王家の声明
エルディア邸の静かな一室。寝台に腰掛けているフィオナは、包帯の巻かれた腕をそっと撫でながら、ぼんやりと庭を眺めていた。
魔法決闘祭から数日。学院の医務室から戻されて以降、フィオナはしばらく療養に専念していた。
「……急に涼しくなったからかな。なんだか、落ち着かない」
ひとりごちたその瞬間、扉の向こうから控えめなノックが聞こえた。
「姉さま。入ってもいい?」
ジュリアンの声。続いて、母アマーリエの優しい声が重なる。
「フィオナ、ちょっとお話があるの。いいかしら?」
話? なんの?
不思議に思いながらも「どうぞ」と答えると、扉が開かれた。
入ってきたのは、ジュリアン、アマーリエ、そして父レオナルド――その並びに、フィオナは一瞬息を呑む。
その場に立ったままのジュリアンと目が合う。けれど、彼はいつものようににこりともせず、どこか沈んだ目をしていた。
アマーリエが、そっとフィオナの手を取る。
「体調は、少し落ち着いたかしら?」
「……うん。もう大丈夫。まだ少しだけ痛むけど」
頷くと、アマーリエはひとつ息を吐き、表情を引き締める。
「それならよかったわ。……本題に入るわね」
そう前置きして、手にしていた封筒をフィオナの前に差し出した。王家の紋章が封蝋に押された、格式ある手紙。
「これは……?」
「王家からの声明文よ。先に読んでちょうだい」
促されるまま、フィオナは震える指先で封を切った。広げた文面に、目を走らせる。
『アレクシス・アルセリオンとフィオナ・エルディアの婚約は、両家の合意により円満に解消されたことをここに報せる。婚約解消に至る事情については、すべて王家が責任を負う。フィオナ・エルディアは王家にとってかけがえのない友人であり、その人格と功績を深く信頼している。今後、いかなる中傷や侮辱も、王家への不敬と見なされるであろう』
文字が、視界の中で揺れた。
「……え?」
何度読み返しても、そこに書かれている意味が理解できなかった。
「婚約、解消……?」
ぽつりと呟いた声は、ひどく遠くに聞こえた。アマーリエがそっと娘の肩に手を置く。
「アレクシス殿下との婚約は、正式に解消となったの」
その言葉を聞いた瞬間、フィオナの思考が、ふっと止まった。
「……そんな」
喉の奥から、かすれた声が漏れる。
「わたしが、ちゃんとできてなかったから……?」
――私は王太子妃候補として足りなかった。
――私が完璧であれば、波風は立たなかった。
――だから、これは私のせいだ。
けれどその言葉に、誰よりも先に反応したのは、ジュリアンだった。
「違います」
はっきりと、ぴしゃりと言い切る声。フィオナが驚いて顔を上げると、ジュリアンは真っ直ぐこちらを見ていた。いつも穏やかな彼の表情に、珍しく怒りの色が宿っている。
「姉さまが傷ついたのは、姉さまが悪いからじゃない。……誰がどう見たって、あれは一方的な暴力です」
静かに、けれど凛とした声だった。
「それを止める立場にいた人が何もしなかった。それだけの話です。姉さまが、我慢しなきゃいけない理由なんて、どこにもありません」
アマーリエがフィオナの手をぎゅっと握りしめた。
「あなたを責める者がいるなら、私はそのすべてを敵に回すわ。だって、あなたはまだ守られるべき子供だもの」
言葉を選ぶように、ひとつひとつをしっかり噛み締めながら、アマーリエは娘を見つめる。
「母として、あんな目に遭ったあなたを『足りないから』なんて、絶対に言わせない」
そして最後に、レオナルドが重く口を開いた。
「お前は、何も悪くない」
硬い声音。父がここまではっきり言うのは、めずらしい。
「……ただ一つ、私が甘かった」
レオナルドは苦々しく唇を噛む。
「王太子妃候補としての重圧は、覚悟していた。けれど、殿下が……婚約者として、お前を守ってくれると信じていた。だが、まさかここまで何もしないとは思わなかった」
一瞬、言葉を切る。
「いや、言い訳にもならんな。娘が、苦しんで、倒れるまで耐えて。それでも守られるどころか、踏みにじられる。そんな婚約に何の意味がある」
そう言い切ってから、ほんの少しだけ声を和らげる。
「結局、お前を一人で耐えさせてしまった。……本当にすまなかった」
言葉のひとつひとつが、フィオナの心の奥に染み込んでいく。視界が滲んだ。涙があふれそうになるのを、必死でこらえた。
「……でも」
ぽつりと、フィオナは呟いた。
「私、何もできなかった」
握りしめた拳が、小刻みに震える。
「自分で声を上げることも、逃げることも、何も……できなくて。結局、家族に助けてもらって、王家に守ってもらって」
悔しさと情けなさが、喉の奥で絡まり合う。
「……これじゃ、私、ただの子供じゃない」
その言葉に、アマーリエが静かに微笑んだ。
「そうよ。あなたはまだ子供だもの」
「でも――」
「でも、何も。あなたは十分に頑張ったわ。誰も責めないし、あなた自身が自分を責める必要もない」
そっと娘の頬に手を添える。
「これから、ゆっくり強くなればいいのよ。今日じゃなくていい。明日でも、来年でも。焦らなくていいの」
レオナルドが頷く。
「今は、ただ休め。それでいい」
家族の温かさに包まれて、フィオナはようやく、ほんの少しだけ肩の力を抜くことができた。
そして、もう一度、手の中の声明文に目を落とす。
『フィオナ・エルディア嬢は王家にとってかけがえのない友人であり――』
友人。
その言葉が、不思議と胸に響いた。婚約者ではなく、王太子妃候補でもなく。ただの、友人として。
「……ありがとう」
小さく呟いた言葉は、家族にも、そして遠く離れた誰かにも、届いてほしいと願ったものだった。
♢♢♢
その日、王都を中心に、各地の貴族邸へと一通の声明が届けられた。
差出人は、アルセリオン王家。
「……これは、かなり踏み込んだ表現だな」
王立学院の教員控室で、ロイ・バーグは静かに眉を上げた。受け取った文書を読みながら、他の教員たちがざわついている。
「エルディア公爵家に対する明確な擁護ですか。なるほど……なるほど」
別の者がつぶやく。
「これ、うかつにフィオナ嬢に嫌味のひとつでも言えば、王家に睨まれるってことだよな」
重い沈黙。王家がここまで公式に踏み込むのは異例だった。そして、その異例さは――王都中の貴族たちをも、静かに黙らせた。
一方、学院に通う子女たちの間でも、噂は瞬く間に広まっていた。
「……あの子、婚約破棄されたって聞いたけど?」
「解消でしょ? 王家の文書に『かけがえのない友人』って書いてあったわよ。……うかつに何か言うと、まずいかも」
口に指をあて、少女たちは目を見合わせる。下手に言葉を滑らせれば、王家への不敬として処分されかねない。どれほど陰で反感を抱こうとも、王の意志には逆らえないのだ。




