夏休み、予想外の大騒ぎ! 2
昼下がり。夏の日差しがやわらかく差し込むテラスで、フィオナとクララは作業に夢中になっていた。
「香り……悪くないかも。昨日よりは全体がまとまってる気がする」
「抽出時間の違いね。あとは冷ますときの温度……もう少し下げてみてもいいかもしれない」
並べられた小瓶の中に、ほんのりピンクがかったもの、透き通った淡青のもの、少し濁りのあるもの。どれもクララの魔法で作った純水に、さまざまな花びらや葉を浸して抽出したものだった。
「これ、涼感タイプもありかも。ミント入れたやつ、けっこうすっきりしてたし」
「うん、今の季節にぴったり!」
そんなふうに話していたそのとき、テラスの奥から涼しげな声がした。
「……姉さま」
振り向くと、ジュリアンが立っていた。日焼けの残る首筋と、遠出の気配をわずかに残した旅装姿。夏休みに入ってすぐエルディア領へ向かったはずの彼が、予定より少し早く帰ってきたようだった。
「ジュリアン? おかえり。思ったより早かったね」
「予定を繰り上げました。姉さまが面白い実験をしていると聞いたので、気になって」
言いながら、彼は並べられた瓶を見渡し、ひとつ手に取った。中でゆらめく液体の色を、陽に透かして確かめる。
「これは……花の抽出液? 匂いがある。ということは、芳香剤……? いやそれにしては香りが弱い」
「う、うん。化粧水みたいな感じかな。優しい香りだから、肌にも合うか試してるの」
少し戸惑いながら告げると、ジュリアンの瞳がきらりと光った。
「化粧水? 原料は? 花は乾燥? 生? 水はクララの魔法ですね。抽出時間と量産性はどうなっていますか?」
質問の連続に、クララがフィオナの顔をちらりと見る。
「……ジュリアンさま、すごい勢い」
「いつもこうじゃないんだけど……たまにスイッチ入ると止まらなくて」
フィオナが苦笑すると、ジュリアンは瓶をそっと元の位置に戻し、ぴたりと真顔になって言った。
「姉さま。これは、エルディア家の新たな事業にしましょう」
「…………はい?」
「水魔法の素養があれば、平民でも製造可能。高い魔力量を必要とせず、材料もエルディア領で入手できる。使用感も上々。これは十分に商品になります」
フィオナとクララが固まる間に、ジュリアンはすでに先を見据えていた。
「クララ嬢との共同開発ですから、可能であればブランシェ家とも協力関係を結べるとよいでしょう。経営は僕が担当します。姉さまたちには開発と品質監修に専念していただきたいです」
「ちょ、ちょっと待って!? まだ完成してないのに――!」
「とりあえず、父さまに相談してきます!」
そう言い残すと、ジュリアンは振り返りもせず、意気揚々とテラスを出て行った。
「…………」
「…………」
フィオナとクララはその場に取り残され、同時にため息をつく。
「……ジュリアン様、圧がすごい」
「うん。……本当に頼もしいけど、なんか怖い」
机の上では、ほんのり薔薇色の液体が、日差しを受けて静かに揺れていた。
それから数日。
彼女たちが香りの微調整や保存実験を続けているあいだに、ジュリアンは――
「試作品は十本を市内の薬草店に。五本は母さまにお願いして貴族夫人に試供として回します。意見をまとめて、今週中に報告書を提出します」
「作業場は王都にあるエルディア家別邸を整備して増設中。労働候補者は平民出身者を中心に、水魔法の素養がある者を選びました」
「名前は『ミルフローラ商会』に決定。意味は『千の花』。今後の展開にぴったりでしょう?」
――怒涛の勢いで、事業を立ち上げていた。
「……すごすぎない?」
「うん、もう……追いつける気がしない……」
フィオナ商会(仮)が「ミルフローラ商会」という名を得たのは、ジュリアンが役所に提出した登録書を見せてきたその日のことだった。
クララはというと、慣れないながらも作業員に抽出や管理の基本を教えていた。
「純水は一気に出さないで。透明度が落ちると、芳しさが濁っちゃうから。……そうそう、今の感じです」
クララのやわらかい声に、若い作業員の女性がはにかんで頷く。
フィオナは、薬草の保存法や乾燥工程の見直し、容器の材質検討などに追われていた。
でも、どこか、ふわふわしていた。
「なんか……これ、夏の自由研究だったはずなのに、いつの間にか……」
「すごいことになっちゃってるよね……」
二人で顔を見合わせたときだった。
「失礼します。奥さまがお見えです」
そう告げて入ってきたのは侍女。少しして現れたのは、アマーリエだった。
めずらしく、商会の作業場まで足を運んできた母。白い帽子と、夏らしい薄青のドレス姿。涼やかな匂いが、部屋の空気を変える。
「母さま……?」
「こんにちは、クララさんも。今日は、ちょっと大切なお話があって来たの」
そう言って席についたアマーリエは、にこやかな笑みを浮かべたまま、さらりと話し始める。
「今日ね、クラリーチェ王妃とお茶をご一緒したの。そのとき、『例の香りの水、もし買えるものならぜひ購入したい』って仰っていたのよ」
「……王妃さまが、そんなふうに?」
思わず口にすると、クララも驚いたように息をのんだ。
