私は、私。ここからまた始めよう
馬車の車輪が石畳を叩く音が、かすかに耳に届いていた。
エルディア家の紋章が刻まれた馬車。その中で、フィオナは背筋を伸ばして座っていた。窓の外には、秋の気配が色濃く漂っている。秋の始まりに開かれた、魔法決闘祭から、ちょうど二週間。ようやく怪我も癒え、今日から学院に戻ることになったのだ。
けれど、その足取りは軽いとは言いがたかった。手のひらに汗が滲み、呼吸が浅くなるのを感じた。
「姉さま、緊張してます?」
隣に座っていたジュリアンが、そっと問いかけてくる。その声音は穏やかで、いつものように冷静だった。弟の落ち着いた声に、フィオナは少しだけ緊張が解けるのを感じる。
「……うん。ちょっとだけ」
「顔、こわばってますね。……まぁ無理もありませんが」
ジュリアンは軽く息をついた。
「でも、大丈夫ですよ。姉さまは何も悪くありません。王家が正式に解消と発表しているのですから。それ以上は誰にも何も言わせません」
言葉に、フィオナは小さくうなずく。そうだ、と頭では分かっている。
けれど、胸のあたりがキュッと締め付けられるような感覚。緊張とも不安とも違う、もっと深くて重いもの。これは、もう終わったこと。王家がそう声明を出した。父も、母も、ジュリアンも、みんな自分を責める必要はないと言ってくれた。
でも、それでも。
心のどこかで、きっと噂は消えていない。冷たい視線も、好奇の目もある。それを知っているからこそ、フィオナは馬車を降りる瞬間、思わず目を閉じた。足が鉛のように重い。
門の前には、すでに何人もの生徒たちが登校してきていた。貴族派の女子生徒たちの集団。視線を感じた。ちらりとこちらを見て――口元を寄せてひそひそと何かを囁く。フィオナの両耳が熱くなる。
「――婚約、破棄されたんですって」
「まあ、かわいそうにねぇ……」
「でも、公式には解消ってことになってるけど。実質、破棄でしょ?」
耳には届かないはずの声が、どうしてか心にまで染み込んでくる。針のように鋭く。視線が、足元へと落ちかけたその時――
「姉さま」
隣から呼ばれて、はっとする。肩がびくりと跳ねた。ジュリアンが、まっすぐ前を見たまま言った。
「堂々と行きましょう。何も恥じることなんてしていないんですから」
フィオナは、息を吸い込んだ。胸いっぱいに冷たい空気を。
顔を上げ、背筋を伸ばす。そして、ジュリアンと肩を並べて教室のある棟へと歩き出した。一歩。また一歩。
階段を上がり、いつもの教室の前に立ったとき、フィオナの心臓は小さく跳ねた。ドクン、ドクンと耳元で脈打つ音。緊張が手先にまで伝わる。指先がわずかに震える。けれど、扉を開ける手は――震えていなかった。不思議と、その瞬間だけは落ち着いていた。
ジュリアンが先に一歩を踏み出す。そして、フィオナも続く。
教室の中には、すでに何人もの生徒たちが集まっていた。話し声が飛び交う中、一瞬だけ空気が止まる。誰かの視線が、確かに自分をなぞった気がした。背筋を冷たいものが走る。
けれど。
「おっ、フィオナ! おはよー!」
明るい声が教室に響いた。
窓際の席から、立ち上がって大きく手を振る。いつも通りの無邪気な笑顔。いつもの、元気なカイル。その変わらない笑顔に、胸の底に、小さな灯がともった。
「フィオナちゃん!」
クララが席から立ち上がり、ちょこちょこと小走りで近づいてくる。肩までの藍色の髪がやわらかく揺れて、笑顔のままフィオナの手を握った。柔らかい、温かい手。
「よかった……元気そうで。ずっと心配してたんだよ」
「ありがとう、クララ。……わたしも、会えて嬉しい」
ほんのり涙ぐんだようなクララの顔に、フィオナも自然と笑みを返す。頬の筋肉が動くのを感じる。久しぶりの笑顔。
「おはよう」
すぐそばから静かな声が届いた。振り向けば、アレクシスが立っていた。目を伏せ気味にしながらも、どこか安心したような表情だった。彼の姿を見た瞬間、胸がキュッと締め付けられる。
「……もう無理はするなよ」
短く言い添えたあと、彼はすぐに席へ戻っていった。その背中を目で追う。何か言いたそうで、けれど言葉を探しているような、そんな様子だった。
「思ってるより元気そうで何よりです」
ユリウスが言ったのは、それだけだった。相変わらず無駄な言葉はなく、けれどその目はきちんとフィオナを見ていた。言葉は少なくても、その真剣なまなざしに、フィオナは救われた気がした。
「……あ」
その時、教室の扉がゆっくりと開いた。
遅れて入ってきたのは、銀髪長身の少年――シルヴァンだった。ゆったりとした動きで教室に入ってきた彼は、眠そうに欠伸をひとつ。
「ん……あれ、フィオナ? やっと戻ってきた?」
軽い調子ながら、その言葉にどこか嬉しさがにじんでいた。
「うん、今日からまた」
そう答えたフィオナの声に、今度は本当の安心が混じっていた。声が自分の耳に戻ってきて、それが意外なほど普通の声で驚く。
