運命の、ちょっと前 6
案内された先は、処置室に近い中待合だった。フィオナが見学用の白衣に着替えていると、どこか慌ただしい声が聞こえてくる。
「男の子が転倒して足を痛めたそうです。膝を擦りむいて、少し腫れているようですが……」
扉の向こうから、少年の泣き声と母親の慌てた声がかすかに響いてきた。
看護師がふとフィオナを見る。
「せっかくですし、処置の見学をなさいますか?」
「はい、ぜひ!」
頷いたフィオナの胸は、少しだけ高鳴っていた。
この世界に来て初めての医療現場だ。
ドアを開けた先には、白衣の治療師が淡々と処置の準備をしている姿があった。
ベンチに座らされた少年は、泣きじゃくるのをこらえながら、足を前に投げ出していた。膝に擦り傷が数本、あとは少し赤く腫れている。
「ひどく泣き止まなかったんです。もしかして骨でも折れてたらと思って……」
付き添ってきた母親が、申し訳なさそうに治療師へ頭を下げた。
「大丈夫ですよ。念のため、腫れ具合と皮膚の状態を見ておきましょうね」
治療師は穏やかに笑いながら、洗浄液と包帯を手に取った。
「このくらいならポーションは使いません。治療費が余計にかかりますからね。それに、擦り傷なら自然治癒の方が早かったりもします」
「自然治癒を大切にするんですね」
「そうです。魔法やポーションは万能ではありません。体本来の力を引き出すのも、私たち治療に関わる者にとって、とても大切なことなんですよ」
そう言いながら、治療師は丁寧に少年の傷口を拭い、滅菌ガーゼを当て、包帯を巻く。
魔法も使わず、淡々と。けれどその動きは迷いがなく、傷口の様子も、痛みに怯える少年の表情も、きちんと見ている。
(……すごい。テキパキしてるのに、やさしい)
処置が終わるころには、少年の顔にも少しだけ笑顔が戻っていた。
「おしまい。えらかったな」
治療師がにこっと笑いかけると、少年はちょっと照れたように「ありがとう」と言った。
フィオナは、その一連の光景を胸に刻み込むように見つめていた。
(魔法がなくても、誰かを助ける手って、あるんだ)
知らなかった世界。
前世では当たり前だった光景が、今の彼女にはまぶしく思えた。
♢♢♢
処置室の片隅で、フィオナは清拭用の布を畳んでいた。患者たちの対応を見学しながら、こうして手伝いもしている。見ているだけじゃ、学べることに限りがあるから。
そのとき、受付のほうでひと際はっきりとした女性の声が聞こえた。
「すみません、あの……時間、少しかかりますか?」
振り向くと、入り口に立っていたのは二十代半ばくらいの女性。リネンのエプロンをつけたまま駆け込んできた様子で、顔色が悪い。
「どうされましたか?」
看護師が近づくと、彼女は申し訳なさそうに眉を下げた。
「……ちょっとお腹が痛くて。でも、今、店が忙しくて……あんまり長くはいられなくて……」
「わかりました。すぐ診ますね。こちらへどうぞ」
案内された簡易の診察スペース。フィオナも、遠慮がちにその様子を見守る。
女性は小柄で華奢だったが、手には調理でできたと思われるやけどの跡がいくつもあった。治療師が問診しながら腹部を軽く押す。
「……右下腹部に痛み、ですか。熱は微熱程度。食欲は……あまりない、と」
「でも、もうすぐランチのピークが来るんです。できれば薬だけ出してもらって……」
彼女は立ち上がろうとしたが、体を起こした途端、ふらりと前に倒れかけた。
「っと、無理しないでください」
治療師が支え、ベンチに座らせる。
「これは……疲労による胃腸炎か、単なる風邪の一種でしょう。休めれば治ると思いますが……」
そう言って薬の準備を始めたときだった。
フィオナは女性の苦しそうな表情に何か引っかかりを感じていた。前世での看護の知識が、単なる疲労とは違う何かを警告しているようだった。確かめたい——その衝動は、彼女の中から自然と湧き上がってきた。
フィオナは、そっと女性のそばに歩み寄り、声をかけた。
「……少しだけ、手、握ってもいいですか?」
「え?」
「すぐに終わります。ほんの少しだけ」
女性が戸惑いながらも頷いたので、フィオナはその手をそっと包み込む。その瞬間――魔力が反応し、彼女の中へと流れ込んでいった。
(……これは)
まぶたの裏に、うっすらと女性の身体の内側が浮かんでくる。血の流れ、胃のゆるやかな動き、そして――右下腹部。そこだけが、白く、チカチカと明滅するように光っている。
(あそこ、なにか……ある?)
