社交界デビューは突然に 2
春の夜風が、開け放たれた窓からふわりとカーテンを揺らした。
エルディア公爵家の居館、フィオナの部屋。大きな鏡の前で、彼女はそっと深呼吸をつく。
ピンクシャンパン色のドレスが、キャンドルの灯りに照らされて柔らかく輝いていた。鏡に映る自分の姿を見つめながら、フィオナは満足げに微笑む。
このドレスは特別注文したもの。シルクの上品な光沢は動くたびに色合いを変え、ウエストから流れるように広がるラインが美しく、背中は程よく開き、大人の色気をさりげなく漂わせているデザインだ。一方で胸元の繊細なビーズ刺繍と肩のパフスリーブが可愛らしさを忘れさせない。
「大人可愛い」まさにその言葉がぴったりの一着。
耳元には、碧い宝石のイヤリング。カイルの瞳の色に合わせて選んだお気に入りだった。
「......よしっ」
小さく気合を入れたその瞬間、ノックの音が響いた。
「姉さま、準備はできました?」
扉の向こうから聞こえた声に、「どうぞ」と応えると、ジュリアンが姿を現す。
整った茶髪と理知的なサファイアブルーの瞳。すらりと着こなしたタキシード姿に、思わず息を呑んでしまう。
――うん、さすが攻略対象。ホントに素敵だわ。
内心でゲーム的なコメントをつけながらも、フィオナは小さく微笑んだ。
「うん、大丈夫。ありがとう、ジュリアン」
「ならよかったです。馬車はもう用意されてますよ。カイルは――」
そのとき、背後から足音がして、今度はもう一人の少年が姿を現した。
「フィオナ......」
扉の向こうから現れたのは、淡いピンクの髪を後ろでまとめたカイルだった。
タキシードに身を包み、少し照れくさそうに視線を彷徨わせている。
フィオナもまた、彼を見た瞬間、目を見開いた。
「......かっこよ......」
「えっ、フィオナのほうが......すっごく綺麗......!」
言いかけた言葉が重なって、二人は同時に黙り込む。
数秒の沈黙。
そして、次の瞬間。
「な、なんか変かな!?」「いやいや、綺麗すぎて......!」
お互いを褒め合うように、どこかテンパりながら言葉を交わす二人。
ジュリアンはその様子を無言で見守った後、溜め息をひとつ。
「......じゃあ、先に行きますね」
やれやれ、という顔で踵を返すジュリアン。
「ちょ、ジュリアン、待ってー!」
「ご、ごめんっ!」
ようやく我に返った二人は、慌てて彼のあとを追い、夜会へと向かう馬車へと駆けていった。
王宮の大広間に足を踏み入れた瞬間、フィオナは息を呑んだ。
煌びやかなシャンデリアが天井から降り注ぎ、花々の香りと楽団の演奏が空気を満たす。
春のデビュタントにふさわしく、会場はまるで咲き誇る花園のような華やかさに包まれていた。
「すごい......」
フィオナが思わず立ち止まると、隣のカイルがふっと笑みをこぼす。
「フィオナが一番綺麗だよ」
「も、もう、からかわないでよ......!」
小声でたしなめながらも、顔が熱くなるのを止められない。
そんなふたりの様子を見ていたジュリアンが、咳払いでさりげなく割って入った。
「......さて、そろそろ主賓たちの紹介が始まる頃だ。入りましょうか」
「う、うんっ」
エスコートするカイルの腕に手を添え、フィオナは背筋を伸ばした。
一歩ずつ、広間の奥へと歩を進める。
彼女の登場に、さっそくマダムたちの視線が集まりはじめた。
「まあ、あれがエルディア公爵家のお嬢様?」「随分と愛らしいわねぇ」
「ミルフローラ商会の商品を手掛けたという話、本当かしら?」
噂好きなマダムたちが、さざ波のように押し寄せてくる。
「こちらの春香水、ほのかに甘くて清らかで......あなたの香りかしら?」
