運命の、ちょっと前 5
「父さま、お願いがあります……」
書斎の窓から差し込む日差しは、もうすっかり夏のものになっていた。若葉は濃い緑に変わり、庭のバラも満開を過ぎて色あせ始めている。
フィオナは淡い水色の軽やかなドレスに身を包み、父の机の前に立っていた。飾り気は少ないけれど、上質な布地の光沢が、彼女の静かな気品を際立たせている。
父は書類に目を落としたまま、穏やかに返す。
「ん? どうした、そんな真剣な顔をして」
「えっと……治療院に、行ってみたいんです」
声が少しだけ上ずってしまい、フィオナは胸の前で手をぎゅっと握った。
「ジュリアンに勧められたの。光魔法を伸ばすには、もっと人を治す現場を見た方がいいって……。私も、そう思うし、まだまだ知らないことばかりで、ちゃんと学びたいんです!」
父の眉がほんの少しだけ動く。一瞬、返事がなくてどきどきしたけど――
「……そうか。いいだろう」
「……えっ、ほんとに!?」
思わず声が弾む。父はふっと笑って、頷いてくれた。
「無理のない範囲でな。興味を持つのはいいことだ。ちゃんと見て、学んでおいで」
「うんっ! 行ってきます!」
両手でスカートの裾をつまんで、フィオナは勢いよくぺこりとお辞儀した。
その日の午後。エルディア家の馬車が、王都の外れにある治療院へと向けて走り出した。
♢♢♢
「……馬車って、こんなに揺れたっけ」
窓の外を眺めながら、フィオナは小さく呟いた。
普段は家の中や庭で過ごすことが多いから、こうして街中をゆっくり見るのは久しぶりだった。道端には屋台が並んでいて、焼きたてパンの香りや果物の甘い匂いが風に乗ってくる。
「わあ……あのお店、瓶がずらーっと並んでる。ハチミツかな? あっ、あのカフェ、看板が前と変わってる!」
つい窓に顔を寄せてしまい、そばにいた侍女に「お嬢様」と軽くたしなめられる。「ご、ごめんなさい」と姿勢を直しつつも、頬のゆるみは戻らなかった。
(ふふ……楽しいな、こういうの)
道行く人たちの笑い声や、子どもたちが遊ぶ姿――。どこか懐かしい風景に、胸の奥があたたかくなる。
(ポーションとか、治療院とか……)
(私の魔法って、どこまで役に立つんだろう?)
……ううん、考えるより、まず見てみよう。何かヒントが見つかるかもしれないし。
「お嬢様、到着しました」
扉が開いて、フィオナは外に降り立った。
目の前に広がるのは、白くて整った石造りの建物。赤い屋根が春の青空に映えている。庭には薬草の鉢や、よく手入れされた花壇。人が多く出入りしていて、ちょっとだけ騒がしい。けれど、不思議と落ち着いた雰囲気があった。
「ここが……治療院」
ごくり、と小さく喉が鳴る。
ちょっとだけ緊張して、でも心のどこかはわくわくしていた。
(よし、行ってみよう)
軽く息を吸い、フィオナは建物の中へと足を踏み入れた。
中は、想像よりもずっと静かだった。
薬草と消毒液が混ざったような香り。磨かれた床と、整然と並ぶ椅子や棚。廊下を行き交う人たちはみんな白衣を着ていて、穏やかな声で患者さんに話しかけている。
(へぇ……なんだか、きちんとしてて落ち着くな)
目をきょろきょろさせていたフィオナに、やわらかな声がかけられた。
「フィオナ様でいらっしゃいますか?」
奥からやってきたのは、優しそうな女性だった。白衣に身を包み、きれいにまとめた髪に笑顔がよく似合っている。
「あ、はい! フィオナ・エルディアです」
「ようこそ。お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
案内されながら、フィオナはちらりと後ろを振り返った。ドアの向こう、外の光が差し込んでいる。
その先には、知らなかった世界が広がっている気がした。
(この中で、私にできることって、何があるんだろう)
そんなことを思いながら――フィオナは、静かに歩き出した。
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