記されてなかった、章のはじまり 7
森に響いていた咆哮が消え、ようやく夜が夜らしい静けさを取り戻していた。
倒れた魔物の周囲では、騎士たちが瘴気の残留を確認しながら慎重に動いている。
空気の淀みは次第に晴れ、月明かりが地面に差し始めていた。
「瘴気、ほぼ消散! 残留濃度、無害レベルです!」
「負傷者の搬送を急げ。城壁内の検問は一時解除。ただし、厳戒態勢は続行だ。周辺の再確認も怠るな」
低く響く声に、部下たちがすぐさま動き出す。
その中心に立つのは、王国騎士団長・コンラッド・アーディン。
風のように気配を切り替え、全体を見渡す鋭い視線。彼が放つ冷静な指揮のもと、現場は着実に整えられていく。
そしてその頃、王城の医務室。
白い天井と薬草の香りが漂う静かな部屋で、フィオナ・エルディアはゆっくりとまぶたを開いた。
胸に重みはあるが、痛みはない。魔力をかなり使ったことは確かだが、回復は順調なようだった。
身体を起こし、周囲を見渡す。簡素な室内、カーテンで仕切られたベッド、揺れるランプの灯り。
どうやらここは、王城の医務室。意識を失ったあと、運ばれてきたのだろう。
(……みんな、無事だったかな)
あの場所は、戦場だった。
ポーションでは治らない怪我や瘴気の症状を前に、ただ必死に魔法を使った。
治すことに夢中で、最後のほうは記憶も曖昧だった気がする。
ふと、隣のベッドに視線が止まる。
薄いカーテン越しに、誰かが眠っている気配がある。
フィオナはそっと身を乗り出し、カーテンを静かにめくった。
そこにいたのは、自分と同じくらいの年頃の少女だった。
栗色の髪も、汚れていた服も――すっかりきれいになっていた。
(……この子……)
瞬間、記憶がよみがえる。
魔物が襲いかかろうとしたあのとき、瘴気を裂いて現れた、もうひとつの光――
(あの光を出した子……だよね)
確信が、静かに胸に落ちた。
でもそれだけでは終わらない。もうひとつ、別の感覚があった。
(……待って。なんで……この顔……)
眠る少女の横顔に、どこか覚えのある気配がある。
昨日や今朝ではない、もっと遠い記憶。直接会ったことはないはずなのに、心のどこかがざわついている。
何かを思い出しかけて、思い出せない――そんな奇妙な感覚だけが、静かに胸に広がっていった。
(……知ってる。どこかで、絶対に……)
フィオナは隣のベッドで眠る少女を見つめたまま、胸の奥でざわつく感覚を抱えていた。
見覚えがある――けれど、どこで会ったのかが思い出せない。
(治療院でも、街でもない。王城の中でも、出会ったことはないはず……じゃあ――?)
頭の奥で、何かがひっかかっていた。
まるで記憶の底に沈んでいた何かが、ゆっくりと浮かび上がってくるような感覚。
フィオナはそっと目を閉じ、その記憶に手を伸ばした。
(……ゲームだ)
胸の奥で、ひとつの確信が芽生えた。
この世界で記憶が目覚めてからから、ずっと胸に秘めてきたもうひとつの人生。
自分が前世でプレイしていた乙女ゲーム『まほこい』の中心にいた少女。
(この子……フェリシア)
優しくて、強くて、誰かのために戦える子。
仲間に囲まれ、信頼され、みんなに好かれる――光のヒロイン。
その彼女が、今目の前に、確かに存在している。
(たしか、ゲームではフェリシアは孤児院育ちで、家族はいなかったはず)
だけど、森では母親と一緒にいた。そして――自分はその母親の命を助けた。
ゲームでは語られなかった運命の断片。
もしかしたら、本来ならあの襲撃で命を落とすはずだったのかもしれない。
(それが、少しだけでも変わったのだとしたら)
希望が、そっと芽吹いた。
そして思い返せば――自分自身の人生にも、変化は起きていた。
光の魔法が発現したのは、本来ならフェリシアひとりだった。
でも、今は自分も光を持っている。
(本来なら、主人公だけが踏みしめていたはずの道。フィオナには歩むことができなかった道……)
それなのに。
カイル達やクララと笑い合う日々を――自分は確かに歩いてきた。
それは、誰かのための物語の中で決められていた未来を、ほんの少しでも、違う形に変えてきた証。
(少しずつ、私は運命を変えてるんだ)
光魔法を得たことも、仲間との絆も、フェリシアの母を助けられたことも――
すべて、ゲームの中ではありえなかったこと。
(未来が変えられるかもしれない!)
けれど、それはきっと、ひとりで変えてきたわけじゃない。
――アレクシスのまっすぐな言葉に支えられた。
――ユリウスの知恵に導かれ、シルヴァンの静かな眼差しに守られた。
――ジュリアンやクララの優しさに救われ、カイルの強さに何度も勇気をもらった。
自分を形作ってくれたのは、あの子たちとの日々だった。
(私が誰かの未来を変えられたのだとしたら……それは、みんながいてくれたから)
そして今、目の前に眠るもうひとつの光――フェリシア。
彼女の手の中にある未来は、これからどう形づくられていくのだろう。
フィオナは、そっと少女の顔に視線を落とす。
どこか、さみしそうな寝顔だった。
母親が目を覚ましたかどうか、フェリシアは知っているのだろうか。
光の魔法が発現する瞬間、それがどれほどの恐怖と決意を伴っていたのか。
自分も経験しているからこそ、想像がついた。
(たったひとりで、あの力を受け止めるのは……きっと、すごく怖かっただろう)
誰かの命を救える魔法。
でも、それは同時に、誰かの命が危機に瀕していた証でもある。
何もわからないまま、それでも助けたいと思ったフェリシア。
その想いに、フィオナは不思議と心を寄せたくなった。
(この子とは……きっと、また話すことになる)
同じ光を持つ者同士。
でも、それは競うためじゃない。比べるためでも、奪い合うためでもない。
ふたつの光があってもいいじゃないか。
きっと、そう思える日が来る。
カーテン越しに、医務室の灯りが揺れていた。
この小さな部屋で出会った光と光。
それはやがて、大きな運命を動かしていくのかもしれない。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。
評価やブクマなど、ひとつひとつが本当に励みになっています。これからもがんばっていきますので、よろしくお願いします!




