名乗り合ったその日から
白い天井と、微かに薬草の香りが漂う静かな部屋。
フィオナ・エルディアは、二度目の目覚めにゆっくりとまぶたを開いた。
前に意識を取り戻したのは、夜のことだった。あのときは隣のベッドに寝ていた少女の姿を見て――思わず息をのんだ。
フェリシア。
前世でプレイした乙女ゲーム『まほこい』で"主人公"の少女。その存在が、今こうして、自分のすぐそばにいる。
朝の光はやわらかく、カーテンの隙間から差し込んでいた。
胸にはまだ少し重さが残っているものの、痛みはなかった。魔力の使いすぎで身体がだるい。けれど、それも自分が無事である証。
身体を起こして、周囲を見渡す。
簡素な室内。仕切りのカーテン。棚に置かれた瓶やポーション。
どこもかしこも静かで、落ち着いている。
ふと、視線が隣のベッドに向かう。
栗色の髪の少女が、静かな寝息を立てていた。
彼女の顔色は良く、穏やかに眠っているのがわかる。
それを見ただけで、胸の奥がふっと緩む。
(よかった……)
言葉にはならなかったが、心のなかで何度も繰り返した。
微かな寝返りの気配に、フィオナは顔を上げた。
隣のベッドの少女が、ゆっくりとまぶたを開いている。
まだ夢の名残を引きずるようなぼんやりとした目。けれど、ふと何かに気づいたように、急に体を起こそうとした。
「……お母さんは……っ、お母さん……無事……?」
かすれた声に、フィオナは慌てて言葉を返す。
「うん、大丈夫だよ。命に別状はないって。
でも、まだ少し様子を見なきゃいけないから、別のお部屋で休んでるの」
フェリシアの肩がふっと緩んだ。目に浮かんだ涙が、頬を伝って一筋こぼれる。
両手で顔を隠すようにして、深く息をついた。
「……よかった……ほんとうに……」
フィオナも、静かに胸をなで下ろす。
あの夜の記憶が、まだ鮮明に残っている。
必死で治療していた自分。突進してきた魔物。
そして、間に割って入った小さな背中。――光が放たれた瞬間。
口を開こうとして、ふと視線が重なった。
フェリシアが、不安そうに問いかける。
「……あなたが、助けてくれたの?」
フィオナは首を横に振って、小さく笑った。
「……違うよ。助けてもらったのは、私の方だよ」
フェリシアが、驚いたように瞬きをする。
フィオナはまっすぐ彼女を見つめながら、ゆっくり言葉を紡いだ。
「あのとき……あなたがかばってくれなかったら、
わたしも、あなたのお母さんも――どうなってたかわからなかった。
……ありがとう。命を助けてもらったの、わたしの方だよ」
フェリシアは小さく息をのんだまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、伏せたまつ毛の奥に、ぽつりと呟く声が落ちた。
「……守りたかっただけ、なの」
その言葉に、フィオナの胸がきゅっとなった。
この子は、ただそれだけの想いで――自分の命を懸けたのだ。
「そっか。……すごいね、あなた」
そう言ったフィオナの声には、素直な敬意と、優しい微笑みが混ざっていた。
静かな時間が流れる医務室に、軽やかな足音が近づいてくる。
布の揺れる気配とともに、カーテンがそっと開いた。
「失礼するわね」
姿を現したのは、白銀の髪に淡い紫の瞳をもつ、王妃クラリーチェだった。
気品に満ちたたたずまいなのに、不思議と空気がやわらかくなる。
「ふたりとも、目を覚ましてくれて安心したわ」
椅子を引いて静かに腰を下ろすと、クラリーチェは穏やかな声で問いかけた。
「体の具合はどう? 痛むところはないかしら」
フィオナは背筋を正し、静かに答える。
「お気遣い、ありがとうございます。特に問題はありません」
その隣で、フェリシアが少しおずおずと口を開いた。
「……はい。たぶん、大丈夫……だと思います……」
