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悪役令嬢、チュートリアル担当の騎士と結婚したら破滅回避できました 〜攻略難易度★☆☆☆☆の彼が最高の旦那様でした〜  作者: 梅澤 空


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記されてなかった、章のはじまり 5

瘴気に沈んだ女性の胸が、かすかに上下する――その瞬間だった。

森の奥から、乾いた枝を踏み砕くような音が響く。

ぴしり、と空気が張り詰めた。


「……っ、今の音……」


フィオナが顔を上げたとき、大気を震わせる咆哮が森じゅうに響き渡った。

獣の咆哮。だが、ただの動物のものではない。

瘴気と血の臭いをまとったそれは、聞いた瞬間に背筋が凍るほどの恐怖を呼び起こす。

木々がざわめき、鳥たちが一斉に飛び立った。

地を這うような足音が、こちらへ近づいてくる。


「来る……!」


カイルが立ち上がり、剣を抜いた。

その周囲に、風が集まり始める。

そして現れたのは、黒く濁った毛並みの巨大な狼。

膨れ上がった胸、泡を吹く口元、赤黒く濁った目。

胴体には何本もの矢が突き刺さっているのに、痛みすら感じていないようだ。


「……あれが、魔物……!?」


フィオナが息を呑む。


目の前の存在が生き物ではなく、呪われた何かだと、直感で理解してしまうほどの異様さだった。

けれど、カイルは一歩前に出て、静かに目を細めた。


(完全に瘴化してるな……やるしかねぇ)


騎士団の見習いとして、何度も魔物の現場に立ち会ってきた。

低位とはいえ、自ら剣を振るって倒したこともある。

それでも――この個体の気配は桁違いだった。

魔物が咆哮とともに突進してくる。

光魔法を放っていたフィオナを狙って。


「行かせるかよっ!」


カイルは剣を振り上げ、詠唱を口にする。


「風よ、鋭き刃となれ。我が意に従い、空を裂け。一閃せよ――《風刃ふうじん》!」


詠唱と同時に、空間が震えた。


彼の前方に生まれた風の渦が、一瞬にして鋭利な刃と化し――

斜めに走るようにして、魔物の横腹を斬り裂いた。

ズバン、と鈍い音。黒い体毛が千切れ、汚れた液体が飛び散る。

だが――怯まない。痛覚すらないのか、魔物はそのまま尾を振るった。


「――っ!」


咄嗟に風を蹴るようにして後方へ跳ねた。

地面を滑るように距離を取り、魔物の尾がすれすれで空を裂く。

重たい尾が地を叩き、爆音とともに砂埃が舞った。


(やばい……これ、上位に近い)


カイルの背中に汗が流れる。

後ろを見れば、フィオナの額には汗が滲み、肩が上下していた。

息も荒く、光魔法の使いすぎか――膝をついたまま、今にも崩れそうに見える。


(フィオナがあんな状態で頑張ってるのに……俺が下がってどうする!)


剣を握り直し、もう一度詠唱に入る。


「風よ、鋭き刃となれ。我が意に従い、空を裂け。一閃せよ――《風刃》!」


二度目の風刃が生まれ、空気を裂いて魔物の背を切り裂く。

今度は深い傷。魔物が唸り、僅かに体勢を崩す。


「――よし!」


その時だった。


魔物の動きが、ほんの一瞬止まった――かに見えたが。


「……っ!うそ……だろ……」


魔物の視線が変わる。


赤黒く濁った目が、フィオナを捉えた。


地を蹴った。


まるで矢のように、怒涛の速さで一直線に突進してくる。


「フィオナ――逃げろッ!」


カイルは即座に駆け出した。けれど――


(速い……っ、間に合わない!?)


風を纏っても追いつけない。


距離があった。十数メートル。それだけなのに――届かない。


焦りが喉を焼く。


胸が締めつけられる。


このままじゃ、間に合わない。


フィオナが、やられる――!


迫る魔物に、フィオナは動けなかった。

女性の治療に集中しすぎていたせいで、今すぐ逃げ出せるほどの体力も、魔力も残っていない。

目の前に横たわる命を放り出して、自分だけ助かるなんて――そんなこと、できるはずがなかった。


けれど、間に合わない。


(ああ……ダメだ……!)


絶望が胸を塞ぐそのときだった。


「やめて!!!!!!」


澄んだ少女の叫びが、森を包んだ。

風が、一瞬、止まったかのように思えた。


光に照らされていたフィオナの背後――少女が飛び出してくる。


細い体を震わせながら、フィオナと女性の前に立ちはだかるように、両手を大きく広げる。


泣きそうな顔で、それでもまっすぐ、迫る魔物を睨みつけた。


「お母さんを……この人を、傷つけないで!!」


その瞬間だった。


少女の体が、まばゆい白光に包まれた。

爆発のように広がるのではない。

朝霧の中に差し込む陽光のように、静かで、あたたかく、ただ――眩しかった。


カイルの目が見開かれる。


「……光、魔法……?」


その輝きは、フィオナが放つ光とよく似ていた。けれど、何かが違った。

もっと未熟で、もっと本能的で――だからこそ、迷いがなく澄み切っているように見えた。

魔物が、一瞬だけ動きを止める。

黒い瘴気が、光に焼かれるように少しずつ後退していく。

苦悶のような唸り声をあげ、魔物が足を止めた。

フィオナもまた、息を呑んでその光を見つめていた。

少女の足元から、まるで地面ごと浄化するように光が広がっていく。


空気が変わる。瘴気が、押し戻されていく。


(まさか……この子も、光魔法を……!?)


フィオナの胸がざわついた。


光魔法は、本来――百年に一人しか現れないはず。


けれど、今、目の前にいる彼女もまた……


(まさか……でも、この感じ……)


初めて会ったはずなのに、どこか引っかかる。懐かしいような、知っているような。

説明できないざわめきが、心の奥で波紋を広げていた。

その謎に思考が追いつく前に、魔物が唸り声とともに大地を踏みしめた。


今度こそ、本能的な恐怖に駆られてか、それとも光を消し去ろうとしたのか――

魔物は再び、少女たちに向かって突進を始める。

カイルが咄嗟に剣を構え、叫んだ。


「フィオナ、伏せろ!! 今、俺が……!」

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