社交界デビューは突然に 1
放課後の学院前。制服姿のフィオナ、クララ、フェリシアの三人は、並んでエルディア家の馬車へと乗り込んだ。
「本当に今日行くのか? 仕立て屋って、そんなに急ぎの用か?」
フェリシアが腕を組み、やや面倒くさそうに言った。
「春の夜会まであと一ヶ月よ。仕上がりの確認は早い方がいいの」
フィオナが当然のように答えると、クララがやわらかく微笑んだ。
「春の夜会――いわゆるデビュタントね。十六歳になった貴族の子息や令嬢が、初めて社交界に出るための……特別な場よ」
クララは教科書から引用するようにしっかりとした口調で説明した。
「単なるパーティーじゃないの。十六歳の貴族が一人の大人として認められるための儀式でもあるわ。将来の婚姻相手を見つける場でもあるし、何より王族や高位貴族との繋がりを作る重要な機会なのよ」
「知ってるさ。そういうの、私には関係ないと思ってただけでな」
フェリシアは窓の外を見ながら、ぽつりと呟いた。
「でも、フェリシアも出るでしょ? 王族や有力貴族も来るのに、制服じゃまずいわ」
フィオナがさらりと言うと、フェリシアは少し困ったように肩をすくめた。
「出るかどうかも微妙なところだ。それに、万一出るとしても制服だって正式な衣装だろ?」
制服のネクタイを軽く指でなぞりながら、フェリシアは半ば冗談めかして答えた。だが、その目には少しの迷いが浮かんでいた。
馬車が停まったのは、王都中心部の白亜の建物。《メゾン・カリーヌ》――エルディア公爵家御用達の老舗仕立て屋だ。
「……大きいな」
フェリシアが短くつぶやく。
「エルディア家御用達の老舗よ。安心して」
フィオナが扉に手をかけた瞬間、音もなく開かれた。
「フィオナ様のご来店、心よりお待ちしておりました」
「こんにちは。出来上がったと伺いましたが、確認させていただけるかしら?」
フィオナが凛とした声で応じると、店員は恭しく頭を下げ、三人を中へ案内した。
磨き上げられた大理石の床に、天井のシャンデリア、壁には高級生地やリボンが整然と並ぶ。
「……こういう場所って、どうも落ち着かないな」
フェリシアは小声で言いつつも、姿勢は崩さない。
フィオナはそんな彼女に微笑み、「今日くらい、女の子らしく楽しもうよ」とそっと囁いた。
♢♢♢
応接室には、すでに仮縫い段階のドレスが並べられていた。
「こちらが、クララ様のラベンダーカラーのドレスでございます」
店員が恭しく案内した先には、淡く透き通るような布地が、繊細なレースと共に美しく仕立てられていた。ふんわりとしたスカートは歩くたびに揺れ、春の花のようなドレープが幾重にも重なって、可愛らしさと上品さを絶妙に兼ね備えていた。胸元から肩にかけては、小さな花の刺繍が施され、まるで妖精のような愛らしさを醸し出している。
「……わぁ」
クララは目を輝かせ、そっとドレスに近づいた。「思っていたより、ずっと素敵です」
「ラインも完璧ね。やっぱりクララには、柔らかい色が似合うわ」
フィオナが頷くと、クララは少し頬を染めた。
続いて、もう一着が丁寧に運ばれてくる。
「そして、こちらがフィオナ様のドレスでございます。ピンクシャンパンのシルクを使用し、淡い光を纏うような仕立てに」
フィオナのドレスは、成熟した女性の魅力と少女の可愛らしさが絶妙に調和していた。シルクの上品な光沢は動くたびに色合いを変え、ウエストから流れるように広がるライン。背中は程よく開き、大人の色気をさりげなく漂わせながらも、胸元の繊細なビーズ刺繍と肩のパフスリーブが可愛らしさを忘れない。まさに「大人可愛い」の言葉がぴったりの一着だった。
「……やっぱり、綺麗ね」
フィオナが自分のドレスを前に、少し照れたように微笑む。
「このアクセサリー、碧眼の彼がくれたんだろ?」
フェリシアがさらっと言うと、フィオナの肩がピクリと動いた。
「そ、それは…その…その通りです」
フィオナが耳まで赤くなるのを見て、クララがくすりと笑う。
♢♢♢
「申し訳ございません。フェリシア様のご注文は……本日までにいただいておりませんがよろしいのですか?」
「えっ」
クララが小さく声を漏らす。
フェリシアは動じた様子もなく、肩をすくめて言った。
「だろうな。うちの母さん、そういうの気にしない人だから。私も、着るつもりなかったし」
