わたしの知らない彼
昼休み、学院の誇るフラワーガーデンに集まった五人――フィオナ、カイル、クララ、ジュリアン、そして転入してきたフェリシア。
設立時より伝わる気候制御の魔法陣が張り巡らされたこの空間は、外では厳しい寒さが始まっていても、常に穏やかな陽気と花々の香りに満ちていた。水晶のように透き通った天窓から差し込む光の中、白い籐のガーデンセットで、彼らは午後のお茶を楽しんでいた。
「そういえば、覚えてる?」
フェリシアが紅茶の入ったカップを持ち上げながら、目を細めた。
「北の湿地帯でさ、カイルが身体中泥だらけになって橋を渡って――」
「うわ、それ今ここで話す!?」
カイルが身を乗り出し、耳まで赤くなった。
フェリシアが鈴のような笑い声を響かせる横で、カイルは困惑と懐かしさが入り混じった表情で髪をかき上げた。その恥ずかしさからか頬が熱を帯びている。
「だって面白かったし。でもさ、あの時は本気で焦ったよ。無茶しすぎって怒ったの、覚えてる?」
「……ああ、言われたな。あれからは、ちゃんと考えて動くようにしてる」
フェリシアはふっと微笑んだ。
「カイル、前から言ってたよね。守りたい人がいるから、絶対に強くなるんだって」
その言葉に、フィオナの胸が、冷たい氷の欠片で突き刺されたように痛んだ。フラワーガーデンの魔法で守られた穏やかな空気の中にいるのに、彼女の心だけが凍りついていく。
(……守りたい人?)
笑い合う二人の間には、よそ者には決して踏み入れない、彼らだけの世界を作り出している。
(……そんなこと、聞いたことない)
それだけじゃない。
(冒険者だったことも、昨日初めて知ったし)
隣で笑っている彼が、学院に入る前に一年半、冒険者をしていたこと。
その間に、フェリシアと共に危険と隣り合わせの任務を幾度となくこなし、互いの命を預け合う関係だったこと。
どうして、こんな大切なことを、カイルは一言も話してくれなかったのか。
(わたし、知ってるつもりで……カイルのことは影も形も掴めていなかったんだ)
胸の奥に、冷たい雪解け水のような苦さが滲み出し、少しずつ全身に広がっていく。周りの話し声も、笑い声も、遠くから聞こえる鐘の音さえも、どこか遠ざかっていくようだった。
♢♢♢
放課後、窓が曇った馬車の中。ジュリアンが、銀の懐中時計を一瞥しながら静かに口を開いた。
「フェリシア嬢は、今日一日ご一緒してみて思いましたが、落ち着いた風格のある方でしたね。不思議と場の空気を読む力がある」
「うん、そうだね。すごく……」
フィオナは窓の外の灰色の空を見つめながら言葉を選んだ。
「しっかりしてた」
言葉に力が込められず、茫然と投げ出したような返事に、自分でも驚いた。豪華な馬車の中の暖かさが、皮肉にも心の冷えを際立たせる。
「光魔法の使い手というだけでなく、実戦経験も豊富なようです。カイルとは、一年半ほど冒険を共にされたとか」
「カイルと一緒に一年半……」
思わず出た声に、ジュリアンがこちらを見る。
「あ……ごめん」
「驚かれるのも無理はありませんね。カイルが冒険者をしていたこと、僕も最近知ったばかりです。フェリシア嬢は、二年間活動していたとか」
(そうなんだ……わたし、ほんとに、なにも知らなかったんだ)
フィオナは思わず視線を落とし、手袋越しに自分の指先を強く握りしめた。温もりのはずなのに、どこか虚ろな感触。
「……姉さま?」ジュリアンが身を乗り出し、肩に触れた。その温かい指先が、余計に胸の冷たさを際立たせる。
「大丈夫、ちょっと考え事してただけ」と言ったものの、口元は引きつり、作り笑いは崩れ落ちそうだった。馬車の揺れる音だけが、沈黙を埋めていく。
♢♢♢
夜。窓の外では初雪が舞い始め、豪華な寝室を青白く照らしている。暖炉の傍らに置かれた銀の器のポプリから柑橘の香りを放っているのに、フィオナの心は氷のように冷たいままだった。ベッドに横たわりながら、彼女は天井を見つめていた。
ふと、昼間のフェリシアの言葉が雪の結晶のように鮮明に蘇る。
『カイル、前から言ってたよね。守りたい人がいるから、絶対に強くなるんだって』
(……その言葉、わたしじゃなくて、フェリシアが知ってた)
(それだけじゃない。冒険してたことも……どんなことを考えてきたのかも)
(全部、わたしじゃない誰かが知ってた)
どうして、こんなに心が凍えるように痛むのだろう。
嫉妬? 寂しさ? 置いていかれた孤独? それとも裏切られたような怒り?
(わたし、カイルに何を求めて、何を期待してたのかな……)
彼の過去を知らなかったことで、まるで自分の存在そのものが薄れていくような、幻だったかのような喪失感に襲われていた。昔から知っている幼馴染みたいな彼が、突然見知らぬ人のように感じられる。
(それなのに、知らなかっただけで、どうしてこんなに胸が締め付けられるんだろう)
心の奥から、静かに、けれど確かな声で問いが浮かび上がる。
(……ねえ、わたし、カイルのことを、どう思ってるの?)
答えは、まだ明確な形を持たない。
フィオナの胸に芽生えた感情は、冬の始まりを告げる初雪のように、静かに、けれど確かに降り積もっていた。




