夏休み、予想外の大騒ぎ! 8
夏休みも終わりに近づき、秋を意識し始めたころ、エルディア邸の応接間には、ふんわりと花の香りが漂っていた。クララが瓶を振り、精油の香りを確かめている。
「やっぱり、こっちのほうが落ち着きますね。甘すぎないっていうか……」
「うん。でもちょっと渋すぎるかなー。柑橘を足してもいいかも」
フィオナがメモに走り書きしようとしたそのとき――。
「姉さま」
扉がノックとともに開き、ジュリアンが資料の束を手にして入ってきた。落ち着いた声とともに、さらりと驚くような言葉が落ちる。
「ミルフローラ商会の秋冬シリーズ。初回分、完売しましたよ」
「……えっ!?」
フィオナはガタっと音を立てて椅子から立ち上がった。
「ほんの数日前に出したばかりなのに……」
「主にサロン経由ですね。あとは貴族街の取扱店にも注文が殺到してます。今までにない香りっていう評価が多かったようですよ」
ジュリアンは一枚のメモを差し出す。そこには上流階級の顧客たちの感想がいくつか書かれていた。
「強い香水に疲れていたところに、優しくて品のある香りが新鮮だったと。特に年配のご婦人方の間で評判ですね」
フィオナは受け取ったメモを見つめながら、ゆっくりと椅子に座りなおした。
「……嬉しいけど、なんだか不思議な気分」
クララも小さく頷いた。
「フィオナちゃんの作る香りって、落ち着くから。そういうの、皆さんも欲しかったんだと思う」
嬉しい言葉に、でもなぜか背筋が少し伸びる。まだ何か、できることがある気がした。
初回出荷品が完成したあの日、アマーリエは王宮のサロンに向かう前に、そっとひとつをバッグに忍ばせていた。
「王妃さまにお渡しするわ。フィオナの作る品を楽しみになさっているのよ」
そう言って出かけた母が、その日の夕方、にこやかに帰ってきたのをフィオナは覚えている。
――王妃さま、気に入ってくださったのよ。
後日、フィオナが聞いたその様子は、想像するだけで胸が温かくなるようだった。
クラリーチェ王妃は、瓶のふたを開けて、しばらく目を閉じて香りを楽しんでから、静かに微笑んだという。
「……ほのかに香るのが、かえって上品ね。強く香らないのに、印象に残るわ。とても洗練された選び方ね」
様々な品に触れ、審美眼を持つ王妃がそう評したというのは、何よりの誉れだった。
そしてもうひとつ。
アマーリエが訪れた王宮サロンでは、数人の令嬢や婦人方が集まり、香り付きクリームの話題になったらしい。
「これ、ミルフローラ商会の商品ですか?」
そう尋ねられたアマーリエは、少し誇らしげに答えた。
「そう新作なの……今回のは秋冬にぴったりな香りなのよ」
貴族たちは興味を示し、試した婦人のひとりは、「季節で香りを変えるなんて素敵ね」とこぼしたという。
これは、今のこの国にとって新しい価値だったのかもしれない。
夜。ランプの光がゆらりと揺れる書斎で、フィオナは香料瓶の並ぶ棚の前に立っていた。
柑橘、ラベンダー、ローズマリー……さまざまな香りがガラス越しにきらめいている。
「売れたってことじゃなくて……」
静かに、フィオナはつぶやく。
「香りで誰かの心が和らいでいると感じられること……それが一番うれしい」
「ほのかに香るのが上品」と王妃が言ってくれた。
「印象に残る香り」と母が笑ってくれた。
香りが、誰かの記憶にやさしく残る。
そのことが、こんなにも心を震わせるなんて。
ふと、前世の記憶がよぎる。
看護学の授業で、病室の環境調整について学んだ日のこと。
照明の明るさ、音、そして――香り。
ある病院では、緊張や不安をやわらげるために、アロマを取り入れていた。
患者が少しでもリラックスできるように。
処置のとき、心の負担を減らせるように。
「……そうだ!これを……治療に使えたら?」
はっとして、フィオナは机に向かう。
香りで、心をほぐしてあげることができたら――。
「施術の前に、不安をやわらげる香りを使うとか。子どもたちにも、きっと効果があるはず!」
手帳を開き、走り書きする。
ラベンダー、ベルガモット、そして少しだけスイートオレンジ……。
ふわっと包みこむような、やわらかい香りのレシピが頭に浮かぶ。
「……できるわ」
その声は、誰に向けたものでもなく、でも確かな決意を帯びていた。
夏休み最後の週の朝、フィオナは少し大きめのカバンを手に、治療院の門をくぐった。
その背後には、エルディア家の紋章をつけた護衛がふたり。数日前の襲撃事件を受けて、単独での外出は禁止されている。
「んー、ちょっと過保護すぎない?」
小声でつぶやいたフィオナの隣で、クララがくすりと笑った。
「しょうがないよ。心配してるんだよ、みんな」
彼女の優しい言葉に、フィオナは頷きながらも、少しだけ肩をすくめた。
治療院の受付では、顔なじみの看護師がフィオナに気づき、微笑んで出迎えてくれる。
「フィオナちゃ……いえ、フィオナ様。今日は何か……?」
「うん、試したいものがあって来たの。少しだけ時間をもらえますか?」
持参した香りの瓶をそっと差し出すと、看護師は興味深そうに手に取った。
奥に案内されると、待合スペースに数人の患者たち。中でも、ひとりの小さな男の子が、膝を擦りむき、涙をぽろぽろ流していた。看護師が声をかけても、泣き止む気配はない。
フィオナはそっと近づき、カバンから小瓶を取り出す。
「こんにちは。これ、いい香りがするんだ。よかったら、ちょっとだけ……」
ハンカチに一滴、香りを含ませて差し出す。
男の子は泣きじゃくりながらも、くんくんと嗅ぎ――。
「……いいにおい」
かすれた声でそう言ったあと、涙がすっと引いていく。
あたたかい空気が、周囲に広がった。
「心を落ち着かせる草花の成分をブレンドしてみたんです。痛みや怖さを忘れるまではいかなくても、少し気持ちが楽になればと思って」
そう説明すると、そばにいた治療師が驚いたように目を見開く。
「なるほど……これは新しい発想ですね。香りだけで子どもが泣き止むなんて。私たちは薬草やポーションの実際の効能ばかりに目を向けていましたが」
クララも続けて言う。
「フィオナちゃんが前に言ってたんです。癒すっていろんな形があるって」
治療師は感心したように香りの瓶を手に取る。
「患者の恐怖が和らげば、治療の効果も高まるかもしれません。ぜひ他の患者さんにも試してみたいものです」
その言葉に、フィオナは胸をなでおろし、そっとクララと笑顔で視線を交わした。
治療院をあとにしたふたりは、午後の陽差しの中を並んで歩いていた。
風が吹き抜けるたびに、クララの持つカゴから、数種類の香草の匂いがふわっと漂ってくる。
「香りって、心と体を癒す力があるんだね」
クララがぽつりとつぶやく。
フィオナはその言葉に、ゆっくりと頷いた。
「うん……香りも、癒しのひとつの形なんだと思う」
二人の影が石畳に伸びる。
ふとフィオナは思いつき、笑顔で言った。
「今度はさ、不眠に効く香りとか……頭痛を和らげる香りとか、試してみようか!」
クララもぱっと笑顔になった。
「うん、いいね!」
夏の終わりの空の下、二人の歩みは軽やかだった。




