婚約解消の決意
重い扉が、きぃ、と音を立てて開いた。
王の執務室。ふだんなら、温かな陽光に満ちたこの部屋も、今は張りつめた空気に支配されている。
アレクシスは、静かに一礼し、足を踏み入れた。そこには、父であるガイウスと、母であるクラリーチェが並んで立っていた。
「アレクシス」
低く、重い声で、ガイウスが呼ぶ。
「なぜ、ここに呼ばれたか、わかるな?」
「……はい」
アレクシスはわずかにうつむいた。心当たりしかない。フィオナを守れなかったこと。彼女に向けられた理不尽な攻撃を、止められなかったこと。そして、それを婚約者という立場でありながら、見過ごしてしまった自分自身の愚かさ。
「お前は、彼女を守ると誓ったはずだ」
静かに、しかし絶対に逃れられない力で、ガイウスの言葉が突き刺さる。
「両家の前で。本人の前で。お前は、自らの口で、彼女を守ると誓ったのだ。違うか?」
「……違いません」
声が震えそうになるのを、必死にこらえた。
「それが、どうだ」
王の瞳が、鋭くアレクシスを射抜く。
「お前が彼女の隣に立ったことで、フィオナは攻撃され、侮辱され、傷ついた。それに気づくこともできず、ましてや防ぐこともできなかった」
ガイウスは、拳を握りしめた。
「たとえ対外的な婚約であったとしても、婚約とは、家と家だけでなく、本人同士の信義を結ぶ重大なものだ。それをお前は、なんと軽く扱ったのだ」
アレクシスは言葉を返せなかった。父の怒りが、理不尽ではないことは痛いほど理解している。
「……アレクシス」
クラリーチェが、柔らかな、それでいて凍てつくような声で続けた。
「フィオナにとって、あなたとの婚約は、どれほど重いものだったと思う?」
アレクシスは、はっと顔を上げた。母の瞳は、静かに、しかし容赦なく彼を見据えている。
「彼女は、家のためでも、野心のためでもない。あなたのために、覚悟を決めたのです。やりたくもない王妃教育を受け、自分の時間を犠牲にした。それが、どれほど勇気の要ることだったか、あなたは想像できていますか?」
「……できていませんでした」
アレクシスは、悔しさに唇をかみしめた。
「フィオナには、何の非もありません」
母は、きっぱりと断言した。
「当たり前です。彼女は、ただあなたのそばにいただけ。それだけで、あれほどの責め苦を受けたのです。それを、守るべきあなたが、傍観していた。――それが問題なのです」
アレクシスは、胸の奥が焼けるような痛みに襲われた。
守ると誓ったのに。彼女を、誰よりも尊重すべきだったのに。
自分は、ただ、彼女を傷つける存在になってしまった。
「……情けない」
アレクシスは、唇を噛みしめたまま、ぎゅっと拳を握った。
「自分が、心から恥ずかしい。……彼女に、申し訳がない」
静寂が、部屋を満たす。
アレクシスは、顔を上げた。その瞳には、覚悟の色が宿っていた。
「……私は、フィオナとの婚約を解消します」
声は震えていない。たとえどれほど後悔しても、失った信頼は、戻らない。
彼女をこれ以上、巻き込むわけにはいかない。自分の未熟さで、彼女の未来を曇らせるわけにはいかない。
それだけは、絶対に。
「……そうか」
ガイウスは、静かに頷いた。だが、その瞳の奥には、なおも厳しい光が宿っている。
「それが、唯一、お前にできる償いだろう」
「……はい」
アレクシスは、頭を深く下げた。
「フィオナには、正式に謝罪を。……そして、この件で彼女の評判に瑕をつけることは、断じて許さん。すべての責は、お前と私たちが負おう」
「すべての責は……私だけが負うべきです」
アレクシスは、静かに、しかし毅然と言い切った。
「王も王妃も、この件に責はありません。すべては私の未熟さが招いたことです」
ガイウスとクラリーチェは、一瞬、息子を見つめた。
「それでも、王としての責任は私にある」
「……承知いたしました」
アレクシスの声に、迷いはなかった。
「――ベアトリス・フォルディアは、優秀な娘だ」
ガイウスは、ふと視線を遠くに投げた。静かに、しかし重みのある言葉だった。
「貴族派を取り込み、盤石な体制を築くために、彼女を王妃とする選択肢は理屈の上では正しい。それは、わたしも、クラリーチェも、否定しているわけではない」
アレクシスは、はっと顔を上げた。
「だが――」
ガイウスは、ゆっくりと、重々しく言葉を続けた。
「今のお前では、フォルディア家に飲み込まれる。あの家は、貴族派の権力を背景に、いずれお前を傀儡にするだろう」
静かな言葉だった。だが、それがどれほど深刻な意味を持つか、アレクシスにも理解できた。
「優秀な王ならば、ベアトリスをも手綱を引けるだろう。だが――お前は、まだその器にない」
クラリーチェが、そっと言葉を継いだ。
「フィオナを選ぶことが、善だったわけではありません。ベアトリスを選ぶことが、悪だったわけでもありません。けれど、選び取ったものに、責任を持てない者が、誰かを王妃にしてはならないのです」
アレクシスは、唇を噛みしめた。
クラリーチェは、そっと微笑んだ。その微笑みには、痛みと、愛情がにじんでいた。
「フィオナの未来を、これ以上縛ってはならないわ」
「はい」
アレクシスは、深く、深く頭を垂れた。
自分の弱さを悔いながら。たった一人の、大切な少女の未来を――誰よりも強く、祈りながら。




