表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢、チュートリアル担当の騎士と結婚したら破滅回避できました 〜攻略難易度★☆☆☆☆の彼が最高の旦那様でした〜  作者: 梅澤 空


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

64/81

私は、私。ここからまた始めよう

馬車の車輪が石畳を叩く音が、かすかに耳に届いていた。


エルディア家の紋章が刻まれた馬車。その中で、フィオナは背筋を伸ばして座っていた。窓の外には、秋の気配が色濃く漂っている。秋の始まりに開かれた、魔法決闘祭(デュエルフェスタ)から、ちょうど二週間。ようやく怪我も癒え、今日から学院に戻ることになったのだ。


けれど、その足取りは軽いとは言いがたかった。手のひらに汗が滲み、呼吸が浅くなるのを感じた。


「姉さま、緊張してます?」


隣に座っていたジュリアンが、そっと問いかけてくる。その声音は穏やかで、いつものように冷静だった。弟の落ち着いた声に、フィオナは少しだけ緊張が解けるのを感じる。


「……うん。ちょっとだけ」


「顔、こわばってますね。……まぁ無理もありませんが」


ジュリアンは軽く息をついた。


「でも、大丈夫ですよ。姉さまは何も悪くありません。王家が正式に解消と発表しているのですから。それ以上は誰にも何も言わせません」


言葉に、フィオナは小さくうなずく。そうだ、と頭では分かっている。


けれど、胸のあたりがキュッと締め付けられるような感覚。緊張とも不安とも違う、もっと深くて重いもの。これは、もう終わったこと。王家がそう声明を出した。父も、母も、ジュリアンも、みんな自分を責める必要はないと言ってくれた。


でも、それでも。


心のどこかで、きっと噂は消えていない。冷たい視線も、好奇の目もある。それを知っているからこそ、フィオナは馬車を降りる瞬間、思わず目を閉じた。足が鉛のように重い。


門の前には、すでに何人もの生徒たちが登校してきていた。貴族派の女子生徒たちの集団。視線を感じた。ちらりとこちらを見て――口元を寄せてひそひそと何かを囁く。フィオナの両耳が熱くなる。


「――婚約、破棄されたんですって」


「まあ、かわいそうにねぇ……」


「でも、公式には解消ってことになってるけど。実質、破棄でしょ?」


耳には届かないはずの声が、どうしてか心にまで染み込んでくる。針のように鋭く。視線が、足元へと落ちかけたその時――


「姉さま」


隣から呼ばれて、はっとする。肩がびくりと跳ねた。ジュリアンが、まっすぐ前を見たまま言った。


「堂々と行きましょう。何も恥じることなんてしていないんですから」


フィオナは、息を吸い込んだ。胸いっぱいに冷たい空気を。


顔を上げ、背筋を伸ばす。そして、ジュリアンと肩を並べて教室のある棟へと歩き出した。一歩。また一歩。


階段を上がり、いつもの教室の前に立ったとき、フィオナの心臓は小さく跳ねた。ドクン、ドクンと耳元で脈打つ音。緊張が手先にまで伝わる。指先がわずかに震える。けれど、扉を開ける手は――震えていなかった。不思議と、その瞬間だけは落ち着いていた。


ジュリアンが先に一歩を踏み出す。そして、フィオナも続く。


教室の中には、すでに何人もの生徒たちが集まっていた。話し声が飛び交う中、一瞬だけ空気が止まる。誰かの視線が、確かに自分をなぞった気がした。背筋を冷たいものが走る。


けれど。


「おっ、フィオナ! おはよー!」


明るい声が教室に響いた。


窓際の席から、立ち上がって大きく手を振る。いつも通りの無邪気な笑顔。いつもの、元気なカイル。その変わらない笑顔に、胸の底に、小さな灯がともった。


「フィオナちゃん!」


クララが席から立ち上がり、ちょこちょこと小走りで近づいてくる。肩までの藍色の髪がやわらかく揺れて、笑顔のままフィオナの手を握った。柔らかい、温かい手。


「よかった……元気そうで。ずっと心配してたんだよ」


「ありがとう、クララ。……わたしも、会えて嬉しい」


ほんのり涙ぐんだようなクララの顔に、フィオナも自然と笑みを返す。頬の筋肉が動くのを感じる。久しぶりの笑顔。


「おはよう」


すぐそばから静かな声が届いた。振り向けば、アレクシスが立っていた。目を伏せ気味にしながらも、どこか安心したような表情だった。彼の姿を見た瞬間、胸がキュッと締め付けられる。


「……もう無理はするなよ」


短く言い添えたあと、彼はすぐに席へ戻っていった。その背中を目で追う。何か言いたそうで、けれど言葉を探しているような、そんな様子だった。


「思ってるより元気そうで何よりです」


ユリウスが言ったのは、それだけだった。相変わらず無駄な言葉はなく、けれどその目はきちんとフィオナを見ていた。言葉は少なくても、その真剣なまなざしに、フィオナは救われた気がした。


