忙しくも愛しい日々
朝の光が差し込む研究室の窓辺に、ラベンダーの小さな束が吊るされている。ほのかに甘く、やさしい香りが漂っていた。
「……やっぱり、こっちの組み合わせの方が浸透が早い気がするな」
フィオナは試作中のポーションに光魔法を通しながら、小さく呟いた。淡いピンクの液体は、光に触れるとふわりと花のような香りを立ち上らせる。
隣で記録を取っていたクララが顔を上げる。
「フィオナちゃん、さっきのより明らかに魔力の流れがスムーズだったよ。やっぱり香りの影響あるんだね」
「うん。香りが感覚に訴えかけてくると、身体が癒されようとするんだと思う。魔力の流れもそれに引っ張られるみたいな感じ」
クララは真剣な表情で何度もうなずきながら、試験管を持ち上げた。
「これ……すごいね。市販のヒールポーションとは、まるで別物みたい。あたたかくて、やさしい感じがする」
「癒しって、効率や強さだけじゃダメだと思うの」
フィオナは瓶の中で揺れる光を見つめながら続けた。
「心が落ち着いて、ほっとできる感覚があって初めて、本当の治癒が始まるんじゃないかな」
フィオナの手の中、瓶の中で光がふわりと揺れた。
ミルフローラ商会を始めてから、あっという間に二年が経った。今では季節ごとの新作や限定商品を楽しみにする貴族令嬢たちも多く、どの商品も完売続きだ。
けれど、その成功の裏では毎週のように香りの調合や製法の調整に追われている。ポーションの香り付けは、ただ混ぜればいいというものではない。魔力との相性、薬効の変化、保存性や色合い……ひとつひとつ検証しなければならない項目は山のようにある。
クララがちらりとフィオナの横顔を見て、心配そうに声をかけた。
「でも……ほんとに無理しすぎないでね?」
クララは心配そうな目でフィオナを見つめた。
「商会の仕事に、学院の授業に、稽古まで……ぜんぶ全力でやろうとしたら、体がもたないよ」
「ふふ、大丈夫。ちゃんと食べて寝てるし、カイルにも叱られてるから。『倒れたら絶対に許さない』って」
クララは目を丸くした後、ふっと吹き出した。
「……想像できるかも、それ」
魔法学の授業で遅くまで残っていた頃、眠そうなクララを抱えて帰った夜のことを、フィオナはふと思い出した。あの頃より、クララはずっと自信を持った顔をしている。
「ねえ、クララ。私たち、けっこう遠くまで来たよね」
「うん。……でも、まだやりたいこと、いっぱいあるよ」
クララはそう言って、試験管をそっと棚に並べた。
♢♢♢
学院の裏手にある訓練場。日が傾きかけた午後、風が涼しく肌を撫でていた。
「もう一本やるの?だったら今度は踏み込みを深くしてみて」
剣を構えるフィオナに、カイルがいつもの笑顔を向ける。
「はいはい、騎士様。いきますよ」
軽口を叩いてはみたものの、実際に構えると自然と背筋が伸びる。カイルの剣は、いつも真っすぐで、強くて、温かい。
カン、と剣がぶつかる音が空気を裂く。
何度か交差したのち、フィオナのバランスが崩れそうになった瞬間、カイルの腕が自然に伸びて、腰を支えた。
「おっとっと……ナイスキャッチ。無理しすぎだぞ。今日だけで何本目だと思ってるんだよ」
「だって、まだいけそうだったから」
頬を膨らませて言い返すと、カイルは困ったように笑った。
「まだいけそうで倒れたら、意味ないだろ。倒れる前に止めるのも、俺の仕事なんだから」
真顔で言われると、どうしても心臓がきゅっとなる。
「……ありがと」
視線をそらしてそう呟くと、カイルは剣を鞘に収めた。
「じゃ、少し休憩な。相互魔法の方、最後に一本だけやって、今日は終わりにしよう」
フィオナは頷き、カイルの前に立った。両手を伸ばすと、カイルの掌がそっと重なる。
相互魔法の訓練。それは互いの魔力を流し合い、融合させることで新たな力を生み出す特殊な技術。相性がとても良いとされるフィオナとカイルの魔力は、初めて試した時から不思議なくらいよく馴染んだ。
手を重ねた瞬間、ほのかに風が舞い、柔らかな光がその輪郭をなぞる。
「……あったかいね」
思わず口からこぼれた言葉に、カイルがふっと笑う。
「フィオナの光が優しいからな。俺の風も、そうなるんだと思う」
恥ずかしくなって、慌てて目をそらそうとすると、カイルがそっと声を落とす。
「なあ、フィオナ」
「な、なに?」
「その顔、今ちょっと赤い」
