記されてなかった、章のはじまり 1
真夏の陽射しが、診療所の窓から容赦なく差し込んでくる。
王都の外れにあるこの治療院は、城下町で暮らす人々の拠り所だった。貴族たちは屋敷に治療師を置いているが、ここは日々の生活に追われる町の人々にとって、なくてはならない場所だ。
「はい、この包帯で大丈夫。お薬は、看護師さんから受け取ってくださいね」
白衣姿の看護師に代わり、フィオナが患者に声をかける。彼女は治療院用に用意された、淡い灰色の作業着を身にまとっていた。今日も診療補助として朝から手伝いに入っている。
机の上のノートには、患者ごとの症状や対応が丁寧に記されている。子どもの擦り傷、働き手の腱の痛み、季節の変わり目のだるさ――軽傷から慢性まで、多種多様な訴えが飛び込んでくる。
「フィオナちゃん、こっちの子、ちょっとお腹が痛いみたい。診てもらえる?」
「はい。こんにちは、どこが痛いの?」
ベッドに座った少年が、小さくお腹を押さえる。
(このあたり……右下の腸が少し腫れているかも……)
光魔法を使うまでもない軽度の痛み――けれど、位置や痛みの出方を丁寧に観察しておく。スキャンのように患部が頭の中でぼんやりと光るイメージが浮かび、そこにそっと手を添える。
「おなかの調子を整えましょうね。今日は刺激物は避けて、消化の良いものを少しずつ食べるといいわ」
少年が小さく頷くと、母親が「ありがとう」とほっとしたように頭を下げた。
「まったく、フィオナちゃんが来てくれると助かるわねえ。先生より頼りになるって評判よ」
「そんな、わたしなんてまだまだ……」
頬を染めながらも、内心では少しだけ誇らしかった。ここでは"お嬢様"ではなく、仲間の一員として扱ってもらえる。それがうれしかった。
――その時だった。
診察室の扉が、激しく開かれたのだ。
「院長先生! 南東の森に、魔物が出ました!」
兵士の荒い息とともに、言葉が飛び込んでくる。室内の空気が一気に凍りついた。
「瘴気に侵された獣型――狼と思われる魔物です。体長は人の二倍以上、目は濁り、異様な牙と爪……。たった一匹ですが、瘴気の濃さと反応の鋭さは、並の魔物とは段違いです!」
「魔物……? 王都の近くで?」
フィオナの口から思わず声が漏れる。魔物――それは瘴気という有毒な気配を纏い、人や動植物に異常をきたす異形の存在。
「城壁の外で作業していた住民、複数名が瘴気にさらされ、体調に異変をきたしています!」
報告が終わらぬうちに、別の扉が勢いよく開かれた。
「お願い、誰かこの子を……!」
担ぎ込まれてきたのは、顔色の悪い少年。目を閉じ、ぐったりと力を失っている。抱えた母親が必死に助けを求める声に、看護師たちがすぐさま駆け寄る。
「こっちのベッドを空けて! キュアポーションの準備を!」
「この方も瘴気に? 早く水を――」
次々と運び込まれてくる人々に、治療院は瞬く間に騒然となった。患者たちを保護するように、看護師たちが手際よく動く。
院長が叫ぶ。
「まだ瘴気はこの辺りまでは来ていない! だが患者が運ばれてきている以上、油断するな!
空気の巡りを確保しろ、風魔法が使える者は今すぐ空気を回せ!
瘴気が溜まらないように、常に巡らせておくんだ!」
非常時の段取りが次々と伝えられ、いつもの静けさはすでにそこにはなかった。
フィオナはノートを脇に抱え、ぐっと唇を引き結ぶ。
(魔物……瘴気……。今、わたしにできることは……)
恐怖よりも先に、彼女の中には不思議な決意が芽生えていた。
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