やさしさの奥に、届くための一歩を カイルside
「フィオナ!」
勢いよく扉を開けるやいなや、カイルが病室に飛び込んできた。
ベッドに座っていたフィオナが驚いたように目を見開く。すぐにふわりと笑って、小さく手を振った。
「元気そうで、よかった……!」
一直線に駆け寄ったカイルだったが、あまりの距離の詰め方に、ジュリアンがすかさず声を上げる。
「カイル、声が大きいです!」
「へっ!? あっ、ご、ごめ――わっ!?」
その瞬間、背後から襟首をがしりと掴まれ、カイルの身体がするすると後ろに引き戻される。
「……落ち着け。お前の声で、患者が起きちまうだろ」
「ア、アレクシスぅぅ……!?」
呆れたように吐息をこぼす王太子に連れられながら、カイルは必死にフィオナに向かって手を振った。
「だ、だいじょぶ!? 無理してない!?」
「ふふっ……平気だよ。ありがとう、カイル」
笑うフィオナの声に、部屋の空気が和らぐ。
「よかった。もう起きてて安心しました」
そう言ったのはユリウスだった。眼鏡の奥の瞳にわずかな安堵の色が差している。
「具合はどう?痛んだりしてない?」
低く落ち着いた声で尋ねるのはシルヴァン。ベッドの横で視線を落とし、心配そうに言葉を続ける。
「無理して笑ってるだけなら……叱るよ?」
「ふふ、大丈夫。本当にもう平気だから」
フィオナが首を振って微笑む。その姿に、皆がようやく肩の力を抜くのがわかった。
けれど――。
ふと、彼女の視線が隣のベッドへと移ったとき。
カイルだけは、その横顔に、ごく小さな揺れを見た気がした。
まるで、目の前のその子を通り越して――もっと遠くにある、誰かや何かを見ているような目だった。
――あのとき、確かに見た。
瘴気が渦巻く森の中で、放たれた、まばゆい光。
それは、フィオナが見せるいつもの光とは、まったく違っていた。
フィオナの光魔法は、あたたかくて、包み込むようで―― どこか、そっと触れる手のひらのような優しさがある。
でも、あのときの光は違った。
突き抜けるような閃光。 鋭く、強く、一直線に闇を裂こうとする――まるで刃のような光だった。
彼女の放った光は、魔物の瘴気を吹き飛ばし、身を引かせるほどの力を持っていた。 けれど、完全に浄化するには至らなかった。 それでも十分だった。 あの一撃がなければ、フィオナも、自分も――全員、今ここにはいなかったかもしれない。
そして、その瞬間。
フィオナが、その子を見た目を――
カイルは、忘れられなかった。
優しさだけじゃなかった。
いくつもの感情が入り混じった、複雑で、言葉にできない眼差し。
フィオナは、たぶん気づいていなかっただろう。
たった一瞬の、無意識の視線だった。 でも、カイルにはわかった。 いや――感じてしまったのだ。
そのまなざしに宿った、どこか遠くを見ているような光。
あれは、目の前のフェリシアじゃない。 もっと先にある何かを、見据えていた目だった。
(……前にも、あった気がする)
いつだったか、薬草を集め終えた後、フィオナが一人で空を見上げていた日。 その横顔に浮かんでいた、どこか遠い世界を思い出しているような影。
笑っていても、そこに届かない部分があるような、淡い壁。
(フィオナって、ときどき――いないみたいな顔、するんだ)
ちゃんとここにいるのに、心が、少しだけ遠くへ行っているような。 そんな気配を、前から何度も感じていたことを、今さらのように思い出す。
彼女はいつだって、まっすぐで、明るくて、優しいけれど―― それでも、どこかに秘密がある気がしてならなかった。
その想いが、はっきりとした輪郭を持ち始めたのは、 きっと、あの光の瞬間があったからだ。
フィオナは一見、完璧に見える。
みんなと仲良くて、分け隔てなく接して、どこか人との距離の取り方が絶妙だ。だからこそ、彼女の心の奥にある「何か」は、ほとんどの人には気づかれない。
けれど――カイルは知っていた。
彼女は、誰よりも笑顔をくれるけれど。 ときどき、その奥に「何か」を隠していることを。
たとえば、薬草のことを話すとき。 ふいに「それ、どうして知ってるの?」と聞くと、少し困ったように笑う。
光魔法の使い方もそうだ。 専門家でもないのに、まるで何年も訓練を積んできた人みたいに、 的確に、冷静に、症状を見抜いて、治すべき場所を選び取っていく。
そういう姿を、ずっと見てきた。
最初はただ「すごいな」で終わっていた。 でも、いつしか気づいてしまったのだ。
(……フィオナは、初めてじゃないみたいだ)
あれは、知識とか才能とか、そういう次元じゃない。 もっと深く、もっと根っこのところで――「分かっている」人の動きだ。
何かを経験してきた人の、目と手の動き。
けれど、フィオナはそれを語らない。
誰にも、自分にも、語ろうとしない。
(本当は……ずっと前から、何か抱えてるんじゃないか)
カイルの胸に、小さな棘が刺さる。
知りたいと思った。 できるなら、その迷いに触れてみたかった。 一緒に重たさを分け合って、軽くしてやりたかった。
けれど。
きっと、まだ自分は―― その話を打ち明けてもらえるほどには、頼られていないのだろう。
ただの騎士団長の息子で、剣しか取り柄がない、そんな子供の俺では―― フィオナが胸の奥にしまっている何かに、触れることなんてできない。
「そばにいる」だけじゃ、それには届かない。
最初は純粋に「守りたい」という気持ちだけだった。だから剣を磨き、毎日父にしごかれて、ただ強くなることだけを考えていた。
しかし、あのとき――瘴気の森での出来事は、カイルの目を開かせた。
彼女が見せた視線に気づいても、胸の奥に揺れている何かを感じても、カイルは何もできなかった。
近くにいたのに。気づけたはずなのに――届く言葉を、ひとつも持っていなかった。
ただ見ているだけ。笑いかけることしかできない自分が、情けなかった。
(守るだけじゃ、きっとだめなんだ)
剣じゃ、触れられないものがある。
やさしさや知識や、言葉や心。そういうものを持っていなければ、きっとフィオナの「迷い」に届かない。
今までは、それでいいと思っていた。守ってさえいればって。
でも、今は違う。
(俺も、ちゃんと……力を持ちたい)
身体の力だけじゃなくて、心に届く力を。
「父さん、剣だけじゃなくて――勉強も、教えてくれないかな」
そんな言葉が、ふと頭に浮かぶ。
苦笑いする父の顔が、目に浮かぶ気がした。
でも、それでもいい。
少しでもフィオナに近づくためなら―― 彼女のそばに立つためなら。
自分はもっと、いろんなことを知らなきゃいけない。
フィオナが見せる笑顔を、自分だけのものにしたいわけじゃない。
あの笑顔が、誰に向けられても――それでいい。 ただ、どんなときも、彼女のいちばん近くで、 強さも、迷いも、全部、受け止められる自分でいたい。
守るためじゃなく、支えるために。
言葉をかけられるようになりたい。 手を伸ばせるようになりたい。 彼女の痛みや不安に、気づける自分でいたい。
そのために、今、歩き出す。
「いつか、話してくれる日がくるなら。 そのときは、ちゃんと隣にいられる自分でいたいんだ」
小さな誓いが、胸の奥で、静かに灯り続けていた。




