夏休み、予想外の大騒ぎ! 4
夏の朝。太陽が顔を出す前の、ほんのわずかな静けさが辺りを包んでいた。
夜の名残を少しだけ残した空気は、肌にぺたりと張りつくように湿っている。
その早朝の中庭に、ぴしゃりと木剣が打ち鳴らす音が響いた。
誰もいない庭で、ただ一人。
フィオナは木剣を構え、黙々と動きを繰り返していた。
構え、振り、踏み込んで、戻る――その動きはまだぎこちないが、ひたむきさは確かにそこにあった。
早朝にも関わらず、もううっすらと汗が滲んでいる。けれど、手を止める気配はない。
その様子を、ひとつ上の階から静かに見つめる人影があった。
エルディア邸の廊下に面した窓辺に立つのは、母アマーリエ。
薄く羽織った朝のローブの袖を押さえながら、娘の姿に目を細める。
「……頑張ってるわね」
窓越しに微かに聞こえる木剣の音に、アマーリエはそっと微笑みを浮かべた。
あの子は強くなりたいのではなく、きっと――立っていたいのだ。自分の足で、誰にも支えられずに。
その姿に、母として誇らしさと、ほんの少しの切なさを感じた。
♢♢♢
「じゃあ今日は、受け流す練習を中心にやろう」
いつものように中庭に現れたカイルは、手にした木剣を軽く回してから、にっと笑った。
その声を聞くだけで、フィオナの背筋が自然と伸びる。まるで朝の空気が引き締まるような、そんな感覚だった。
「受け流す、って……避けるのとも違うのよね?」
「うん。相手の力をまともに受けないように、ずらす。剣でいなすのが基本だけど、体さばきも大事。正面から受け止めようとすると、絶対負ける」
そう言って、カイルはフィオナの正面に立ち、ゆっくりと構える。
軽く振ってみるから、と言って放たれた一撃は、もちろん本気の速度ではない。けれど、無防備に立っていれば肩に当たるくらいの速度だった。
「――っ!」
フィオナは木剣を構え、なんとか腕を動かして受ける。けれど手首に響いた衝撃に、思わず顔をしかめた。
「痛っ……」
「ほら、それ。ちゃんと流さないと、こうなる」
カイルはすぐに手を添えて、フィオナの構えを直す。力の入り方、角度、そして足の向きまで、ひとつひとつ。
「もう一回。今のは受け止めた。流すってのは、剣を斜めにして、力をスライドさせる。ほら、こう」
実演してみせたその動きは、なんというか――柔らかいのに鋭い。
力任せじゃないのに、明らかに無駄がない。だからこそ、真似するのは難しかった。
それでも、何度も何度も繰り返す。
手が痛くなっても、息が上がっても、フィオナはへばらなかった。ボロ負けしないために。みっともない姿を見せないために。
カイルはずっと付き合ってくれた。休憩の声をかけながら、けれど手は抜かない。
その理由は、誰よりも彼女を甘やかしたい気持ちを押し殺しているからだった。
「……ねえ、カイル」
稽古の合間、水を飲みながらフィオナがぽつりとつぶやく。
「うん?」
「カイルは……わたしに、強くなってほしいと思ってる?」
「……そりゃ、思ってるよ?」
即答だった。けれど、そのあとの言葉は、少しだけ声のトーンが落ちた。
「でも、それより――怪我してほしくないって思ってる方が、強いかな」
「……」
「剣なんて、できなくていいよって……ほんとは、ちょっとだけ思ってた。でもさ」
カイルはフィオナの手を見た。うっすらとできた豆、少し赤くなった指先。
それを見て、小さく笑った。
「……それでも、やるって決めたんだもんな。なら、俺は全力で教える。どんな形でも、負けなかったんだって言えるように」
「……うん。ありがとう」
たぶん、フィオナには見えていない。
カイルがふと視線を落としたこと。その瞬間の表情に隠された本音を。
本当は、剣なんか教えたくなかった。
ずっと守っていたいと思ってた。誰よりも先に立って、真綿に包むように、大切に――傷ひとつつかないように。
けれど、フィオナが自分の足で立とうとしていることを、カイルは知っている。
誰にも言わずに、それでも必死に、みっともなくないようにと稽古を続けていることも。
だから、何も言えなかった。
「やめたほうがいい」とも、「俺が守るから」とも。
そのどれも、今のフィオナには言っちゃいけない気がした。
言葉にできなかった想いを、ただ剣の動きに込める。
いつか本当に何かが起きたとき、せめてその身体が倒れないように――。
それが、カイルのひそかな祈りだった。
「カイル、もう一本!」
息を整えたフィオナが、再び木剣を構える。中庭に、力強くも明るい声が響く。
今日何度目かの"もう一本"に、カイルは笑いながら肩をすくめた。
「体力ついてきたな、ほんと」
「えへへ、まだいける!」
構え直した瞬間、ふと、フィオナの中で何かが引っかかった。
手のひらから、微かに感じる温もり。胸の奥から、じわりと広がる光。
剣を振ったわけでも、魔法を使おうとしたわけでもない。ただ、気づけば――
「……魔力、流れてる?」
呟いたフィオナの声に、カイルが手を止めた。
「え? 今、魔力使ったの?」
「……たぶん。無意識に?」
魔力操作にはある程度の集中が必要なはずなのに、それが今、自然に剣と一緒に動いていた。
ただ防御を意識し、剣を構えていただけなのに。
――そして、フィオナの脳裏に、ひとつの言葉が浮かぶ。
光よ、盾となって、我を守れ――
「……試してみる」
フィオナは木剣を下ろし、そっと目を閉じた。
詠唱の言葉は、ふとしたひらめきのように、自然と胸の内から溢れてくる。
それは呪文というより、祈りに近かった。
「光よ、盾となって、我を守れ――《光盾》」
次の瞬間。
フィオナの身体を中心に、淡い金の光がふわりと広がり、壁となって目の前に現れる。
「うわ、なんだこれ……」
カイルが目を丸くして近づく。手を伸ばして、壁に触れてみる。
こん、こん。軽く叩いてもびくともしない。剣の柄でつついてみても弾かれるだけ。
「ちょっと剣で突いていい?」
「う、うん、たぶん大丈夫……?」
おそるおそる、軽く木剣で突いてみる。――やっぱり通らない。
風魔法も試してみる。小さな風の矢が放たれるが、光の壁がふわりと弾いた。
フィオナとカイルは顔を見合わせる。
「……え? これ、すごくない?」
「すごいよ、これ。剣も魔法も通らないなんて、最強の防御魔法じゃん!」
魔法に頼らず剣だけでやり過ごそうとしていた日々に、思いがけず差し込んだ光。
攻撃魔法は使えなくても、防御魔法なら――
「少なくとも、ボロ負けはしなくてすみそうだね」
「うん……みっともない姿、見せなくてすむかも」
フィオナが小さく笑うと、カイルも安心したように笑い返した。