「……あ」


その時、教室の扉がゆっくりと開いた。


遅れて入ってきたのは、銀髪長身の少年――シルヴァンだった。ゆったりとした動きで教室に入ってきた彼は、眠そうに欠伸をひとつ。


「ん……あれ、フィオナ? やっと戻ってきた?」


軽い調子ながら、その言葉にどこか嬉しさがにじんでいた。


「うん、今日からまた」


そう答えたフィオナの声に、今度は本当の安心が混じっていた。声が自分の耳に戻ってきて、それが意外なほど普通の声で驚く。


――みんな、いつも通り。


変わってしまったことは確かにある。けれど、こうして迎えてくれる仲間がいる。それが、こんなにも心強いことだったなんて。


フィオナは、ゆっくりと自分の席へと向かった。机に触れる。椅子を引く。座る。普段と同じ動作なのに、今日は特別な重みがあった。


始業の鐘が鳴り、授業が始まると、教室は一時的に静けさを取り戻した。


けれど、それはほんのひとときのこと。


最初の授業が終わって休み時間になると、教室のあちこちに、再び声にならない声が広がり始めた。ざわざわ、くすくす。肌をなでる風のように感じる視線。


誰も正面から言葉にしない。けれど、その視線、低く抑えたささやき、そして微妙に距離を取る態度――それらはすべて、フィオナの存在を中心に渦巻いていた。皮膚が敏感になったように、すべてを感じ取ってしまう。


「やっぱり婚約、破棄されたんだって」


「治癒の力だけで王妃なんて、最初から無理があったのよ」


「でも、王家の声明って建前でしょ?本当は、追い出されたんじゃ」


耳には届かないように囁かれているはずの声が、不思議とすべて聞こえる気がする。一言一言が頭の中で反響する。


ノートを開いた手が止まり、フィオナの視線が自然と下を向きかける。


(やっぱり、わたしは……)


喉が締まる。視界がぼやける。


「おい!」


教室に、鋭くて明るい声が飛んだ。ガタンと椅子が動く音。


フィオナがはっと顔を上げた時には、カイルが立ち上がっていた。机に片手を置き、睨みをきかせながら、教室の一角をまっすぐに指差していた。普段は柔らかな彼の表情が、今は怒りで引き締まっている。


「こそこそ言ってるけど、聞こえてんぞ。本人の前で言えるなら言ってみろよ!」


思わぬ怒声に、空気が一瞬で凍りついた。しん、と静まりかえる教室。


「な、なによ……別に悪口なんて――」


戸惑いながら言い訳を始めた貴族派の女子生徒の一人。


「フィオナちゃんは、何も悪くないよ」


静かだけれど、はっきりとした声が響いた。


クララが、フィオナの手を握ったまま、まっすぐに前を見ていた。いつもは優しげな表情に、珍しく強い意志が宿っている。


「みんな、いろんなこと言うけど、でも、私は知ってるよ。フィオナちゃんが、どれだけ頑張ってきたか。どれだけ人のために、力を使ってきたか」


その言葉は、胸の奥にまっすぐ届いた。氷が溶けるように。心のどこかでまだ「わたしのせいかもしれない」と思っていた部分に、そっと光を灯すように。


「王家の声明は公式なものですよ」


冷静な声が、教室に響いた。ユリウスだった。


「フィオナ・エルディア嬢に責はない、と明言されている。それを憶測で語ることは、王家への不敬に当たる可能性がありますが……理解されていますか?」


淡々とした口調。けれど、その言葉には重みがあった。貴族派の生徒たちの顔色が変わる。


「あー、まぁそういうことだ」


シルヴァンが、欠伸をしながらも、その場の空気を一刀両断するように言った。


「うかつに何か言えば、面倒なことになるぞ。俺は巻き込まれたくないからな」


軽い調子だが、その言葉には明確な牽制が込められていた。


教室全体が、完全に沈黙した。針が落ちる音さえ聞こえそうな静けさ。


そして――


「すまなかった」


低く、絞り出すような声が聞こえた。


アレクシスだった。席に座ったまま、俯いている。拳を握りしめて、何か言いたそうにしているけれど、言葉が出てこない様子だった。


「フィオナ、君に……様々なことを背負わせた。守れなかった。本当に、すまなかった」


その声は震えていた。不器用で、拙くて、けれどその言葉には確かな後悔が込められていた。


フィオナは、何も言えなかった。言葉が喉に詰まる。ただ、胸の奥がふわりと揺れた。そして、熱いものが瞳の奥に広がるのを感じた。


それでも、その不器用な謝罪は、確かにフィオナに届いていた。


「ありがとう、クララ……みんなも」


フィオナの声は、小さく震えていた。喉の奥に熱いものがこみ上げる。


「ま、アイツらに何言われても気にすんなよ!」


カイルが、ぼりぼりと頭をかきながら、照れくさそうに言った。そのぎこちない仕草に、思わず笑みがこぼれる。


「俺は、ちゃんと見てたから。魔法決闘祭(デュエルフェスタ)のときも……それよりもずっと前からさ」


その目は真剣だった。いつもの元気な声の奥に、揺るぎない思いがにじんでいる。


フィオナは、静かに目を閉じる。長いまつげが頬に影を落とす。そして、深く息を吸い込んだ。肺いっぱいに空気を。


あのとき、確かに痛かった。苦しかった。


過去がどうであれ、ここにいて、歩ける足がある。鼓動する心臓がある。


傷ついて、転んで、それでも。また立ち上がればいい。一歩ずつでも。


もう一度、前を向けばいい。


(わたしは――ここからまた始めよう)


光を宿した瞳が、真っ直ぐに、未来を見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