響き合う魔力 1
冬の朝は、すべてが静かだ。
吐く息は白く、石畳には昨夜の雪がうっすらと残っている。カイルとフィオナは肩を並べて学院の門をくぐった。休み明けの始業日、校舎にはまだ完全な熱気は戻っていない。
「……雪、積もらなかったね」
「うん。登校日だったから、ちょっと心配してた」
指先がかすかに触れ、フィオナは少しだけ意識する。カイルは相変わらずの調子で、いつも通りの距離で隣を歩いていた。
冬休み直前、両家の話し合いの末に、正式に"婚約者"となった。
年が明けた今も、学院での関係はほとんど変わらない。でも、ほんの少しだけ。隣に立つことが当たり前になって、そっと手を伸ばすことを迷わなくなった。
変化はささやかで、けれど確かに、始まっている。
そんな登校のひとときに、不意の轟音が響いた。
校舎の奥、実技演習棟のほう。地面が小さく揺れ、空気がぴりりと震える。
「今の……爆発?」
「魔力の揺れだ。けっこう大きい……!」
緊急時の鐘が学院中に鳴り響く。フィオナはすぐに駆け出そうとしたが、カイルが咄嗟に腕をつかむ。
「待って、危ない。俺が先に――」
「だめよ。けが人がいるなら、私が行かなきゃ。治せるかもしれないから!」
その目を見て、カイルはそれ以上何も言えなかった。
♢♢♢
実技演習棟の広場にたどり着いたフィオナは、思わず足を止めた。
鼻をつく焦げた匂いが、まず彼女を襲った。次に目に飛び込んできたのは、黒く炭化した石畳。あちこちに魔力焼けの痕が残り、地面からは青白い霧のような魔力の残滓が立ち昇っている。砕けた地面。ぐにゃりと曲がった金属の柵。
そして、耳をつんざく悲鳴と呻き声。
数は十数人。火傷で赤く腫れた皮膚、裂けた制服から覗く生々しい傷口、魔力障害で震える手足。呼吸が荒く、顔色が青ざめた生徒もいる。中には完全に意識を失って横たわっている者も混じっていた。
空気には、焦げた布と血の匂いが充満し、魔力の残滓が喉を刺すような不快な感覚を残していた。
「……ひどい……!」
教師たちは混乱しており、声だけが大きく、動きが噛み合っていない。「治療班!急げ!」「離れろ、危険だ!」と命令が飛び交うが、誰も全体を把握できていない。周囲に集まった下級生たちは恐怖で顔を引きつらせ、遠巻きに立ちすくんだまま、ただ震えている。
フィオナの耳には、心臓の鼓動と血の気が引く音だけが響いていた。
けれど、その足は自然と一人の生徒へ向かっていた。血に濡れた金髪。不規則で浅い呼吸音。肌には魔力の暴走による紫がかった痣が浮かび、火傷で赤く腫れている。しかし最も目を引いたのは、右腕が不自然な角度に曲がり、腫れ上がっていた。
フィオナは震える手を抑えながら、ポケットから清潔な布を取り出した。彼の額から流れる血の匂いが鉄のように鼻につく。手のひらに彼の体温を感じ、その熱さに驚く。そっと傷口の周囲を拭うと、布が瞬く間に赤く染まった。
「魔法をかける前に……汚れを落とす。出血してるなら、まず止める。骨は……」
彼女の指先が触れると、彼が痛みに顔をゆがめる。その反応にフィオナの胸が締め付けられた。
「今はできることをやるしかない……」
前世で、看護学校で学んだ応急処置の知識が、頭の中を駆け巡る。実習先の病院の消毒液の匂い、教員の指示、緊急対応の手順——それらの記憶が鮮明に蘇る。臨床経験は少なかったけれど、基本的な知識は身についていた。けれどこの世界では、そうした医療の考え方を持つ人は少ない。ポーションで癒せるから、と深く考えずに傷を治そうとする者が多いのだ。
指先に魔力を集中させていくと、フィオナの意識は傷に向かって絞られていった。緊張からか、心臓が早鐘を打ち、周囲の騒めきが遠のいていく。耳元で自分の脈動だけが響く中、彼女は静かに詠唱を始めた。
「光よ……どうか、傷を包み込んで《治癒》」
掌に意識を集中させる。静かに流れる魔力が、患部へと広がっていく。詠唱は短く、それでも十分な癒しの力を持っていた。
「……大丈夫ですよ。すぐに良くなります」
倒れた生徒の呼吸が落ち着き、表情が少し和らぐ。周囲で見ていた他の生徒たちがようやく我に返り、手当を頼む声が次々と飛んでくる。
フィオナは、血と土にまみれた現場をひとつひとつ見回した。
(早く、みんなを治さなきゃ……)
その一心で、次の負傷者のもとへと駆け出した。
「フィオナ!」
声と同時に、風が駆け抜けた。
振り返ると、カイルが走ってくるのが見えた。額には汗、手にはヒールポーションの小瓶が数本握られている。
「無事か!? けがしてないよな……!」
「うん、私は平気。けが人が多くて、でも治療班はまだ来てないの」
「そっか……なら、俺も手伝う!」
息を切らしながらそう言うと、カイルはためらいもなく一人の男子生徒のそばに膝をついた。小瓶のふたを片手で開けると、震える指先で口元に流し込む。
「……飲めた。よし……」
カイルは、ポーションが苦手な生徒には少しずつ染みこませるように腕へたらし、呼びかけながら見守る。まるで自分の痛みのように眉をしかめながら。
フィオナも隣で傷を確認し、呼吸の浅さを見て軽い魔力障害だと判断。自分の魔力を直接流して治療に入った。
ふたりの手が、同じ患者に重なる。
「……カイル」
「ん?」
「あなたの風、少し貸して。患部を冷やしたいの。火傷が、深いの」
「わかった」
カイルは短く答えると、すっと手を添えた。風の魔力が静かに吹き込む。冷やしすぎないよう、フィオナの魔力にあわせて流れを調整する。意識しなくても、自然とそうできていた。
――この感覚、なんだろう。
お互いが、お互いの魔力を邪魔しない。ただ、寄り添っているような。
フィオナは、いつの間にか、詠唱の言葉が口にのぼりかけていることに気づいた。
聞いたことのない言葉。けれど、なぜか確かに正しいと感じられる、そんな言葉だった。