「うるさい!」
パッと手を放して、背を向ける。後ろでカイルの笑い声が上がった。
「はいはい、照れた照れた」
「言わないでってば!」
追いかけてくる足音に、フィオナは少しだけ足を速める。だけどその背中は、どこか軽やかだった。
♢♢♢
放課後、カフェテリアのテラス席にはいつもの顔ぶれがそろっていた。
丸テーブルを囲むのは、フィオナ、クララ、シルヴァン、ジュリアン、フェリシア、そしてカイル。
フィオナは両手に銀色のトレイを持って、皆の視線を集めていた。トレイの上には、花の模様が刻まれた透明なティーポットと、香りの立ち上る数種類のハーブティーが注がれたカップが並んでいる。
「持ってきたよー」
フィオナがそう言うと、カイルが当然のように隣の椅子を引いて見せる。
「おかえり。ほら、座って」
「……ありがとう」
さらっとした仕草に、思わず頬がゆるむ。すると向かいのクララがじとっと睨んできた。クララの前には既に彼女お気に入りのアップルティーが置かれている。
「なんかもう、いつものすぎて誰もツッコまないね」
「なにが?」
カイルがキョトンとした顔をすると、クララは「はあ……」と盛大なため息をついた。
その横で、シルヴァンがクララのカップをのぞき込み、さも当然のように手を伸ばす。
「今日はアップルティーか。珍しいな。少し貰うよ」
「ちょ、ちょっと! 勝手に飲まないでよ! まだ熱いのに!」
「……うん、クララらしい、落ち着く味がする。……あちっ」
「だから言ったのに!」
クララは顔を真っ赤にしながらも、心配そうにシルヴァンの口元を見る。その様子を見て、ジュリアンが紅茶を口に運びつつ笑う。
「シルヴァンは、いつも自然体ですね」
「褒められてるのか、それ?」
シルヴァンが笑って返すと、向かいに座るフェリシアが、小さな紙袋をテーブルの中央にぽんと置いた。
「ほら。通り道で買ったやつ。ジュリアン、甘いの好きだっただろ?」
ジュリアンがわずかに目を丸くし、それから柔らかく微笑む。
「……ありがとうございます。フェリシアが、私の好みを覚えていてくださったとは」
「べ、別に……たまたま思い出しただけ! 変な意味じゃないからな!」
わかりやすく目をそらし、耳まで赤くなっているフェリシアに、今度はクララが「おお……」と感心したように呟いた。
「フェリシアがタジタジしてるなんて、珍しい」
「う、うるさい!」
バシッとクララの肩に軽く手が飛ぶ。けれどその手は、いつもよりほんの少し、力が弱い気がした。
笑い声が響く中、フィオナはふと周囲を見渡した。
変わらない日常。だけど——。
(みんな、少しずつ変わってきてる)
隣で無防備に笑うカイルと肩が触れているのに、もうそれを気にする自分はいない。
クララは自分の意見をはっきり言うようになったし、ジュリアンは誰かを真っ直ぐ見つめている。
フェリシアは戸惑いながらも、ちゃんと向き合おうとしている。
この時間が、どれほど大切で愛しいか。
そう思うたび、フィオナの胸はあたたかくなる。
♢♢♢
夕暮れが近づくと、空は茜色に染まり始める。
カフェテリアの喧騒もやわらぎ、学生たちの姿は少しずつ減っていった。
フィオナたちも席を立ち、それぞれの帰り道へと向かっていく。
「じゃ、また明日!」
クララが手を振り、シルヴァンがそれにふんわり笑ってついていく。
フェリシアはジュリアンに軽口を飛ばしながら、けれど歩調はぴったり合っていた。
フィオナとカイルは、並んで学院の庭を歩いていた。赤く染まる道を、風がやさしく通り過ぎていく。
「今日も、いろいろあったね」
そう言ったフィオナに、カイルが軽く笑った。
「いつものってやつだな」
「うん。だけど……たぶん、永遠には続かないんだよね」
ぽつりと漏らした言葉に、カイルが立ち止まる。
フィオナも足を止めて、夕暮れの空を見上げた。
「卒業まで、あと一年。研究所の準備も進んでるし、商会の仕事も……。みんな、それぞれ進んでる」
「……ああ。だからこそ、今を大事にしないとな」
その言葉が、胸に深く届いた。
気づけば、自然と手が伸びていた。
フィオナの指先に、カイルのあたたかな手が重なる。
言葉はなくても、それで十分だった。
今日も、明日も、この時間を積み重ねていけばいい。
そう信じられる、今があるのだから。
今日もお読みいただきありがとうございました!