「もちろん、直接『買いたい』とは仰らなかったけれど……あの方の言い回しは、ね。もし取り扱っているなら、試してみたいって。これはもう、宮廷語で言えば送ってきなさいってことなの」
「……ということは、献上品を作れってことですか?」
「そう。もちろん、無理にとは言われていないわ。でも――これはきちんと応えるべき時でしょう?」
アマーリエの目はやわらかいけれど、公爵家夫人の光を宿していた。
フィオナはクララを見る。彼女も少し緊張した表情で、でも目には期待の光が灯っている。
「どうする? 私たちの化粧水が王妃様に……って、すごいことだけど、まだ試作段階だし」
クララは少し考えてから、真剣な面持ちで言った。
「でも、これまでの中で一番良くできたのが今回のレシピです。それに……」
彼女は少し頬を赤らめて続ける。
「王妃様のために作るなんて、夢みたいです。チャレンジしてみたいです」
フィオナはごくりと喉を鳴らし、決意を固めた。
「……やるしか、ないよね?」
「うん……っ!」
献上品の製作が決まったその日から、二人は何度も話し合いを重ねた。
「香りは強すぎないほうがいいよね。化粧水だから、肌につけたあとも気にならないくらいがいいと思う」
「そうだね。匂いでほんの少し気持ちがほぐれるくらいが、たぶんちょうどいい。香水じゃないから、残り香が強すぎると疲れちゃうし……」
匂いはすぐに消えるけれど、記憶には残る。だからこそ、朝と夜で香りを変えるというアイデアは、二人の中で自然に形になっていった。
「朝は明るくて、気持ちが前を向けるような香り。夜は静かに、やわらかくほどけていくような感じ……かな」
「うん。じゃあまずは、朝からやってみよう!」
朝用のベースに選んだのは、摘みたてのローズ。そこにほんの少し、ベルガモットとネロリを加える。
「匂いがぱっと広がって、でもすぐ肌に馴染んで消えていく……そんなイメージで」
クララは、魔法で抽出した純水に花びらを浸したあと、冷却処理を加えた。
「このまま一晩寝かせておこう。すぐに詰めるより、匂いがちゃんと馴染むの。最初は香りが立ちすぎちゃうから」
「へぇ……熟成させるみたいだね」
「そうそう。不純物も沈んで、透明度も上がるんだ。肌にのせたときの感触も、少し変わるの」
翌朝、寝かせた液体はほんのりピンクに色づき、匂いもまろやかになっていた。
続いて夜用の調合に取りかかった。ラベンダーとジャスミンをベースに、クララが慎重に成分を混ぜ合わせる。
「夜は香りが強すぎると、かえって落ち着かなくなるから」
そう言いながら、仕上げに、ほんの少しだけカモミールを加えた。
「深呼吸したとき、胸の奥がすっと軽くなるような……そんな感じになるといいな」
「寝る前の王妃さまが、すこしでも心を休められたらって、そう思って……」
クララは朝用と同じように、純水に花を浸し、冷やしながら魔力を整えていく。こちらも一晩かけて落ち着かせることにした。
翌日、完成した夜用の液体は、香りも色も控えめだけれど、どこか温かみのある仕上がりになっていた。
完成したフローラルウォーターは、朝用・夜用、それぞれ一本ずつ。淡いピンクと青の、手のひらにすっと収まる卵型の瓶に詰める。
瓶の栓には金の装飾。王家への贈り物にふさわしい白木の化粧箱には、内張りにベルベット、香りに合わせた色のリボンが添えられていた。
「出来た……」
クララがそっと息を吐く。フィオナも、ふうっと肩の力が抜けるのを感じた。
献上品のフローラルウォーターを包んだ箱が、王宮へと届けられたのは数日後の朝だった。
それを見送った二人は、どこか気が抜けたような、でも落ち着かない気持ちで数日を過ごす。
「……変な話だけど、王妃さまが使ってくれるのを想像するだけで、お腹のあたりがそわそわする」
「分かる!! あんなに丁寧に仕上げたのに、まだもっと良くできたんじゃって思っちゃって……」
作業場の窓辺で、クララと何度目かの空気の抜けた会話をしたそのときだった。
屋敷から使いに出ていた侍女が、ひょこっと顔をのぞかせた。
「フィオナお嬢様。奥様からお屋敷に戻るようにと」
「……えっ」
その一言で、フィオナの心臓が跳ねた。
屋敷に戻ると、アマーリエが応接室で待っていた。
「おかえりなさい、ふたりとも。……今日、王妃陛下から返礼のお言葉をいただいたの」
二人は、思わず息をのむ。
「とても上品で、優しい匂いでしたって。朝と夜で香りを分けてあることにも気づいてくださって、こんなに気持ちの行き届いた品をいただいたのは久しぶりですと」
フィオナとクララは顔を見合わせた。クララの瞳には、小さな光が宿っている。
「……使ってもらえたんだ」
「気に入って……くださったんですね」
言葉にすると、じんわり実感が湧いてくる。ただの趣味で始めたことが、ここまで届くなんて。
「王妃さまは贈り主が誰かより、その品にどんな想いが込められているかを大事にする方よ。だから……本当に伝わったのね。あなたたちの真心が」
アマーリエの声はいつもより柔らかく、誇らしげだった。
「……よかった」




