運命の、ちょっと前 3
爽やかな風が頬を撫でる午後。エルディア公爵家の一室で、フィオナ・エルディアはぴしりと背筋を伸ばして座っていた。
王妃教育が始まって三年。今も続いてはいるけれど、ひとまずの節目を迎えたことで、久しぶりにエルディア邸での授業が再開された。
(やっぱり……マークス教授の授業って、特別なんだよな)
厳しくて、うるさくて、偏屈で。なのに、なぜかまた受けたくなる――そんな不思議な授業。
(久しぶりに、本物の魔法の授業って感じがする……)
ギィ、と重たい音を立てて扉が開いた。
「ふん、久しぶりだな」
ステッキをつきながら入ってきたのは、白銀の髪とモノクルが特徴の老紳士。相変わらず不機嫌そうな顔をしている。
「王妃教育が一段落したらしいな。……ん?なんだ、その真面目くさった顔は」
「えっ、そ、そんな顔してます……?」
「してるな。だが、机の上はきれい、ノートは開かれている。やる気はあるようだ。さて、どこまで覚えているか、確かめてやろう」
授業が始まると、マークスの口からは次々と理論の言葉が飛び出してくる。
「詠唱は、魔力と想像を結びつける橋のようなもの。魔法の安定性は、それにかかっている」
「は、はい。えっと、言葉にすることで魔力が形になって……感覚に頼ってる人は、この橋を省略しやすくて……」
「ふむ、そこまでは覚えているか。では次。属性による魔力伝達効率の差異――」
「えぇえっ!?」
怒涛の講義に、フィオナのノートはすぐにびっしりと埋まり、頭からは湯気が立ちそうだった。
「先生、もう……へろへろです……」
「十五分、休憩だ。その後、実践に入る。……席を外すぞ」
休憩が終わり、再び扉が開く。マークス教授の後ろには、見慣れない中年の男性――庭師の姿があった。
「……あの、先生? この方は……?」
「この男は、庭の手入れ中に脚を負傷したそうだ。下級ヒールポーションでは治らなかった。本人の了承を得て、治癒魔法の実験対象になってもらった」
「じ、人体実験ってことじゃ……」
「治れば問題ない。では、やってみろ」
フィオナは息を整え、庭師の前にひざをついた。
「足の、どのあたりが痛いですか? 動かしたときに、どこに響きます?」
「……膝の外側、ここらへんがズキズキしてて……。立とうとしたり、体重かけるとズーンって響くんです。曲げるのも少し……うっ、痛たた……って感じで」
「わかりました。無理に動かさなくて大丈夫です。少しだけ、確認しますね。触りませんから」
ズボンの裾をそっとまくり、腫れや内出血の広がりを目で追う。患部の形に大きな異常はないものの、熱を帯びている気配と、腫れの様子からして軽度の骨折が疑われた。
フィオナは触れるか触れないかの距離で手をかざし、身体の反応と魔力の流れを探る。痛みが集中している場所を静かに見極めると、掌にふわりと光を宿らせる。
「……必要なところにだけ、ちゃんと届いて……やさしく、治ってくれますように」
淡い光がふんわりと患部を包みこみ、春の陽だまりのようなあたたかさが、男性の膝に広がっていった。
「……どうでしょう?」
男性はおそるおそる膝を動かし、驚いたように目を見開く。
「……え。痛くない。ほんとに、動く……すげぇ……!」
「……なぜ、すぐに魔法を使わなかった?」
静かな声で、マークスが尋ねた。
「え……?」
「患部を調べ、様子を聞き、魔力を絞るように使った。随分と慎重な手順を踏んだな。なぜだ?」
フィオナは少しだけ考えてから、答える。
「ちゃんとどこが悪いかを知らないと、正しく治せる気がしなくて……。光魔法は、全部を包むよりも、必要なところに使った方が、効率もよくて、身体への負担も少ない気がするんです」
マークスはしばらく黙り、モノクルを押し上げた。
「……魔力の集中と制御。それ自体は理論として存在している。だが……」
モノクルを押し上げ、ぶつぶつと言いながらマークスは椅子に腰を下ろす。
(……先生、思考の迷宮に入りましたね)
フィオナはそっと庭師の男性を見た。
「……あの、大丈夫です。先生、熟考すると夕食も忘れるタイプなので。お仕事に戻られては?」
「え、マジで?……じゃあ、私は逃げま、いえ、仕事に戻ります……」
思考の迷宮へ旅立ったマークスを残し、ふたりは静かに部屋を出て行った。