光魔法は予定外、婚約は想定外 3
緩やかな坂道を、銀の装飾が施されたステッキを突きながら歩く老紳士がいた。
白銀の髪は見事に整えられ、右目にかかるモノクルの奥からは鋭い視線。口元には、常に不機嫌そうなゆがみ。紺色の燕尾服は上質な仕立てで、その身なりには隙がない。
「レオナルドの奴め……手紙ひとつで頼みごととはな」
ぼやきながら、老紳士はモノクルをくいと押し上げる。
「まったく、昔から図々しいガキだった……」
言葉は辛辣でも、どこか懐かしさを含んでいた。
そうして彼――マークス教授は、エルディア公爵家の屋敷へと足を踏み入れた。
♢♢♢
「……いらっしゃいましたか、先生」
「……久しいな、レオナルド」
玄関ホールで向かい合うふたり。その姿は一見穏やかだが、レオナルドの背筋は、いつもよりわずかに伸びていた。
普段は誰の前でも堂々としている父さまが、少し緊張してる……?
フィオナはその様子に、小さな驚きを覚えた。
モノクル越しの教授の視線は鋭く、かつての教え子を値踏みするように見つめている。
「三十年ぶりでしょうか。お変わりないようで、何よりです」
レオナルドの口調には、公爵らしい威厳の奥に、どこか“学生時代の名残”のようなものが見え隠れしていた。
「先生とレオナルド、昔からこうなのよ」
アマーリエがふわりと笑う。
誰よりも自然体で、誰よりも空気に動じない。むしろ、彼女だけ空気の重さをまったく気にしていないようだった。
「ねえ、姉さま……あの先生、なんか、目がこわくないですか?」
「そうね。……父さまが、背筋伸ばしてる。私、初めて見た」
隣に並ぶジュリアンとひそひそささやき合いながら、フィオナはあらためてマークス教授を観察した。
背筋がしゃんと伸びていて、動きは隙がなく、口数は少ないけれど、放つ存在感は圧倒的――。
(やっぱり、ただ者じゃないな……)
まるで自分の小ささを実感させられるような、そんな感覚だった。
マークス教授は、屋敷の一室に腰を下ろすと、静かに口を開いた。
「光魔法とは何か。それを語るには、まず魔力の流れと詠唱の重要性を理解せねばならん」
その語り口は穏やかというより、どこか威厳に満ちていて、どこまでも厳しい。
フィオナは、てっきり実践メインだと思っていた授業に、ほんの少しだけ肩透かしを食らった。
「えっと……今日は魔法、使わないんですか?」
期待を込めて聞いてみたが――
「魔法を甘く見るな、小娘」
即答。しかも、まるで切り捨てるような調子。
「光らせたいだけなら、ランプでも灯しておけ。魔法とは、理論と言葉だ」
モノクル越しの視線が鋭く突き刺さる。
フィオナは思わず背筋を伸ばした。
「理論抜きに魔法を扱うのは、文字も読めずに書物を論じるようなものだ。愚かにも程がある」
ステッキが床にコン、と軽く打たれる音が響く。
(うっ……これは、怒られた……)
けれど、フィオナは言われっぱなしでいるのが苦手だった。黙っているより、聞いてみたいことが山ほどある。
「つまり、基礎から固めないと、本質にはたどり着けないってことですね?」
そう返すと、マークス教授の眉が、ほんのわずかに上がった。
「……ほう」
その表情に、ごくわずかな驚きの色が浮かんだように見えたのは、気のせいじゃなかったと思う。
「詠唱とは、想像と魔力を結びつける橋だ。感覚に頼る魔法使いほど、この橋を怠る。だが、高度な魔法ほど、その橋を正確に、丁寧に架けねばならん」
静かな声なのに、不思議と胸に響く。
魔法は感覚じゃなく、想像と理論――それが教授の考え方なのだ。
すると、後ろから小さな声が聞こえた。
「あの、先生……」
ジュリアンだった。フィオナの後ろに立ち、どこか緊張した面持ちで手を挙げる。
「なんだ、小僧」
「わ、私も……一緒に学びたいのですが……よろしいでしょうか」
マークスは、無言でジュリアンを上から下まで見つめる。しばしの沈黙。
「お前は、魔法が使えるのか?」
「い、いえ。まだ魔力の兆しもないのですが、でも……理論だけでも、先に知っておきたくて」
その言葉に、マークスの口元がほんの少しだけ動いた。かすかに、納得したように。
「理論から入るというのは、むしろ正しい。来い。後ろで聞いているより、横に座れ」
不器用な優しさを感じるその言葉に、フィオナはほっと息をついた。
ジュリアンは目を丸くしてから、うれしそうに席につく。
(よかった……ジュリのこと、ちゃんと見てくれてる)
そう思った瞬間、フィオナの胸にあたたかさが広がっていった。