「この前のクリーム、どんな素材を使っているの?」
「次はいつ発売されるの?」
あれよあれよという間に質問攻めに遭い、フィオナは少しだけたじろいだ。
けれど、こういうのはもう慣れっこだ。
落ち着いた笑みを浮かべながら、受け答えをしていく。
「ありがとうございます。香りの設計は、季節ごとに変えていまして――」
「肌馴染みをよくするために、植物由来の素材を多く使用しています」
「現在は夏に向けた爽やかなシリーズを準備中です」
丁寧な受け答えに、マダムたちは「まあ!」と感嘆の声を漏らす。
「この子、将来有望ね......」「さすがエルディア家だわ」
その様子を少し離れた場所で見守っていたカイルは、小さく呟いた。
「やっぱ、すごいな......」
すると、そこにアレクシス、シルヴァン、クララ、フェリシアが揃った姿が現れた。
「遅かったな、カイル。お姫様の囲まれっぷり、ちゃんと見てたか?」
「う、うるさいよ、シルヴァン......」
「ふふっ、でも本当に華やかで素敵だわ。フィオナちゃん」
クララの微笑みに、カイルはちょっとだけ胸を張った。
「当然だろ。俺の、......俺が、エスコートしてきたんだからな!」
言い淀んだ『俺の』にシルヴァンがニヤリと笑い、アレクシスがそれをスルーして指を鳴らす。
「始まるぞ。第一曲目の合図だ」
楽団の音色が変わり、会場の照明が少しだけ落とされた。
ざわめきの中からスポットライトがいくつも灯り、舞踏の中心が形作られていく。
「さ、行こうか」
差し出されたカイルの手を、フィオナはそっと取った。
少しだけ緊張する。けれど――
「大丈夫、ちゃんとリードするから」
そう言って笑うカイルの手のひらは、あたたかかった。
次々と現れるペアたち。
フィオナとカイル。
シルヴァンとクララ。
――そして、アレクシスとフェリシア。
その最後の組み合わせに、貴族たちの間に軽いざわめきが走る。
「王太子殿下と、あれはベルグ辺境伯家のご令嬢では......?」
「これは何かの示唆かしら」「婚約の前触れ......?」
そんな空気を振り払うように、楽団の演奏が高まり、踊りの幕が上がった。
カイルのリードは驚くほど自然で、軽やかだった。
「......踊りやすい」
「ふふん、修行の成果。今日は絶対にかっこよく見せたかったからな」
そう言って見つめてくる瞳に、思わず視線を逸らす。
「......ずるいよ、そういうの」
「ずるくていい。今日は、俺とだけ踊ってほしかったから」
ほんの数分の演目。でも、そのすべての間、フィオナの耳には音楽よりも彼の鼓動が聞こえていた気がした。
一方で――
クララの手を取ったシルヴァンは、いつもの調子でさらりとささやく。
「クララ、今日のドレス、似合ってる。ラベンダーの香りも、君らしい」
「そ、そんなの......いきなり言われても......!」
耳まで真っ赤にしてうつむくクララ。
けれどステップは乱れない。意外にも、しっかり踊れていた。
そしてもう一組――アレクシスとフェリシア。
彼の背筋はぴんと伸び、王子としての品格そのもの。
一方のフェリシアは、堂々とした物腰で視線を集める。
その調和はどこか絵画的で、意外なほどに様になっていた。
フィオナは踊りながら、その姿に一瞬だけ目を留めた。
――なんであの二人が?
けれど、次の瞬間にはカイルの声が彼女の耳元に届く。
「よそ見はだめだよ。俺だけ見て」
「......うん」
ふわりと回転し、ライトの下で一瞬きらめいたフィオナのドレス。シルクの上品な光沢が煌めき、広がるスカートは舞い踊る花びらのよう。背中の開きと胸元の繊細な刺繍が、彼女の魅力をさらに引き立てていた。
夜会の中心に、確かに彼女の存在が刻まれていた。




