタシアは紅茶を一口啜り、少しだけ目を伏せた。
「私たちのような立場に生まれた者は、心と役割を分けて生きていくものです。殿下も、いずれそれを分かられるはずです」
それは、十歳の少女からの――諭しだった。
アレクシスは、何も言えなかった。子供に気を遣われ、慰められている。その事実が、惨めで仕方なかった。
アナスタシアとの面談を終え、廊下を歩くアレクシス。曲がり角の向こうから、声が聞こえてくる。
「殿下、結局フィオナ様もフェリシア様も失ったのね」
「まあ。どちらも殿下のものにはならなかったわ」
「ジュリアン様に完全にやられたわね。まさか王家を動かすなんて」
「次期王妃候補だったベアトリス様も、もう終わりでしょうね」
笑い声が響く。アレクシスは足を止めた。顔が熱くなるのを感じた。怒りか、恥か、それとも――。
だが、何も言えなかった。否定する言葉が、何一つ見つからなかった。
彼は静かに踵を返し、誰にも見られないよう、その場を立ち去った。
♢♢♢
一方その頃、学院内でもこの政略婚の話は一気に広まっていた。廊下や中庭、教室の隅々まで、噂は瞬く間に駆け巡った。
「本当に? アレクシス殿下に正式な婚約者?」
貴族の娘たちが集まる休憩室では、興奮した声が飛び交っていた。
「アウレリス王国の王女様だってよ、しかも魔法学院主席。十歳の子がだよ?」
「あの子、評判じゃ『天才』って呼ばれてるんだってさ」
「年の差あるけど、成人したらすぐ結婚なんでしょ?」
様々な憶測が飛び交う中、ある一人の少女の名前が出た途端、空気が変わった。
「ベアトリス嬢、すっごい顔してた……」
その言葉に、部屋の温度が一度下がったかのように感じられた。誰もが口を噤み、おそるおそる互いの顔を見合わせる。
「誰が言い出したの?この縁談」
「知らないけど……エルディア家からって噂だよ」
その名を聞いた瞬間、皆が意味ありげな視線を交わした。ジュリアンとフェリシアの関係は、周囲には見え透いていたのだ。
ベアトリス・フォルディア。長年、次期王妃候補として貴族派の寵を集めていた彼女にとって、それは決定的な敗北の知らせだった。
♢♢♢
「……まさか、本当に決まるなんて」
自室の鏡の前で、ベアトリスは小さく笑った。顔は笑っていたが、目は笑っていない。そこには怒りと憎しみの炎が燃えていた。
「ええ、もちろん。祝福するわ。王家のご決断なのだから」
彼女は自分自身に言い聞かせるように、鏡に向かって言った。声は震えていなかった。
だが、彼女の指先は――。
(次期王妃。それは、フォルディア家が何年もかけて築き上げてきた、唯一の希望だった)
そんな態度を取れるうちは、まだ余裕がある。だが彼女は知らない。その裏で、自分の悪行を暴くための証拠集めが進んでいることを。
……アレクシスは、なんというか……不憫ですね(笑)
いや、自業自得とも言えるんですが、それでもつい「もうちょっとがんばれよ!」って背中を押したくなる王子です。私的にはですが。
いいところもあるんです(多分)
今回もお読みいただきありがとうございました!




