記されてなかった、章のはじまり 5
瘴気に沈んだ女性の胸が、かすかに上下する――その瞬間だった。
森の奥から、乾いた枝を踏み砕くような音が響く。
ぴしり、と空気が張り詰めた。
「……っ、今の音……」
フィオナが顔を上げたとき、大気を震わせる咆哮が森じゅうに響き渡った。
獣の咆哮。だが、ただの動物のものではない。
瘴気と血の臭いをまとったそれは、聞いた瞬間に背筋が凍るほどの恐怖を呼び起こす。
木々がざわめき、鳥たちが一斉に飛び立った。
地を這うような足音が、こちらへ近づいてくる。
「来る……!」
カイルが立ち上がり、剣を抜いた。
その周囲に、風が集まり始める。
そして現れたのは、黒く濁った毛並みの巨大な狼。
膨れ上がった胸、泡を吹く口元、赤黒く濁った目。
胴体には何本もの矢が突き刺さっているのに、痛みすら感じていないようだ。
「……あれが、魔物……!?」
フィオナが息を呑む。
目の前の存在が生き物ではなく、呪われた何かだと、直感で理解してしまうほどの異様さだった。
けれど、カイルは一歩前に出て、静かに目を細めた。
(完全に瘴化してるな……やるしかねぇ)
騎士団の見習いとして、何度も魔物の現場に立ち会ってきた。
低位とはいえ、自ら剣を振るって倒したこともある。
それでも――この個体の気配は桁違いだった。
魔物が咆哮とともに突進してくる。
光魔法を放っていたフィオナを狙って。
「行かせるかよっ!」
カイルは剣を振り上げ、詠唱を口にする。
「風よ、鋭き刃となれ。我が意に従い、空を裂け。一閃せよ――《風刃》!」
詠唱と同時に、空間が震えた。
彼の前方に生まれた風の渦が、一瞬にして鋭利な刃と化し――
斜めに走るようにして、魔物の横腹を斬り裂いた。
ズバン、と鈍い音。黒い体毛が千切れ、汚れた液体が飛び散る。
だが――怯まない。痛覚すらないのか、魔物はそのまま尾を振るった。
「――っ!」
咄嗟に風を蹴るようにして後方へ跳ねた。
地面を滑るように距離を取り、魔物の尾がすれすれで空を裂く。
重たい尾が地を叩き、爆音とともに砂埃が舞った。
(やばい……これ、上位に近い)
カイルの背中に汗が流れる。
後ろを見れば、フィオナの額には汗が滲み、肩が上下していた。
息も荒く、光魔法の使いすぎか――膝をついたまま、今にも崩れそうに見える。
(フィオナがあんな状態で頑張ってるのに……俺が下がってどうする!)
剣を握り直し、もう一度詠唱に入る。
「風よ、鋭き刃となれ。我が意に従い、空を裂け。一閃せよ――《風刃》!」
二度目の風刃が生まれ、空気を裂いて魔物の背を切り裂く。
今度は深い傷。魔物が唸り、僅かに体勢を崩す。
「――よし!」
その時だった。
魔物の動きが、ほんの一瞬止まった――かに見えたが。
「……っ!うそ……だろ……」
魔物の視線が変わる。
赤黒く濁った目が、フィオナを捉えた。
地を蹴った。
まるで矢のように、怒涛の速さで一直線に突進してくる。
「フィオナ――逃げろッ!」
カイルは即座に駆け出した。けれど――
(速い……っ、間に合わない!?)
風を纏っても追いつけない。
距離があった。十数メートル。それだけなのに――届かない。
焦りが喉を焼く。
胸が締めつけられる。
このままじゃ、間に合わない。
フィオナが、やられる――!
迫る魔物に、フィオナは動けなかった。
女性の治療に集中しすぎていたせいで、今すぐ逃げ出せるほどの体力も、魔力も残っていない。
目の前に横たわる命を放り出して、自分だけ助かるなんて――そんなこと、できるはずがなかった。
けれど、間に合わない。
(ああ……ダメだ……!)
絶望が胸を塞ぐそのときだった。
「やめて!!!!!!」
澄んだ少女の叫びが、森を包んだ。
風が、一瞬、止まったかのように思えた。
光に照らされていたフィオナの背後――少女が飛び出してくる。
細い体を震わせながら、フィオナと女性の前に立ちはだかるように、両手を大きく広げる。
泣きそうな顔で、それでもまっすぐ、迫る魔物を睨みつけた。
「お母さんを……この人を、傷つけないで!!」
その瞬間だった。
少女の体が、まばゆい白光に包まれた。
爆発のように広がるのではない。
朝霧の中に差し込む陽光のように、静かで、あたたかく、ただ――眩しかった。
カイルの目が見開かれる。
「……光、魔法……?」
その輝きは、フィオナが放つ光とよく似ていた。けれど、何かが違った。
もっと未熟で、もっと本能的で――だからこそ、迷いがなく澄み切っているように見えた。
魔物が、一瞬だけ動きを止める。
黒い瘴気が、光に焼かれるように少しずつ後退していく。
苦悶のような唸り声をあげ、魔物が足を止めた。
フィオナもまた、息を呑んでその光を見つめていた。
少女の足元から、まるで地面ごと浄化するように光が広がっていく。
空気が変わる。瘴気が、押し戻されていく。
(まさか……この子も、光魔法を……!?)
フィオナの胸がざわついた。
光魔法は、本来――百年に一人しか現れないはず。
けれど、今、目の前にいる彼女もまた……
(まさか……でも、この感じ……)
初めて会ったはずなのに、どこか引っかかる。懐かしいような、知っているような。
説明できないざわめきが、心の奥で波紋を広げていた。
その謎に思考が追いつく前に、魔物が唸り声とともに大地を踏みしめた。
今度こそ、本能的な恐怖に駆られてか、それとも光を消し去ろうとしたのか――
魔物は再び、少女たちに向かって突進を始める。
カイルが咄嗟に剣を構え、叫んだ。
「フィオナ、伏せろ!! 今、俺が……!」




