社交界デビューは突然に 3
ダンスを終えたフィオナは、人の流れが落ち着いたのを見てフェリシアのもとへ向かった。
柱の陰でグラスを手に一息ついていた彼女は、フィオナに気づいて軽く手を振る。
「お疲れ。ばっちり目立ってたよ、フィオナたち」
「フェリシアこそ。アレクシスと踊ってるの、すごく綺麗だったわ」
「うーん……褒められると困るなあ。あれ、予定外だったんだよね」
そう言いながら、フェリシアは肩をすくめて見せる。平民出身の彼女らしい、飾らない仕草。
「本当はさ、ジュリアンと踊る予定だったの。そしたら直前になって殿下が『君と踊りたい』って有無を言わさず……。王子様相手に断れるわけないじゃない?」
「え……ジュリアンと踊る予定だったの?」
聞き返すフィオナに、フェリシアは「あれ、知らなかったの?」という顔をした。
「うん、ちょっと前に……ジュリアンがね、私にダンスの申し込みをしてくれてさ」
「ダンスの申し込みを……?」
「最初はすごく丁寧な挨拶だったのに、気づけば毎回『今日はご予定ありますか』だの『あなたと話す時間が癒しです』だのって。正直、最初は社交辞令かと思ってたんだけど」
「ジュリアンが……そんなことを……」
双子の弟である彼の真剣な一面を、フィオナはうまく想像できずにいた。
苦笑しながらグラスを傾けるフェリシア。その表情には、困惑もあれば、ほんの少しの照れも混じっていた。
「で……どうなの?」
「うーん、正直まだ考え中。でも、嫌ってわけじゃない。なんていうか、まっすぐなんだよな、あの子」
「ジュリアンが、まっすぐ? ふふ、そうね、想像できるかもしれないわ」
ふたりで顔を見合わせて、くすっと笑う。
「ま、気が向いたら考えるわ。フィオナたちみたいなバカップルを見るのはちょっと……ね」
「わ、私たちは別にバカップルじゃ!」
「はいはい、わかってるって。カイルのことになるとすぐ顔に出るんだから」
軽く肩を突かれ、むずがゆくてフィオナは言い返すのをやめた。
そのとき、会場の向こうから、待ちかねたような声が飛んでくる。
「フィオナ、こっち!」
カイルが手を振っている。視線を向けたフィオナに、フェリシアがふっと悪戯っぽく笑った。
「さ、行ってきなよ。さっきから視界の隅でそわそわしてたしね、あいつ」
「そ、そわそわって……!」
「ま、あんたたち、いいコンビだと思うよ。……ちゃんと大事にしてくれてるの、見ててわかるもん」
ぽん、と背中を押され、フィオナは小さく頷いた。
「フェリシアも……ジュリアンのこと、少しは考えてあげてね」
「はいはい、善処しますって。じゃ、また後でね!」
♢♢♢
カイルのもとへ向かうと、彼は少し緊張した面持ちながらも、嬉しそうに微笑んで立っていた。
「ごめん、呼び出して。でも、少し……話したくて」
彼は周囲を見回した。まだ人の目が多い会場の中で、カイルはわずかに躊躇うように息をつく。
「少し、疲れた? 会場は熱気がすごいから……外の空気を吸いに行かないか?」
心配そうに覗き込む瞳に、フィオナは小さく頷いた。彼の息遣いがすぐ近くに感じられて、心臓が跳ねる。
カイルの誘いに応じ、フィオナは彼に導かれるまま人ごみを抜け、広いバルコニーへと足を運んだ。夜会も終盤に差し掛かり、バルコニーにはひんやりと澄んだ夜風が吹き抜けていた。月明かりだけが、静かに二人を照らしている。
しんとした静けさに、ようやく心の強張りが解けていく気がした。
フィオナは石造りの手すりに両肘をつき、夜空を見上げてそっと息を吐く。満天の星々が、まるで祝福するように煌めいていた。
「……綺麗ね」
「うん。空も、星も……」
カイルが一歩近づき、フィオナの隣に並ぶ。肩と肩が触れ合いそうな距離。その温もりに心臓が高鳴る。
彼はしばし星空を見上げていたが、やがて意を決したようにフィオナに向き直った。
「……でも、今日いちばん輝いてるのは、フィオナだよ」
思いがけない、まっすぐな言葉。いつもの軽口ではない、真剣な声音に彼女の胸は甘く締め付けられる。
「も、もう! そんなこと、急に言わないで……」
顔を赤らめて俯くフィオナに、カイルはくすりと優しい笑みをこぼした。そして、彼女の視線をとらえるように顔を覗き込む。
「だって、本当のことだから。俺、フィオナのこと大好きだしね」
その響きに、フィオナは息を飲んだ。胸の奥に、あたたかく、切ない何かが満ちていく。
並んで立つカイル。月明かりが彼の横顔を優しく照らし、いつもよりずっと大人びて見えた。
静かな沈黙がふたりの間に流れ、夜風の音だけが聞こえる。けれどそれは、とても心地よい沈黙だった。
「……フィオナ」
名前を呼ばれて、彼女は顔を上げる。彼の瞳が、月光を宿してきらめいていた。
「ん?」
いつもの少年らしい笑顔はなく、真剣な眼差しで彼女を見つめている。
「今日、隣にいてくれて……ありがとう」
その一言が、思っていた以上に心に深く沁みた。
カイルはゆっくりと、もう一歩彼女に近づく。
「こっちこそ。迎えに来てくれて、ありがとう」
まるで引き寄せられるように、フィオナもまた彼に向き合う。
ドレスの裾が夜風にふわりと揺れ、ふたりの間に流れる空気がゆっくりと変わっていく。甘く切ない、特別な気配。
「今度は、舞踏会じゃなくても……二人だけで、どこかへ出かけてない?」
少し照れたように尋ねる言葉に、フィオナは小さく、けれどはっきりと頷いた。
「うん、喜んで」
ふと、フィオナがカイルを見上げたその瞬間——
カイルが、彼女の腰に手を回した。しっかりとした、けれど優しい腕。
「来年も、その先も……ずっとフィオナの隣にいたい」
言葉の温度に、頬がますます熱くなる。
彼との距離が、ゆっくりと、確実に縮まっていく。
吐息が触れ合うほど近く。鼓動が聞こえるほど近く。
「……うん。私も」
微かな囁きを残して、フィオナはそっと目を閉じた。
次の瞬間、柔らかな感触が唇に触れる。初めてのキスは、想像していたよりもずっと甘く、春の夜風のように優しかった。
星明かりの下、ふたりの影がひとつに重なる。
ほんの数秒、けれど永遠にも感じられる時間。
唇が離れた瞬間、お互いの瞳に映るのは、照れくささと幸福に満ちた笑顔。
ぎゅっと握られた手のぬくもりが、まだ見ぬ明日へと続いていくようで。
これから先もずっと一緒にいられる——そんな確かな予感が、胸の中で静かに灯っていた。




