記されてなかった、章のはじまり 2
「こっちに運べ! 意識がない、瘴気にやられてるぞ!」
治療院の中は、本来あるべき姿とはかけ離れた、戦場のような惨状だった。血の匂い、嗚咽、叫び、呻き。混ざり合う声と臭いの渦の中、ポーションの瓶が転がり、床には血や泥、破れた布があちこちに散らばっている。誰かの靴が脱げ、焼け焦げたマントが壁にもたれかかっていた。
担架の上で呻く兵士。泣きながら子どもを支える母親。目を見開いたまま意識のない若者―― 命がこぼれそうな人々が、次々と治療院に運び込まれていた。
「軽傷は奥! 呼吸が乱れている者は処置台へ。瘴気と出血がある患者は最優先だ、すぐに診ろ!」
治療師の怒号が飛び交う中、看護師たちが奔走する。だが明らかに人手が足りず、処置は追いついていない。フィオナも、その流れの中にいた。
けれど――
(怖い……)
足元で、血の混ざった水がにじむ。痛みを訴える声が重なり合い、視界がゆがむ。
(これが……現場……)
前世で災害医療の実習映像は見た。けれど、実際にその場に立つことはなかった。今、目の前にあるのは「映像」ではなく、「現実」だ。
鼻を突く臭い。湿った血。焼けた布の焦げ。呼吸が浅くなる。胸が苦しくて、喉が渇く。
(逃げたい……今すぐ……)
でも、その思いと同時に、脳裏にはこの世界で学んだ知識がよみがえる。
――瘴気。それは、魔物がまとう黒い霧のようなもので、身体に取り憑いて蝕む毒の一種。
第一段階は接触による軽度症状で、吐き気やめまい、微熱程度。第二段階になると皮膚や粘膜に入り込み、発疹や呼吸困難が現れる。ここまでは回復可能だ。
だが第三段階、瘴気が血流や内臓に達すると治療が難しくなり、最終の第四段階『瘴化』では神経を侵し、意識の喪失や痙攣を引き起こす。この状態からは、光魔法以外に救う術がないとされてきた。
(……私が、逃げたら……)
「お姉ちゃん……」
か細い声が、袖を引いた。見ると、小さな子どもがフィオナを見上げていた。唇を噛んで、必死に涙をこらえている。
(……私は、光魔法を持ってる)
(だったら、やらなきゃ――誰もができることじゃない)
息を深く吸い込む。恐怖が消えたわけじゃない。けれど、目の前で助けを求める人を前に、フィオナは一歩を踏み出すことを選んだ。
「この方は意識があります。あちらへ……! この子は熱が高すぎる。瘴気かもしれません!」
声を張った。緊張で喉が震える。でも、確かに通じた。看護師が頷き、すぐに指示を飛ばす。
(わたしにできることを、一つずつ)
フィオナは額の汗をぬぐいながら、処置台へと向かった。
「先生、この人……ポーションが効きません!」
叫ぶ声に、フィオナはすぐさま反応した。駆けつけた先にいたのは、腹部を押さえながらぐったりと倒れる中年の男性。顔は蒼白、呼吸は浅く、手足が痙攣していた。
治療師のひとりが、血相を変えて振り向く。
「すでにポーションは二本使ったが、熱も下がらず、意識も戻らないんだ!」
「水魔法で冷やしても、反応なしです……!」
フィオナは男性の様子を見て、すぐに気づいた。
(これは……瘴気の第三段階。血流か、もしかすると内臓まで入り込んでる)
第三段階は境界線。見極めと決断の遅れが、命の生死を分ける。
フィオナは男性の腹部に手をかざし、スキャンを発動する。淡い光が指先から流れ込み、患者の体内構造が脳裏に浮かび上がる。
(……小腸のあたり。黒い影。内臓に侵食してる。でも、まだ神経には届いてない)
今なら、間に合う。
「私がやります!」
フィオナはきっぱりと言い、患者のそばに膝をつく。現場の誰もが一瞬動きを止めたが、彼女の真剣な眼差しに言葉を呑んだ。
(迷ってる時間はない。できるかじゃなくて、やるしかない)
深く息を吸い、詠唱を開始する。
「熱を包み、奥の炎を鎮めて――」
思い描くのは、体内を暴れるようにうごめく瘴気の黒炎。それを柔らかな光で包み込み、静かに冷ますようなイメージ。光の魔法は、癒しであると同時に、浄化でもある。
「やさしい光よ、届いて……」
患部の奥深くへ、想いと魔力を重ねて送り込む。
「静癒」
ぱ、と光が灯った。
金色の輝きがフィオナの掌から広がり、患者の腹部をやわらかく包み込む。その光は、鋭さではなく、あたたかさを持っていた。ほどなくして、スキャンで見えた黒い影がすうっと薄れていく。
患者の呼吸が整い、全身の強張りが緩んでいく。
「……う……ぁ……」
開かれた目が、ゆっくりとフィオナを見た。
「……助かった……のか……」
その瞬間、周囲の空気が変わった。驚きと戸惑いが入り混じったまま、治療師がぽつりと呟く。
「……瘴気が……本当に……消えた……?」
治療師のひとりが、信じられないというようにぽつりと呟く。看護師も、患者の傷ではなく、その空気に目を凝らしていた。
「……見間違いじゃない……あの黒い瘴気が、消えた……」
「光魔法って、こんなふうに……浄化するんだ……」
今まで光魔法の力を理屈で知っていた者たちが、その"現象"を初めて目の当たりにし、口々に驚きを漏らす。
患者の隣にいた少女が、小さく震えながら言った。
「……お姉ちゃん……光の人、なんだね……」




