瘴気晴れても、晴れぬ想い
週末の午後、市街地はいつもより人が多かった。露店が並び、子どもたちの笑い声が響き、買い物袋を抱えた人々が往来する中――突然、空気が変わった。
「な、なに……この感じ……?」
突如、冷気にも似た瘴気が風に乗って流れ込む。誰かが叫んだ。
「魔物だ!! 瘴気をまとってる!」
広場の中央、地面の割れ目から這い出たのは、低位の魔物。黒い体毛に瘴気をまとうそれは、本来なら兵士が速やかに処理する程度の存在。だが、群れで現れたことで状況は一変した。
「きゃああああっ!」
「早く逃げて! 子どもが――!」
「助けて! こっちにも来る!」
「瘴気だ、息ができない!」
パニックに陥った人々の叫び声が響く中、フィオナは真っ先に駆け出していた。
「魔物のことは――フェリシアとカイルがいる! わたしは……!」
目に飛び込んできたのは、倒れて泣いている子ども、動けなくなっている老婆、負傷した青年。瘴気のせいで、皆がうまく動けない。
(今、やらなきゃ。わたしが癒さなきゃ――!)
ひとりの子どもに駆け寄り、傷を確認。額と腕に擦り傷。泣きじゃくる目に不安が浮かんでいる。
「大丈夫。すぐに治るからね」
深呼吸し、手をかざす。
「光よ、命の形を識り、穢れを祓い、癒しとなれ――《静癒》。」
光が彼女の手元でやさしく広がり、傷を包む。子どもの表情が少しずつ和らぐ。
それを終えると、すぐに次の人へ。青年の腹部には裂傷があり、出血もひどい。
「くっ……!」
焦る。魔力の流れを整え、ふらつく意識を立て直す。
「癒しの光よ、痛みを包み込んで……《治癒》」
手のひらが光る。血が止まり、傷口がふさがっていく。治癒が完了するたびに、魔力がごっそり削られていく感覚。
(……まだ、いける)
フィオナは歯を食いしばりながら走った。崩れた石畳の上に倒れている母子。瘴気にあてられて呼吸が浅い。
「お願い……!」
魔力を込める。
「熱を包み、奥の炎を鎮めて――やさしい光よ、届いて……《静癒》」
再び光。身体の奥まで魔力が削られ、足元がふらつく。だが、手を止めるわけにはいかなかった。
そのとき、戦場の向こう側で鮮烈な光が走った。
「光よ、浄めの槍となりて、穢れを貫け――《閃光槍》!」
鋭い声が空を裂き、魔物の群れに一直線に光の槍が突き刺さる。爆ぜる光の柱が瘴気を吹き飛ばし、複数の魔物が断末魔を上げて消えていった。
(フェリシア……!)
戦う少女の姿は、光の巫女のごとく神々しく輝いていた。髪をなびかせながら、次々と魔法を繰り出す。
「カイル、そっちの背後、回り込むよ!」
「おう!」
カイルの剣と風魔法、フェリシアの光魔法。二人の動きは、幾度もの戦いで磨かれた絆の証だった。
(すごい……でも、わたしは――)
思考が揺れる。
その間にも、治療を求める声が耳に届く。フィオナはもう一度、魔力を絞り出すようにして膝をついた。
「熱を包み、奥の炎を鎮めて――やさしい光よ、届いて……《静癒》」
その光は今までよりも弱かった。それでも、子どもの症状は治まり、母親が泣きながら礼を言った。
(……もう限界……)
視界が滲む。足がうまく動かない。だが、まだ倒れている人が見える。
(わたし、まだ――)
その瞬間、身体が傾いた。
「フィオナ!!」
叫び声とともに、誰かが駆け寄る気配。地面に倒れかけたフィオナを、両腕がしっかりと支えた。
「……カイル……?」
「おまえ、バカか! 魔力、もう限界超えてるだろ!」
怒ったような声。けれどその手は、震えるほど強く、優しかった。
「……だって……助けなきゃ……」
「倒れてどうすんだよ。おまえが無理したら、助けられるはずの人が、今度はおまえを助けなきゃならなくなるんだぞ!」
いつもより口調は荒いのに、どうしてこんなに安心するんだろう。
「お姫様抱っこされたいならいいけど、勝手に倒れるのはナシな」
「……やめて……それは恥ずかしい……」
カイルに支えられながら、なんとか立っていたそのとき。
「――このあたりの瘴気、残りすぎてる。もう終わらせるね」
フェリシアが前に出た。風に揺れるポニーテールを翻し、両手を広げる。
「フェリシア……?」
彼女は深く息を吸い、まっすぐ前を見据えた。
「光よ、穢れの流れを見極め、淀みを絶て――清らなる光の環となり、浄めよ……《聖浄結界》!」
その詠唱と同時に、まぶしい光が地面を走った。
空気が澄む。灰のように漂っていた瘴気が、まるで霧が晴れるように次第に消えていく。
光の波動が街路を包み、残っていた魔物の残滓と穢れを根こそぎ祓い落としていく。
「……すごい……」
ぽつりと漏らす。フィオナはその光景をただ見つめていた。
戦いの終わりを告げる浄化の光だった。
光が静かに収束したとき、広場には澄んだ風が吹いていた。
フェリシアがゆっくりとこちらに歩いてきて、そして言った。
「――ああ、やっぱり」
その声は、静かに、でも確信をもって響いた。
「フィオナを守りたいって、思ってるんでしょ。カイル」
一瞬、時間が止まったようだった。
カイルは返事をしなかった。ただ、フィオナを支える腕に、少しだけ力を込めて――そして、目を逸らした。
(……なんで、何も言ってくれないの?)
胸の奥で、なにかが大きく脈打った。
瘴気はすべて晴れた。空気は清らかになった。でも、心に残ったこの想いだけは、誰にも癒せなかった。