ただの疲れにしては、光が鋭すぎる。違和感というより、警告のように思えた。
フィオナは、思わず治療師の腕をそっと引いた。
「先生、あの……もう一度、右下のお腹を診ていただけますか? たぶん……中の方、炎症があるかもしれません」
治療師は驚いたようにこちらを見たが、再び診察に戻る。
「……たしかに。押したときの反応が少し強いですね」
治療師はしばらく考え、棚から杖のような術具を取り出した。
「これは光晶診杖。魔力を通して、体内の構造を映し出せる診断用の術具です。でも、魔力消費が激しいので、あまり使うことはありません。……ですが、フィオナ様がそこまで言われるなら」
淡く発光する光晶診杖が、女性の腹部を照らす。空中に浮かび上がったのは、ぼんやりと腫れて揺らめく虫垂の影――初期の炎症が、確かにそこにあった。
「盲腸炎の初期ですね。気づくのが遅ければ、悪化していたかもしれません」
治療師が静かに言い、棚から中級キュアポーションを取り出そうとした、そのとき。
「先生、ちょっと待ってください……」
フィオナがそっと声をかける。
「わたしの魔法で、試してみてもいいですか?」
女性も治療師も驚いたようにフィオナを見る。
「もちろん、ちゃんと効くかはわかりません。まだ練習中なので……」
「でも、もしうまくいけば、ポーションを使わずに済むかもしれません」
女性が不安そうに視線を揺らすと、フィオナはそっと微笑んだ。
「大丈夫です。わたしが責任をもってやります。……それと、もうひとつお願いが」
少しだけ声をひそめて、フィオナは言った。
「……あの、実は光魔法なんですけど、まだ、練習中で……うまく使えるか分からないので……
それに、あんまり知られちゃうと、ご迷惑になるかもしれないし……
だから、今回は――秘密の魔法ってことで、お願いします!」
ちょっと照れながら、指先を軽く唇に当てるしぐさ。
それを見た女性は、ふっと表情をゆるめて、こっそりと頷いた。
フィオナは静かに手をかざし、そっと目を閉じる。
息を整えて、魔力の流れに意識を集中させ――ゆっくりと言葉を紡いだ。
「熱を包み、奥の炎を鎮めて――
やさしい光よ、届いて……
静癒」
指先から、やわらかな光がふわりとこぼれた。
それは炎症を起こした腹部に吸い込まれていき、
あたたかく包み込むように、ゆっくりと広がっていく。
「……なんだか、さっきより楽になった気がします」
女性がぽつりとつぶやいた。
治療師が再び診察を行い、ほっと息をつく。
「腫れも和らいできていますね。どうやら、このまま安静にしていれば回復に向かうでしょう」
そう言ってから、フィオナの方を見た。
「……お見事でした。フィオナ様のおかげです」
フィオナは一瞬きょとんとしたあと、ぱっと表情を綻ばせた。
「よかった……!」
心の中で、小さな灯りがぽっとともるような感覚があった。
それは"気づいた"こと、"試してみた"こと、そして"役に立てた"ことへの――ささやかな、でも確かな実感。
(よし、もっと上手になろう)
そっと心の中でつぶやいて、フィオナはこっそり、ガッツポーズをきめた。
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