――みんな、いつも通り。
変わってしまったことは確かにある。けれど、こうして迎えてくれる仲間がいる。それが、こんなにも心強いことだったなんて。
フィオナは、ゆっくりと自分の席へと向かった。机に触れる。椅子を引く。座る。普段と同じ動作なのに、今日は特別な重みがあった。
始業の鐘が鳴り、授業が始まると、教室は一時的に静けさを取り戻した。
けれど、それはほんのひとときのこと。
最初の授業が終わって休み時間になると、教室のあちこちに、再び声にならない声が広がり始めた。ざわざわ、くすくす。肌をなでる風のように感じる視線。
誰も正面から言葉にしない。けれど、その視線、低く抑えたささやき、そして微妙に距離を取る態度――それらはすべて、フィオナの存在を中心に渦巻いていた。皮膚が敏感になったように、すべてを感じ取ってしまう。
「やっぱり婚約、破棄されたんだって」
「治癒の力だけで王妃なんて、最初から無理があったのよ」
「でも、王家の声明って建前でしょ?本当は、追い出されたんじゃ」
耳には届かないように囁かれているはずの声が、不思議とすべて聞こえる気がする。一言一言が頭の中で反響する。
ノートを開いた手が止まり、フィオナの視線が自然と下を向きかける。
(やっぱり、わたしは……)
喉が締まる。視界がぼやける。
「おい!」
教室に、鋭くて明るい声が飛んだ。ガタンと椅子が動く音。
フィオナがはっと顔を上げた時には、カイルが立ち上がっていた。机に片手を置き、睨みをきかせながら、教室の一角をまっすぐに指差していた。普段は柔らかな彼の表情が、今は怒りで引き締まっている。
「こそこそ言ってるけど、聞こえてんぞ。本人の前で言えるなら言ってみろよ!」
思わぬ怒声に、空気が一瞬で凍りついた。しん、と静まりかえる教室。
「な、なによ……別に悪口なんて――」
戸惑いながら言い訳を始めた貴族派の女子生徒の一人。
「フィオナちゃんは、何も悪くないよ」
静かだけれど、はっきりとした声が響いた。
クララが、フィオナの手を握ったまま、まっすぐに前を見ていた。いつもは優しげな表情に、珍しく強い意志が宿っている。
「みんな、いろんなこと言うけど、でも、私は知ってるよ。フィオナちゃんが、どれだけ頑張ってきたか。どれだけ人のために、力を使ってきたか」
その言葉は、胸の奥にまっすぐ届いた。氷が溶けるように。心のどこかでまだ「わたしのせいかもしれない」と思っていた部分に、そっと光を灯すように。
「王家の声明は公式なものですよ」
冷静な声が、教室に響いた。ユリウスだった。
「フィオナ・エルディア嬢に責はない、と明言されている。それを憶測で語ることは、王家への不敬に当たる可能性がありますが……理解されていますか?」
淡々とした口調。けれど、その言葉には重みがあった。貴族派の生徒たちの顔色が変わる。
「あー、まぁそういうことだ」
シルヴァンが、欠伸をしながらも、その場の空気を一刀両断するように言った。
「うかつに何か言えば、面倒なことになるぞ。俺は巻き込まれたくないからな」
軽い調子だが、その言葉には明確な牽制が込められていた。
教室全体が、完全に沈黙した。針が落ちる音さえ聞こえそうな静けさ。
そして――
「すまなかった」
低く、絞り出すような声が聞こえた。
アレクシスだった。席に座ったまま、俯いている。拳を握りしめて、何か言いたそうにしているけれど、言葉が出てこない様子だった。
「フィオナ、君に……様々なことを背負わせた。守れなかった。本当に、すまなかった」
その声は震えていた。不器用で、拙くて、けれどその言葉には確かな後悔が込められていた。
フィオナは、何も言えなかった。言葉が喉に詰まる。ただ、胸の奥がふわりと揺れた。そして、熱いものが瞳の奥に広がるのを感じた。
それでも、その不器用な謝罪は、確かにフィオナに届いていた。
「ありがとう、クララ……みんなも」
フィオナの声は、小さく震えていた。喉の奥に熱いものがこみ上げる。
「ま、アイツらに何言われても気にすんなよ!」
カイルが、ぼりぼりと頭をかきながら、照れくさそうに言った。そのぎこちない仕草に、思わず笑みがこぼれる。
「俺は、ちゃんと見てたから。魔法決闘祭のときも……それよりもずっと前からさ」
その目は真剣だった。いつもの元気な声の奥に、揺るぎない思いがにじんでいる。
フィオナは、静かに目を閉じる。長いまつげが頬に影を落とす。そして、深く息を吸い込んだ。肺いっぱいに空気を。
あのとき、確かに痛かった。苦しかった。
過去がどうであれ、ここにいて、歩ける足がある。鼓動する心臓がある。
傷ついて、転んで、それでも。また立ち上がればいい。一歩ずつでも。
もう一度、前を向けばいい。
(わたしは――ここからまた始めよう)
光を宿した瞳が、真っ直ぐに、未来を見つめていた。