フェリシアは腕を組み、少し顎を上げながら言った。冒険者だった頃の頼もしさは、今でも彼女の身体に染みついていた。
「ちょっと、それ本気で言ってるの?」
フィオナが身を乗り出す。「やっぱり本当に出るつもりなかったの?」
「別に。母も私も、そんなに気にしていなかったんだ」
フェリシアは投げやりな笑みを浮かべる。実際、フィオナやクララほど社交界のしきたりに慣れていない彼女の家では、そこまで重要視されていなかったのだ。
「……でも、フェリシアちゃんも十六歳になったんでしょう?」
クララが静かに尋ねる。「だったら、ちゃんと出たほうが……」
「出たところで、誰が得するんだ? 私がドレスなんか着ても、似合わないと思うし」
そう言いながらも、フェリシアの目は少し寂しげに遠くを見ていた。冒険者のころは決して揺らがなかった心も、この未知の社交界の前では不安に満ちていた。平民だった母親が辺境伯の後妻となり、突然貴族の娘となった彼女の中には、本当は参加したいという気持ちと、場違いな自分が笑われるのではという不安が入り混じっていた。
数秒の沈黙のあと、フィオナはパチンと指を鳴らした。
「よし。じゃあ、今から選びましょう。ここで」
光魔法を共有する特別な絆もあってか、フィオナはフェリシアの内心の迷いを見抜いていた。
「うん! 似合いそうな色、いっぱいありますし!」
「お、おいちょっと……! だから着ないって――!」
「かしこまりました。ただいま、サンプルをお持ちいたします」
「まったく……強引だな、おまえら」
フェリシアは呆れたように言いながらも、どこか頼られることに慣れた姉御肌の表情で、二人を優しく見守っていた。
「ね、フェリシア。ちょっとくらい、楽しんでもいいのよ」
♢♢♢
広げられたデザイン画の中から、クララが差し出した一枚に、フェリシアの視線が止まる。
それは裾に向かってぴたりと沿う、マーメイドラインのドレス。色は柔らかなシャンパンゴールド。高貴さと力強さを湛えるそのドレスは、装飾を必要最小限に抑えた洗練されたデザイン。肩から腰にかけてのラインは引き締まり、膝下から優雅に広がる裾には、金糸の刺繍が施されている。派手さはないが、着る人の佇まいを際立たせる——まさにフェリシアの凛とした美しさを引き立てるために作られたかのような一着だった。
「……これは」
「長身で姿勢がいいフェリシアにはぴったりよ。甘くなりすぎないし、"美しい"って印象になるわ」
フィオナが言う。
試着室へ押し込まれたフェリシアは、「ちょっと! 着替えくらい一人でできる!」と叫びながら扉を閉めた。
しばらくの沈黙の後――
「……出るぞ」
扉が開き、現れたのは、いつもとはまるで違うフェリシアだった。
ぴたりと沿ったシルエットが凛々しく、栗色のロングヘアと金の布が絶妙に馴染んでいる。いつもの冒険者風の実用的な服や制服ではなく、女性らしいドレスを身にまとった彼女は、頼れる姉のような頼もしさと女性としての柔らかさを併せ持つ、まさに「大人の女性」の佇まいだった。背筋を伸ばした姿勢はいつもと変わらないが、その威厳には新たな優雅さが加わっていた。
「……どうせ笑うんだろ?」
だが、フィオナもクララも、ただただ見とれていた。
「笑わないよ。だって……すごく綺麗」
クララがぽつりと呟く。
「うん。完璧よ。強くて、綺麗で、ちょっと意地っ張りなフェリシアにぴったり」
「……ったく、お前らってやつは」
フェリシアは顔を背けながら、小さく笑った。
♢♢♢
日も傾きかけた頃、三人は仕立て屋を後にした。
ショーウィンドウには、ラベンダー、ピンクシャンパン、そしてシャンパンゴールドのドレスが美しく並んでいる。
「ねぇフィオナちゃん。私たち、ちょっと……」
「うん、いい仕事したわぁ」
二人は笑い合う。フェリシアが光魔法の仲間として、そして友人として、彼女たちの輪に入ることを、二人は心から望んでいた。
「言っとくけど、私はまだ行くって完全に決めたわけじゃないからな?」
フェリシアは強がりながらも、指先でドレスの生地を密かに愛おしそうに触れていた。
「はいはい。でも仮縫いの予約、ちゃんと入れてきたから」
「……おまえな」
「春、楽しみですね」
「うん。きっと、素敵な夜になるわ」




