ふたりの距離、馬車の揺れと
朝の身支度を終えたフィオナは、制服の襟元を整えながら鏡の前でため息をひとつついた。
(変じゃないよね……普通、普通。うん)
でも、どうしたって胸がそわそわしてしまう。
――昨日、カイルと恋人になった。
その事実が、こんなにも世界を変えて見せるなんて。
階下に降りると、玄関にはジュリアンがいつも通りきちんと立っていた。けれど、その目はやや鋭く光っている。
「姉さま。今日の姉さまは、少し様子が違いますね」
「う、うそ……そうかな?」
「……カイル、ですね」
「ずっと、姉さまを見てきたやつですから。気づかない方がおかしい」
「ジュリアン……」
「……正直、複雑な気持ちがないと言えば嘘になります」
思わず身構えたフィオナの前で、ジュリアンはふっと笑った。
「でも、姉さまが笑っているのなら、それが正解なんでしょう。……よかったですね」
その言葉には、心からの良かったが込められていた。
♢♢♢
学院の門前。フィオナが馬車から降りると、カイルが待っていた。
「おはよ、フィオナ」
「おはよう……」
「手、つないでいく?」
カイルが少し照れた様子で言った。
「その方が、ちゃんと付き合ってるって分かるし」
「え……う、うん」
差し出された手を握ると、並んで歩くだけで、顔が熱くなる。
周囲からはすぐにざわめきが広がっていった。
「え、なに? カイル様とフィオナ様って、付き合ってるの!?」
「マジで!?いつから!? 知らなかったんだけど!?」
「いやでも、確かに少し前からちょっと距離近かったかも……」
たちまち噂が飛び交い、教室に入る頃にはすっかり話題の的になっていた。
その騒ぎを引き連れるように、シルヴァンがひょいと現れる。
「へぇー、本当に付き合っちゃったんだ。いやあ、まさかカイルに春が来るなんてねぇ」
「うるせぇ」
即答するカイルだが、フィオナには彼の耳が少し赤くなっているのが見えた。シルヴァンはフィオナににっこりと笑いかけた。
「フィオナ、もしカイルに飽きたら――」
「飽きないよ!フィオナは、俺のだ」
すっと背後からフィオナを引き寄せるカイル。その手の温かさに、フィオナは心臓が跳ねるのを感じた。
「……っ! カイル!」
「なんか文句あんのかよ、シルヴァン」
カイルの声は強気だが、フィオナを抱く腕は優しい。
「はいはい、ヤキモチごちそうさま~」
その直後、横から飛びついてきたのはフェリシアだった。
「うんうん、めでたいね~! フィオナ、カイル、おめでとう!」
「わ、フェリシア、ちょっと……!」
「照れてるの可愛いな~。うんうん、いいぞ青春!」
教室中が笑いと茶化しの空気に包まれた中――
ジュリアンが静かに教室に入ってきた。
そして、カイルの方を見て、ほんの少しだけ口角を上げた。
「……笑わせてあげてください。姉さまの隣でずっと」
その一言に、カイルは静かに頷いた。
♢♢♢
放課後、フィオナとカイルは二人で馬車に乗って帰ることになった。狭い車内で隣り合って座る二人。窓の外では冬の始まりを告げる冷たい風が木々を揺らしている。
馬車の小さな揺れに身を任せながら、少し勇気を出すように、フィオナはカイルの方に体を向けた。
「ねえ……わたしと一緒にいて、迷惑じゃない?」
「は?」
カイルの眉が少し寄る。
「だって、今日みたいに騒がれて、ちょっと気になるかなって……」
フィオナの視線が揺れる。カイルは彼女の方に体を向け、そっと彼女の頭に手をのせた。
「バカ。そんなわけねーって」
声は強く、でも目は優しい。
「……っ」
「フィオナが隣にいてくれるのが、俺にとって一番嬉しいんだから」
カイルはめずらしく素直な声で言った。
フィオナの胸が、ぽんと跳ねる。それは、昨日告白された時よりも強い鼓動。
言葉だけで、また一歩、彼のことが好きになる。今までの気持ちより、もっと深く。
「……手、つないでもいい?」
そっと囁くように。
「うん……」
カイルの声も少し上ずっている。
馬車の中、二人だけの小さな世界で、繋いだ指先が、あたたかくて、どこまでもやさしい。
窓の外には街並みが流れていく。少しずつ緊張がほぐれていくのを感じながら、フィオナはそっとカイルの肩に頭を乗せた。初めての仕草に、一瞬カイルの体が固まる。でもすぐに、彼は安心したように息を吐き、フィオナの方に身を寄せた。
「……いいの?」
フィオナの小さな声。
「ああ」
短い返事の中に、たくさんの想いが込められている。
カイルの肩の温もりと、握り合う手のひらに、幸せがじわじわと広がっていく。
(こんな時間が、ずっと続けばいいのに)
その感情だけが、彼女の心に、そっと色鮮やかに咲いていた。
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