クラリーチェはふたりの様子を見て、やわらかく微笑んだ。
「あなたたちがしてくれたことは、ちゃんと伝わっているわ。
無茶をしたとは思うけれど……大切な人のために動いた、その勇気は、誇っていいと思うの」
言葉に熱はないのに、不思議と胸に響いた。
「少しだけ、これからの話をしてもいいかしら?」
ふたりがうなずくのを見て、クラリーチェは静かに続けた。
「フェリシアさんには、しばらくこのお城で過ごしてもらうことになったの。
お母さまも一緒にこちらで手当てを受けているわ。
回復は順調よ。すでに落ち着いていて、今は別の医務室で静かに休んでいるの」
フェリシアが小さく息をのむ。
「……お母さん……本当に、大丈夫なんですか……?」
「ええ。フィオナさんがしっかり治してくれたから、命の危険はもうないわ。
あとは、少し休んでもらえればきっと大丈夫。ご安心なさい」
フェリシアは胸に手を当てて、こくりとうなずいた。
「あなたの体も、まだ落ち着かないでしょう? 魔法が急に発現した直後は、とても不安定になるもの。
だから、しばらくはゆっくり過ごして、必要なサポートを受けてほしいの」
フェリシアは黙ってうなずいた。気持ちの整理はまだつかない。でも、この人の言葉には、従いたくなる静けさがあった。
フィオナが、ふと顔を上げて尋ねた。
「……カイルは、無事でしょうか?」
クラリーチェはやさしく微笑む。
「ええ。あなたたちと一緒に運ばれてきたけれど、かなりの怪我を負っていたの。
でも、騎士団のポーションで治療を受けて、すでに目を覚ましているわ。
今は騎士団本部で簡単な報告をしているけれど、落ち着いたらすぐ、こちらに顔を見せに来るでしょうね」
その言葉に、フィオナの胸が少しゆるむ。こわばっていたものが、静かにほどけていく。
窓の向こうでは、陽射しが濃くなっていた。
風にそよぐカーテンのすき間から、草の匂いと青空の明るさがふわりと届く。
「今日は、空が高いわね。……初夏の風、かしら」
クラリーチェのつぶやきに、ふたりは顔を上げた。
窓の向こうで、陽の光が眩しく揺れていた。
クラリーチェが出ていき、カーテンがそっと揺れたあと、医務室には静けさが戻ってきた。
風の音と、遠くの小鳥のさえずりだけが聞こえている。
フィオナはベッドにもたれながら、隣の気配をなんとなく感じていた。
フェリシアは、少し俯いたまま黙っている。
言葉をかけようか迷っていると、小さな声が先に届いた。
「……その……さっき、王妃さまが呼んでた通り……私、フェリシアっていいます」
声にはまだ照れと緊張が混ざっていた。けれど、ちゃんと向き合おうとしているのが伝わってくる。
フィオナはやさしく微笑んだ。
「素敵な名前だね。……わたしは、フィオナ・エルディア。よければ、フィオナって呼んで」
フェリシアが目を丸くする。
「えっ、でも……公爵令嬢なのに……」
フィオナは少し首を傾げて、穏やかに言った。
「うん、公爵令嬢だけど……友達になれたらいいなって、思ったから。
だから"フィオナ"って、呼んでもらえたら嬉しいな」
フェリシアの顔に、ぽっとあたたかい色が灯る。
「……じゃあ……フィオナ、さん。……あ、フィオナ……」
「うん」
ふたりの間に、そっと笑みが広がった。
あんな出来事のあとで、こんなふうに穏やかに話せていることが――信じられないくらい、不思議だった。
しばらく風の音だけが流れる。けれど、その沈黙も心地よかった。
「……また話せたら、うれしいな」
フィオナの言葉に、フェリシアもふっと笑ってうなずいた。
「……うん。わたしも、そう思ってた」
ふたりの間に、そっと新しい風が吹いた。
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