新学期、デュエルフェスタ開幕 8
頬に感じたのは、柔らかな風と、どこか懐かしい香りだった。
瞼をゆっくりと開けると、視界に飛び込んできたのは、白く透き通る天井と、どこか見慣れた木の梁。消毒薬の香りと柔らかなリネンの感触。窓際には小さな薬棚。ここは――学院の医務室?
「ん……」
体を少し起こそうとした瞬間、隣で椅子に座っていた誰かがぱっと立ち上がった。
「フィオナ!」
聞き慣れた声。碧く澄んだ瞳が、心配そうに覗き込んでくる。
「カイル?」
「よかった……本当に……」
カイルは安堵の吐息を漏らしながら、目を細めて笑った。
「さっきまでジュリアンたちもいたんだ。今はちょっと……なんか飲み物とか買ってくるとか言ってさ」
「……試合は?」
「ああ、終わったよ」
ふっと口元を緩めるカイル。その顔に、どこか自信がにじんでいる。
「俺が、優勝した」
「……ほんとに!? すごい! さすがカイル!」
思わず声が弾む。痛みはまだ少し残っていたけれど、それよりも嬉しさの方が強かった。
「うん、ありがと」
カイルは照れくさそうに後ろ頭をかくと、ふいに視線をそらした。
部屋の中に静けさが戻る。窓から差し込む夕陽が、フィオナの枕元にやわらかく影を落としていた。
「……俺さ」
カイルの声が、ふと低くなった。
「ずっと、遠慮してたんだ。アレクシスが、仮とはいえ婚約者だったから。……勝手だけど、踏み込んじゃいけない気がしてた」
「でもそんなちっぽけな俺の遠慮がさ、フィオナをあんなふうに傷つけてしまったんだって思ったら……」
「そんな風に思わなくても——」
カイルは、ふっと笑った。けれどその表情は、どこか苦い。
「もうやめる。遠慮して何もできないなんて、もう二度としない」
「……カイル」
「決めたんだ」
ぎゅっと拳を握るその手に、試合の余熱がまだ残っているようだった。
「もう、大丈夫だから。俺が全部守るから」
そのまっすぐな瞳に、フィオナの胸が熱を帯びた。
「そんな……」
思わず、かすれた声がこぼれた。
ひとりで頑張ってきた。自分で選んで、自分でなんとかして、前世の知識を盾に、未来をねじ曲げようとしてきた。
それしか、道がなかった。
「守るなんて、そんなふうに言われたら……私、どうしていいか……」
言葉が途切れた瞬間、ぽろりと涙がこぼれた。
「えっ、ちょ、泣かないでよ!? 俺、なんか変なこと言った!?」
慌てるカイルに、フィオナは首を振った。
「ちがうの……うれしくて……」
かすれた声でそう言いながら、また一粒、涙がこぼれた。
「……フィオナ」
カイルはしばらく黙って、それからゆっくりと言葉を続けた。
「たぶんさ。フィオナって……何か、大きなものを抱えてる気がしてた」
「えっ……」
「うまく言えないけど、なんていうか、みんなが気づかないことを、ひとりで考えて、背負ってるんじゃないかって」
静かな声。けれどそれは、まっすぐ心に届いた。
フィオナは目を見開いて、思わず息を呑んだ。
「無理に聞いたりはしないよ。言いたくないことも、あるだろうし」
カイルは、照れくさそうに笑った。
「でも、もしその重さを、ほんの少しでも俺に分けてくれたら……それだけで、たぶん俺、めちゃくちゃ嬉しいんだと思う」
優しい声だった。まるで、陽だまりの中にいるような温かさだった。
もう、平気なふりをしなくても、いいのかもしれない。
そんな気がして、フィオナはまたそっと涙を流した。
「……じゃあ、ちょっとだけ……お願い、してもいい?」
「もちろん!」
元気よく頷いたカイルの顔に、思わず笑みがこぼれた。
その笑顔のまま、彼の手がそっとフィオナの頭に触れた。大きくて、優しい手。
もう、ひとりで頑張らなくていい。
そう思えたのは、きっと今日が初めてだった。
カイルのあたたかい手のひらに、そっと目を閉じる。その温もりに、長い間凍えていた何かが、少しずつ溶けていくような感覚があった。
ただそれだけで、胸の奥が嬉しさで満たされていった。
♢♢♢
「カイル! ジュース買ってきたぞー!」
廊下の向こうから、にぎやかな声が響いてきた。
次の瞬間、医務室の扉が勢いよく開かれ、静かだった空間が一気に活気づいた。
「わ、起きてるじゃん、フィオナ!」
ジュリアン、シルヴァン、アレクシス。わちゃわちゃと連れ立って、仲間たちが駆け込んできた。
フィオナは、まだ少し涙の跡を残したまま、思わずふっと笑った。
「おかえり、みんな」
「カイル、泣かせたんですか?」
ジュリアンが眉を上げると、カイルは真っ赤になって慌てた。
「ち、違うっ! 俺は別に、悪いこと何も言ってない!」
「まあ、だいたい想像つくけどな」
アレクシスが肩をすくめて、苦笑した。
にぎやかで、あたたかい空気。
仲間たちがこうして、わたしのもとに帰ってきてくれる。それだけで、胸の奥がまた少し、暖かく満たされていった。
「ほら、これ。フィオナの分だよ」
シルヴァンが、フィオナの手に小さな瓶をそっと渡した。
中には、色とりどりのジュース。
「……ありがとう」
フィオナは両手でそれを受け取り、小さな声で礼を言った。
瓶の中の色とりどりのジュースが、夕日に透かされて美しく輝いている。まるで、これからの日々を予感させるように。
明日からまた一歩ずつ進んでいこう。
そう思いながら、フィオナはそっと、仲間たちの笑顔を見渡した。




